第1回 馬場小室山ワークショップ開かれる

12月26日(日)

鈴木さん、わらびさんの主催で、第1回馬場小室山ワークショップが開かれた。午後1時すぎ、小室神社の前で鈴木さんご夫婦、わらびさんたちに会う。きょうのワークショップの参加者は15人ほどだという。

まず鈴木さんの案内で地図を片手に、中央低地を取り囲むように環状に5つ並んだ盛土遺構のある地域をひとまわり歩いた。小室神社から小室山の市有地部分に入る。中央の低地を通って北側の高台に登る。ここは5つの環状盛土の中で一番高いところ。この盛土に隣接した住宅地からは多くの住居跡重なって出て来ているとのこと。

写真右の住宅の敷地の中に、県指定文化財「人面画付土器」の発見された51号土坑があった。

正面の高まりが、環状盛土遺構のうちで最も高い北側の盛土。立っているところはくぼ地部分。

農家の庭先をお借りして、10月下旬に小室山の工事現場から救出された土器を並べて見る。土器は発見された日付ごとに分けられていて、行き先がはっきりするまでは洗わないという。土器についた泥を手で落としながら出て来た模様を見る。斉藤さんが、「加曾利B」とか「堀之内」とか土器のつくられた時代をつぎつぎと言っていく。

4時頃、学習塾の教室に会場を移して鈴木さん、斉藤さんの話を聞く。配布された資料の中のグラフを示しながら、最近の研究成果が紹介された。

「縄文後期は、遺跡の数はかなりあるにもかかわらず発見される竪穴住居の数が極端に少ない。これまでの調査の方法は赤土の出てくるところまで表土をどけて赤土の中に残された黒土から柱や炉の跡を推定していた。この方法だと、土を盛ってつくった住居跡は発見できない。縄文後期の住居跡の発見数が少ないのは、盛り土をした上に建てられることが多くなったからだろう」という話を聞いた。馬場小室山の環状盛土遺構も、縄文中期の住居跡の上に盛り土をして作られた住居跡だったわけだ。最初に配られた地図には、ここの土を削って運んだのだろうという場所も示されていた。

□棒グラフが遺跡の数。

●折れ線グラフが発見された竪穴住居跡の数。

国立歴史民族博物館研究報告

第112集 2004年2月

話を聞いて、なるほどとそうなのかという気になった。しかし、小室山のように何層にも重なった住居跡をよくも掘りだせるものだ、と素人なりに感心し、「馬場小室山カレンダー」の写真を思いだしていた。

「2005年馬場小室山カレンダー」

カレンダーの写真には何層にも重なった住居跡と、大な柱の立っていた大穴の写真が載っている。正面に見える立木の向こう側にも盛土遺構の続きが広がっているが、時間切れで発掘調査は表層しかなされなかった。

カレンダーには調査が強制終了となった9月30日は「馬場小室山の日」とある。

ASA東浦和販売店作成 「馬場小室山カレンダー」より

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