おばあさんの語学留学記

包先生の死・・・大連でお世話になっている包先生の突然の死に直面して

2001年9月8日記入

9月の始め、包徳政先生(大連大学教授を定年退職、日本語は日本人と間違える程上手)が連絡なしに突然私のところに来られました。
「今日は貴方の誕生日でしょう。おめでとう。」
「どうして知っておられるのですか?」
「パスポ-トをみました。」
このような会話をしながら、直形30cmもある大きなバースデイケーキを頂きました。余りに大きくて食べきれないので、皆を呼ぶ事にしました。12〜13人程が集まりました。何処の国もハピバースデイ・ツウ・ユウの曲は同じで、言語だけが違うので賑やかでした。

それから20日程たったある日のこと、包先生の奥様から電話が有りました。
「今、夫は意識不明で入院しています。日本人から手紙がきていますが分らないので困っています。」
驚きました。先生は日本の知人が来たので空港まで迎えに行き、ホテル迄案内して話しをしているときに倒れられたそうです。
先生は日本が統治していた時代に日赤病院と呼ばれていた病院に入院されていました。私はタクシーに乗って病院へ急ぎました。運転手さんが
「誰か病気ですか?」
と尋ねたので、
「お世話になった中国人の先生が入院されているのでお見舞いに行くのだ。」
と説明しました。そうしたら、中国語は難しい・・・・・運転手さんは日本からわざわざお見舞いに来たのだと間違えて、
「タクシ-代はいらない。」
といって受け取ってくれません。いくら説明してもどうも意味が通じないみたいで、とうとう半分だけ受け取ってもらうことにしました。

今熊野難波金岡資料館

語学留学資料室

病院の中に入りましたが、病名も部屋も聞いていませんでした。同じお名前が沢山ありましたので困ったな?と思いましたが、大連大の教授といえば直ぐに判りました。13階です。そこのエレベータで行けばいいと教えられました。エレベータの前で待っていましたが、なかなか乗れません。だいぶん待ってようやく乗れそうだったので乗ろうとしましたら、
「日本人は嫌いだから乗るな。」
と言って扉を閉められました。それを薬局の中から見ていた人が出てきて、
「私が一緒に行きます。」
と言って13階まで乗ってきてくれました。先生は意識不明で眠りつづけておられました。

1週間後の朝早く、電話で包先生の死を知らされました。斎場に行くと沢山の人が各々の部屋で悲しんでいました。部屋の前に名前が貼ってあります。私は服装に困りました。”だいえい”に聞きにいったら、
「普通で良い。」
と教えてくれました。でも・・・・・余り持っていない服の中から紺色のスーツを着ることにしました。香奠を持って行く習慣が有るのかどうか、聞いてみました。あまりそのような習慣は無いが、持って行く人もいるらしいとのことでした。
斎場に行って気が付いた事ですが、宗教が無いのでお坊さんが居ません。だからお経がありません。御遺体の回り(高い寝台みたいなもの)をくるくる回るのです。
包先生は洒落た帽子を冠り、ロイド目がねをかけておられました。生きているように見えました。時間が来ると順番に焼き場に運ばれて行きます。本当に悲しい出来ごとでした。