ある日の会話

                                 木下信一

 昨日、やっとホームズを全部読んだんだ。そう、最後が『恐怖の谷』でね。え?
「ノーウッド」と「踊る人形」は、だって? 確かにさあ、その二つは読んでない
よ。でも「ノーウッド」はリライトで読んだし、テレビでも見たんだからいいじゃ
ないか。「踊る人形」だって、もうネタは知ってんだし、読んだということにして
くれないか。
 ホームズを最初に読んだのが十八だから……、七年がかりか。ほんと長かったな。
『ホームズの事件簿』なんて、もう一生読めないんじゃないかって覚悟してたよ。
新潮の短篇集じゃ、どうも読む気がしなくてね。解るだろ、あの『占星術殺人事件』
みたいな短篇集。
 そうなんだ。普通なら小学校でホームズ体験だろ。それからミステリに入ってく
じゃないか。僕だってさ、中学校でホームズは読んだはずなんだ。でも、高校に入
ってからはどうも人殺しからは離れてしまってね。じゃあ何を読んでたかって? 
何だったんだろうな。いろいろ読んでたのは確かなんだ。ただ、何かってなると思
い出せない。覚えてるたった一つの本が『知的生産の技術』だっていうんだから呆
れてしまう。あ、そうそう、『モルグ街』読みかけて挫折したんだ。その辺に岩波
文庫が転がってるよ。
 大学に入ってからかな、ミステリを読みだしたのは。ああ、ホームズじゃないよ。
読みだした原因は評論なんだ。それと、英語かな。ホームズは『緋色の研究』と
『四人の署名』だけで、あとはついこの間まで読まなかったな。
 実作より先に評論を読んだっていうんだから、考えたらおかしな話さ。それも今
考えたら結構ラジカルな本でね。『黄色い部屋はいかに改装されたか』なんだ。君
も読んだろ。ミステリ読む前にこの本だもの、「推理小説ってこんなものか」って
思ったって不思議じゃない。この本の影響で、未だに『ユダの窓』は読んでないよ。
それと、この時期にさ、松田道弘と泡坂妻夫のエッセイに凝ってしまったんだな。
これって決定的だろ。
 最初に読んだ本? これが、『平将門呪殺事件』なんだ。ちょうど『黄色い部屋』
のエッセイのあとで同じ都筑さんの『死体を無事に消すまで』を読んだんだよ。そ
れでさ、『七十五羽の烏』をどうしても読みたくて、図書館で探したところ見つか
ったのが『平将門』というわけ。
 もともとが理系だろ、論理が大好きだしさ、子供の頃からスライハンド・マジッ
クが好きだったからね。あとはこの系統ばっかり。でも、そんなに読んでもないけ
どね。『七十五羽の烏』のあと物部太郎ものをよんで、都筑道夫の長編は読まなく
なったな。安楽椅子を読みだしたんだ。この頃に感動した短篇が「九マイル」。そ
のあと『ママ』に『退職刑事』を読んでね。どうしてか『ザレスキー』と『隅の老
人』は読んでないな。
 評論からミステリに入っただけに、今でも評論は読んでるよ。元の小説を読んで
なくても結構楽しいのが多いし。
 英語? そうそう、英語なんだよね。これも読みだした原因だった。
 ほら、大学ってさあ、入学してからちょっと経つと学力ががたんと下がるじゃな
い。もともとあるかないかの英語力だったけど、これ以上下がったらたまったもん
じゃない。無理してでも英語を読んでったら、少しは……なんて考えてね。
 最初に読んだのは童話だった。自信がついて、大人の本を、と探すとミステリに
なるんだよね。最初クリスティに挑戦して挫折したけど。
 最初に読み通したミステリはE.X.ジローだったよ。うん、ポケミスでも一冊
だけ訳が出てるだろ。あの人の書いた二作目なんだ。『死を恋人に』っていう題だ
った。七十ページくらいまで人が死ななくてね、ほんと、読むのやめようかなんて
思ったんだけど、やめる気にもなれないんだ。小説としても面白かったんだろうね。
解決にしても大がかりなトリックはないけど、たった一つの手がかりから謎が解け
ていって、「推理小説を読んだ」って満足できる作品だったな。この人には凝って
ね。五作目までは読んだんだけど、六作目からがどうしても手に入らないんだ。気
がついたら見といてくれないか。いくらかエクストラ付けて買うからさ。
 言い訳するんじゃないけど、こんな原初体験なら読む本が片寄ってもしかたない
と思わないか。どうしても論証の面白い物を探してしまうよ。でも、なかなかない
んだよねえ、そんな本は。「奇想天外なトリック」っていっても肝心の探偵さんが
説明するだけで証明の過程がまったくないんだから。
 え? いい本があるって? ちょっと見せて……ほう、これはこれは。借りても
いいかな? エッセイのネタにちょうどいいや。うん、ちゃんと会誌が出るまでに
は返すよ。


目次へ