第五定理

                                 木下信一

 『四つの署名』の中でホームズは、ワトスンの書いた『緋色の研究』を「ユーク
リッドの第五定理に駆け落ち物語を持ち込んだ」ような物だと酷評している。この
あとワトスンが反論するわけだが、どうしてここでユークリッドの第五定理が出て
きたのだろう。少しこのことについて考えてみたい。

 ベアリング=グールド編『シャーロック・ホームズ全集』の中のこのくだりでは、
註として「ホームズは例として第五定理を挙げただけで他のどの定理でもよかった。
なぜなら、他の定理ではいけないという理由が見いだせないから」というような意
味の説を紹介している。しかし、果たしてそうなのだろうか。自分にはどうしても
そうは思えない。
 普通の人間が例を挙げるとき、挙げ方には二通りある。一つはやや抽象的な一般
名詞を持ってくる方法、もう一つは具体的な名前を挙げる方法である。たとえば、
「論理的」というキーワードを、例を使って説明するとしよう。前者の説明なら、
「数学のような」という説明の仕方になろう。後者だと「三平方の定理みたいな」
というところか。前者はとくに問題がない。問題なのは後者である。具体的な名前
を挙げるとき、どういう物を挙げるだろう。あまり重要でない物を例にとるだろう
か。さっきの例だと、日本の中学の数学では図形の証明のいちばん最後にこれが出
てきて、たいていの人が一度は頭を悩ました経験を持っているから使える。「三平
方の定理」というのはいわば証明とか数学と等価と見做し得るわけだ。これがいく
ら論理的とはいっても「三角形の合同」なんかを例として思い浮かべるだろうか。
仮に思い浮かべても人にこの例を使って説明するだろうか。普通はしないだろう。
具体的な名前というのは有名かつ重要な物に限られる。
 さて、ここでホームズが例にとった「第五定理」について考えてみよう。今の考
えを正しいとするなら、単に「ユークリッドの幾何学」とせずに「第五定理」と具
体的な名前を挙げた以上かなり重要な定理であると考えられる。ユークリッドの
『原論』では作図問題と定理とが一緒に出てくるのでどれが第五定理かを決めるの
は難しい。その中で自分が第五定理であると思った物は「二等辺三角形の底角は相
等しい」である。一体これのどこが重要なのだろう。この付近にある他の定理らし
き物にも大して重要と思える物がない。人間の心理では、「第五定理」は最も例に
挙がりにくい存在の一つといえよう。
 では、どうしてその第五定理が他の定理を押しやって例として出てきたのであろ
うか。ワトスンの聞き間違いないしは記述ミス、というのが自分の考えである。と、
こう書いたところで、読者の嘲りが目に見えるようだ。何でも都合の悪いところは
ワトスンのミスにする、やっぱりこいつも……、と、思われるであろう。しかし自
分は、これは聞いたときの、または記述に際してのミスであると確信している。そ
の根拠は、他ならぬ「第五定理」という言葉である。

 「ユークリッドの第五」と聞けば、数学を少しでもかじっている人間なら「公準」
を思い浮かべるだろう。平行線についての公準、ないしは公理で、この同人誌の名
前にもなっている「第五公理」(正確には第五公準)である。
 十九世紀まで、これを証明しようとした世界中の数学者を悩ましてきた問題であ
る。結局この公準は証明された。「この公準はあくまで仮定に過ぎない」という皮
肉な証明で。
 それに際して、たとえばガウスやボヤイは「もしも平行線が二本引けたら」とい
う一見非常識な仮定から出発して矛盾のない幾何学の系を作った。今まで真理と考
えられていた公理を否定することで新しい幾何学を生み出したことになる。これは
ホームズと犯罪との関係に、あるいはホームズの思考法に似通ってはいないだろう
か。「ありえない物(矛盾)を取り去っていけば、あとに残った物はどんなにあり
そうにないように見えても真実である」という言葉に。そして、モリアーティの書
いた二項定理の論文のことまで知っているホームズが第五公準とその重要性につい
て知らないはずがない。

 英語では件の「第五定理」は Euclid's fifth proposition となっている。ここ
で proposisionの意味を英英辞典で調べてみると「証明されるべき問題」となって
いて、日本語の「定理」という訳語そのものだ。だから「公準」の誤訳ということ
は考えられない。
 もし、ここで、「公準」という意味の英語が propositionに似た音ならば、ワト
スンの聞き間違いという可能性が出てくる。そして、その英語は postulateという。
音としては似てなくもない、という程度であろうか。
 この程度の似方なら、聞いたすぐにメモをとれば間違いようがない。しかし、
『四つの署名』事件が起こったのは1888年であり、本が出版されたのは1890年だ。
一年以上も空いている。それにこの事件のあとワトスンは結婚しているから、婚約
やら何やらで数カ月は執筆にかかっていなかったであろう。そして、「第五定理」
の会話があったのは事件の起きる前のことで、そういう会話までメモをとっていた
とは思えない。恐らくは執筆にかかってから当時のことを思い出しながら書いたで
あろう。ましてこの会話のあとにホームズの時計の推理が来るのだ。ワトスンの時
計についてホームズがやってみせた推理の印象が強いほどその直前の会話は忘れ易
くなる。会話を再現しているときに純粋に数学用語の postulateと、日常「提案」
という意味でも使う propositionとを取り違えたということはあながち不自然な推
理ともいえまい。

 以上述べたことはあくまで推測の域を出ない。しかしながら人間が例を出すとき
にどっちでもいいような例を出したりはしないということ、わざわざ例にとった
「第五定理」ならぬ「第五公準」が、数学史上非常に重要な公準であること、「第
五公準」にまつわる歴史がホームズ好み(であろう)こと、事件からワトスンの執
筆まで時間が経っていること、以上を考慮すればこの推測はかなり確率の高いもの
と思える。すなわち、ワトスンはホームズの言葉を誤って記載したのであって、ホ
ームズが自分の推理になぞらえたのは「ユークリッドの第五公準」である。


 以上長々と書いてきましたが、私はホームズ研究などという大それたことをやる
ほどの知識はありません。だから、今書いたようなことも誰かが昔に云ったことか
も知れません。その時は、まあ、「第五公理」の第一号に「第五公理」のエッセイ
を載せたんだからと、笑って見逃してやって下さい。そして、もしよろしければ、
「誰それがおんなじようなことを云ってたよ」とご一報下さい。


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