當世御府内流行物盡(とうせいごふないはやりものづくし)

                「い」の巻
                                 木下信一

    一
 日本橋に見慣れぬ高札が立ったのは元禄十五年も暮れようという十二月の七日、
夜の明ける前のことだった。見つけたのは番太郎で、朝番小屋から出て来て掃除を
しようとしたときに見つけた。高札場に平素三枚ある高札が四枚あったのだ。急の
知らせのために高札を掲げる時は番小屋に前もって触れがある筈なので、おかしい
と見上げたところ触れ書きにしては妙な書き方をしている。
 彼は字を識らないので、自身番に問い合わせた。詰めていた町役人がついてきた
ときにはもう高札の前には人だかりがしていた。
 町役人が高札を読んでみると、平仮名混じりでこう書いてある。

  呉服町の伊勢屋様の飼ひたる白犬 手前 お預り申し候 養ひ扶持に金貳百両
 申し受け度 若し払はれぬ時には御犬様の命を以て貳百両に換へる所存に付 ま
 づはお知らせ申し候

「ねえ、わっちの言ったとおりでがしょう。お上のお触れにしてはどうも変だ」
 番太郎は言ったが、町役は聞いてないようだ。じっと高札を見つめながら呟いた。
「こりゃあ、大変なことになったぞ」
「源兵衛さん、一体、なんて書いてあるんです? 何か妙なことでも?」
「このまま読んでもお前さんには解らないだろうな。つまり、こういうことだよ。
呉服町の伊勢屋さんの犬がかどわかされたんだ。身代金として二百両、もし払わな
ければ犬を殺しちまうってんだよ」
「呉服町の伊勢屋って……、じゃあ、シロがかどわかされたんですかい? 大変だ。
お小夜ちゃんさぞかし寂しがっていることで……」
「そんなことは大したことじゃあない」
「大したことじゃないってねえ、あんた、お小夜ちゃんはシロだけが友達だったん
ですぜ。おっかさんは早くに亡くすし、お店じゃ遊んでやる者がいない。これでシ
ロがいなくなったら……。それを大したことじゃないなんて。そうかい、源兵衛さ
ん、あんたがそんな薄情な人だとは思わなかった。町役やってるからってどれだけ
偉いんだと……」
「待ちなさいって。本当、お前さんはせっかちだねえ。そりゃあ、お小夜ちゃんは
かわいそうだ。でもあたしが言ってるのはもっと大変なことがあるってんだよ」
「へえ、一体なんです」
「つまりだ、こう派手に高札が立っちゃあシロがかどわかされたのが世間に知れ渡
ってしまう。そうなりゃお上だって黙ってない。御犬様がかどわかされたのはその
方の世話に不届きなところがあったからじゃ、ってんでお奉行様からお叱りがある」
「へえ、そりゃ大変で」
「それだけじゃない。身代金を払わないで犬が殺されたら、いや、もし身代金を払
ったとしても犬が殺されてでもいたら、どうなると思う?」
「どうなりますかね」
「御犬様を殺したのは誰であれ、その方にも責めはある。二百両の金を惜しみ、御
犬様を見殺しにするとは……」
「でも、身代金を払ってたらどうなんです? それならお上も」
「もし二百両払っておったにしても、御犬様が死んだのはかどわかされたが故。そ
の方に責めがないとは言わせぬ、などということになって、下手すりゃ一家全員死
罪……」
「そりゃ大変だ! さっそく嬶ァと一緒に悔やみに……」
「これこれ、これはもしシロが死んだらの話だよ。まだそうと決まった訳じゃない。
とにかく、こうなることもあるから大変だと言ったんだよ。まあ、伊勢屋さんも災
難だな」
「それで、これからわっちはどうしたらいいんですえ?」
「そうだな。なにしろ伊勢屋さんに知らせてくれないか。あたしは自身番でお役人
を待ってるよ」
 日本橋から続く大通りを南へ行き、二つ目の角を右に折れると道の両側に呉服屋
が並んでいる。伊勢屋は南側で、角から三軒目にあった。番太郎は、掃除しようと
潜り戸を開けて出て来た小僧を捕まえて主人に取り次がせた。そして、主人の前で
高札のことを話した。

 鍛冶橋御門内北詰の中番所、中町奉行所から出て来た同心・片岡彦十郎は、右に
南町奉行所を見ながら御門をくぐり、橋に出た。
 全く、新しく作るんなら南のこんなそばに建てることもなかろう。
 ぼやきながら鍛冶橋を渡る。
 もともと片岡は南の同心であった。この年新しく中の番所が出来るときに移った
のだ。奉行所内のごたごたに嫌気がさして自ら望んで移ったのだが、前に勤めてい
た奉行所がすぐそばにあるのはいい気がしない。なるほど奉行の丹羽遠江守はさば
けた男だ。仲間の同心にも有能な人間は何人かいる。だが、大部分は箸にも棒にも
かからぬ輩。町中には、貧乏な直参にあてがい扶持を出すため名ばかりの奉行所を
作ったという悪口もある。それがまんざら嘘とも言えぬ、そんな連中ばかり揃って
いる。
 かつては南の切れ者で通っていたが、望んで脾肉の嘆をかこつはめになったのだ。
昔の同僚からは哀れみと嘲りの入り混じったような目でみられる。もっとも、南で
上司と衝突しながらの毎日と、無能だが気のいい連中と過ごす毎日では世間から馬
鹿にされても今の生活の方が気は楽だが。
 橋を渡ると向こうから人が駈けて来た。近づいて来るのを見れば彼の使っている
小者の三吉である。この寒いのに汗をかいているのを見ると、走りづめだったよう
だ。
「だ、旦那、いいところで会った」
「おう、三吉親分、どうした」
「はあ、はあ、大変なことが、はあ、起きたんですよ」言うなり三吉は座り込んで
しまった。
 片岡は三吉を助け起こして言った。
「お前が大変だと言うからには余程のことだな。なにしろ近くの自身番で聞こうじ
ゃないか」
 すぐ近くの自身番まで肩を貸してやりながら連れて行った。詰めていた町役はち
ょうどうたた寝をしていたところだったが、同心が岡引きを支えるようにして入っ
てきたので驚いたらしい。目をこすりながら目をみはるという、なんとも器用なま
ねをしていた。
「これは旦那、おはようございます」
「茶、いや、白湯で構わねえから一杯くれ。三吉親分、走りすぎて目を回しちまっ
たんだ。急いで沸かしてくれよ。どうせ」こう言いながら片岡は長火鉢にかかって
いる薬罐のほうを見た。「こいつの中で沸いてるのは、湯は湯でも般若湯だろ」
「わっしは別に酒でも構わねえ」
「馬鹿野郎。おめえは構わずとも俺が構わあ。白湯の沸くまでここで座っているが
よいさ」
 落ち着いた三吉が話したのは日本橋に立てられた高札の話である。
 日本橋通りの一筋東、音羽町に住んでいる三吉は、朝起きたら日本橋通りの自身
番をのぞくのが日課になっていた。いつものように顔を出すと、詰めていた町役人
が待ち受けていた。伊勢屋の犬をさらった、ついては金子二百両を払え、払わなけ
れば犬を殺す、そんな文面の高札が立っているとのこと。橋のそばの高札所に行っ
てみるとなるほどそう書いてある。町役に命じて野次馬をさがらせ、奉行所までご
注進に及んだ、と、こういう訳だ。

 伊勢屋は今日店を閉めている。番太郎の知らせで、いつも通り商売、という訳に
はゆかなくなったのだ。店の表には戸が立ててあった。
 片岡が店の前に来ると、足元にじゃれついてくる犬がいる。白い犬だ。戸口で奉
行所の者だと名乗り、中へ入ろうとするとその犬が先に伊勢屋に飛び込んだ。
「シロ!」
 入ってきた犬を見て、番頭らしき男が叫んだ。
「いや、シロじゃない。ブチか。あ、これは旦那。わざわざいらしていただいて有
難うございます」そう言いながら男は、帳場を立って片岡のほうにやって来た。
「お前がここの番頭かえ」
「はい。一番番頭を務めております忠助と申します」
「とんだ災難だったの」
「全くでございます。……あの、やはり、お上からお咎めがあるのでございましょ
うか」
「いや、はっきりとは言えないが、犬さえ無事に見つかりゃ、何もないと思うよ。
それより、早速だが大旦那に会わせてくれ」
 番頭が帳場から奥へ入ろうとすると、片岡が後ろから声をかけた。
「あ、ちょっと、待ってくれ」
「はい?」
「さっき、お前、この犬を見てシロと呼んだな。すると、この犬がかどわかされた
ってえことに……」
「いえ、シロと申したのは手前の間違いでした。この犬は筋向かいの三河屋さんの
ところの犬で、ブチと申します。シロとは同じ母親から生まれた兄弟でして、たい
へんよく似てるのです」
「……てえことは、かどわかされた犬はこいつとそっくり同じなのかえ」
「はい、背中としっぽに斑があるかないかの違いだけで、それ以外は瓜二つと申し
てもよろしいかと」
「解った。すまなかったな」
 番頭は奥へと入って行った。


    二
 翌日は伊勢屋も店を開いていた。店の表には、昨日見た斑の入った白犬が寝てい
る。店にはいると番頭が奥に通してくれた。
 店の主人、善兵衛は痩せた男で、若々しく、来年で五十になるようには見えない。
髪に白いものが混じってはいるが、厄そこそこだと言っても通用するだろう。彼は
片岡を茶室に誘った。
「もう商売をはじめたのかい」
「うちのシロがかどわかされたことは、江戸では知らぬものが居らぬようでござい
ます。いづれお上からお沙汰もございましょうが、それまで店を閉めていては伊勢
屋を贔屓にして下さるお客様に悪うございますので。……どうぞ」
「済まねえな」伊勢屋の主人の点てた茶を飲んで片岡は言った。
「そりゃ、そのとおりだ。ところで、娘さんの様子はどうだえ」
「はい、昨日からシロ、シロ、とそればかりを……。今日も店の前にいた三河屋の
ブチをみて、シロだ、おとっつぁん、シロだよ、と。たかが二百両、別に惜しくは
ございませんが、娘を見てるとなんとまあひどい真似をしてくれたものかと。旦那、
一体、どこの外道がこんなことを……」
「まだ判らねえ。そういや、さっき店の前に斑の入った犬がいたが……」
「三河屋のブチのことでございますか」
「そうだ。あの犬は、いつもお前の店の前に座ってるのかい」
「いえ、そんなことはございません。いつもは三河屋さんの前から離れたりしませ
ん。それで昨日もうちの番頭がシロと間違えた訳でして」
「自分の兄弟がさらわれたのが解るのかねえ」
「いづれそうでございましょうな。それを見てうちの小夜がシロだ、シロだと言う
のがなんとも不憫で……」
 にじり口が開いて、番頭が顔を覗かせた。
「旦那様」
「忠助、私は今片岡様とお話をしているんだ。どうしてそんな無作法な真似をする
んだい」
「はい、申し訳ございません。ですが、さっきこんな投げ文がございまして、片岡
様にも見て頂いたほうが……」
「どれ、貸してご覧」
 その投げ文をひろげて善兵衛は読んだが、読み終わると無言で片岡に渡した。彼
が文を開くと高札と同じ手でこう書いてあった。

 十四日 正丑の刻 本所元町にある稲荷社のさいせん函に二百両を投げ込む可

 読んで片岡は苦々しげに言った。
「伊勢屋稲荷に犬さらい……、語呂合わせにもなりゃしねえ」

 日本橋の自身番では三吉が長火鉢の火にあたっていた。火鉢には鉄瓶がかかって
いる。それを取り上げ、中のものを湯呑みに注ぎながら片岡は言った。
「全く、頭のよい野郎だ。ことがことでなければ褒めてやりたいぐらいだよ」
「へえ、そんなに頭のよい奴なんでしょうかねえ」
「おうよ。まづ考えてもみねえ。身代金目当てのかどわかしで、何が一番困る」
「困るっていいますと?」
「だからさ、お前が誰かさらおうとするじゃねえか。その時、一番困ることはなん
だ?」
「そりゃ、顔を見られることでしょう」
「そう。だからたいていはさらったすぐに人質を殺しちまう。でもそうすると死体
の始末が大変だ。なかなか隠し通せるもんじゃない。身代金を受け取ってから殺す
にしたって、金を取るまで怪しまれず人を隠すのは容易なことじゃない。じゃあ、
どうしてそんな面倒を承知で人をさらうんだろうな」
「必ず金を払うからでしょう」
「そうだ。何百両といっても人一人の命にゃ替えられない。金を払え、となる。よ
しんば相手が悋嗇で金が惜しくても、世間の噂がある。金は払わにゃなるめえ」い
いながら片岡は湯呑みをあけた。
「ふう、うまい。ちゃんと点てた茶も悪くねえが、こう寒いときには、俺はこいつ
のほうが有難いな」
「そうでござんしょうね」
「ともかくだ。そういう訳で人をかどわかせば確かに金になる。だが、人をさらう
のは非常に難しい。危ない橋を渡るどころじゃないんだ」
「そうなりますね」
「ところがだ。同じように絶対金になって、かどわかした後の始末もやりよいもの
が一つある」
「何です、そりゃあ」
「犬だよ」
「犬? でもそりゃ旦那」
「解ってる、解ってる。確かに犬一匹に百両の二百両のというのは、普通に考えり
ゃ烏滸の沙汰だ。金なんて払わねえ。うちの犬は逃げました、それで済むさ」
「そうでがしょう」
「ところがここに高札だ。犬がかどわかされたと世間に知られて、その後ずっと犬
がいなかったら、金を払わなかったと思われても仕方ないわな。そうなりゃ大事な
御犬様だ。お上が何を言い出すか判らない。絶対払うよ。加えて、さらうのが犬だ。
ちょいとつないで置くだけでも怪しまれる気遣いは絶対にない」
「確かにそうですがねえ、旦那、高札を立てちまった以上、町方が動くことになる
んですぜ。そいつも結構……」
「危ないよ。だからどうするかと見てたんだ。すると身代金は本所で、と来やがっ
た」
「それが何か」
「解らねえのか、本所に行ったら何がある」
「すりゃあ、向両国の小屋がけ」
「向両国を抜けてずっと行ったら」
「ずっと行ったら武家やし……あ!」
「そうだよ。中間と組んで、屋敷に逃げ込めばもう手が出せない。野郎、考えてる
よ」
 そう言い終わった頃には彼は二杯めを呑み干していた。顔がやや赤く染まった。


    三
 この夜、江戸は晴れていた。凍てつくような寒さの中を、満月に近い月の光が降
り注ぐ。
 両国橋を渡って左手を見ると東へまっすぐ堀がある。この片葉堀にかかっている
駒止橋のたもとに小者が一人、潜んでいた。三吉だ。ちょうどここからは元町の入
り口と両国橋との両方が見渡せる。さっきから牢人が何人か両国橋を渡って来てい
た。彼らは橋を渡ると右に折れる、つまり駒止橋とも元町とも違う方向に行くので
特に気には止めなかった。
 元町は両国橋からまっすぐ行って突き当たりにある。その元町の入り口には同心
が一人、元町を突き抜けて出てきたあたり、回向院の塀の影には小者が二人、潜ん
でいる。あと与力が一人に同心が一人、元町内にある稲荷神社の鳥居に隠れていた。
 元町にある稲荷は社というほど大きくはないが、よく町角に建ててあるような小
さな物でもない。通りに面して鳥居があって、二間ほど奥まったところに祠がある。
祠の前には二つの狐に挟まれて木の階段があり、上ったところで参拝できるように
してある。裏には申し訳程度に森がある。
 丑の刻も近くなると伊勢屋が神社に現れた。
 伊勢屋に身代金を出すよう言ったのは片岡である。普通、奉行所の威信にかけて
も金は払わせない。後に不心得の輩が続くのを恐れてだ。だがなにしろ中番所の与
力同心は捕物に慣れてない。必ず罪人を捕らえられるとは限らぬ。もし捕り逃がし
たら犬が殺されることも考え得る。そうなれば与力同心は責めを免れまい。それは
よいのだが、被害者である伊勢屋にまで責めが及ぶことは充分に考えられる。犬一
匹にそこまで危険を冒すこともあるまい。それよりはむしろ金を払わせて、受け取
った人間を捕まえた方がよいのではないか。万一捕まえ損ねたとしても出来てすぐ
の中番所、多少の謗りはあっても「仕方ない」で済むであろう。無駄な腹を切らす
危険を考えるなら……、そう奉行に進言したところ、彼も同意見だったのだ。とも
かくも伊勢屋に事情を話し、今主人がここにいる。
 伊勢屋は鳥居をくぐった。辺りを見回す。誰も目に入らないが、役人が隠れてい
ることは知らされているので安心して賽銭箱のところまで行く。懐から二百両を出
して賽銭箱に放り込む。そのまま彼は帰って行った。

 時刻はそろそろ七つになる。かれこれ一刻も隠れて待ってはいたが、誰が受け取
りに来るでもない。与力がしびれを切らした。
「おい」そばにいる同心に声をかける。頭巾を通した声なので少し聞き取りにくい。
「誰も来ねえな。お前、様子を見に来てくれないか」
 声をかけられた同心は辺りを見回し、誰も来ないのを確かめてから足を踏み出し
た。賽銭箱に歩み寄る。少し箱や床を調べていたが、急に与力に向かって手招きを
した。
「やられた!」後からついてきた与力はこう言った。
 賽銭箱の下には切り穴が切られてあった。床にも穴が切られ、二百両はそのまま
下の地面に落ちる仕組みとなっていた。地面には飯粒のついた竹の皮が落ちている。
もう金を取って逃げた後だった。

 彼が稲荷神社の床下を抜け出したのは与力が境内の様子を見に来る少し前だった。
裏の森に姿を隠す。案の定、慌てた与力、同心が小者を呼びに行った。神社に役人
が集まるのを待って、彼は社を抜け出した。
 回向院へ抜ける。小者は出払って稲荷に出ているので見張る物はいない。右へ曲
がってまっすぐ行くと堅川にかかる一ツ目橋へ出る。そこを渡れば手筈を整えた屋
敷に行けるのだが、橋まで来ると男が立っていた。白縮緬をぞろりと着流し、腰に
大小落とし差し、羽織を巻端折りにして、右手で十手を構えている……町廻り同心
だ。

 おおよそのことを片岡は読んでいた。伊勢屋が金を払って帰ったと三吉に知らせ
を受けてから丸一刻、ここで一人待っていたのだ。
「よう、遅かったな」
 こう声をかけながら男に近寄って行く。と、男は振り向いてもと来た道を走って
戻った。
「三吉!」
 声をかけると回向院の陰から三吉が飛び出した。片岡と三吉とで挟み撃ちにする
恰好になる。
 男は三吉に捕まる前に相生町の角を右に曲がった。そのまま東へ駈けて行く。
 三吉と一緒に片岡は角を曲がって、男の後を追いかける。次の橋に着くまでには
何とか追いつくだろう、そう思ったが男もなかなか速い。離されずに付いて行くの
がやっとだった。後ろでは三吉がだいぶ離れて付いてきている。三吉は間に合わな
いと考えて呼子を吹いた。

 ピーッ

 寒空に呼子の音が響きわたる。

 三丁も走ったろうか。男が通り過ぎようとした屋敷の中から人が出てきた。男は
出てきた牢人者とぶつかってしまった。
「ひい!」
 牢人は男にぶつかるとおびえたような声を上げた。手にしていた刀を振り回す。
逃げる間もなく男は斬られた。
 男は倒れたが、おびえた牢人は斬る手を休めない。何度も、何度も倒れた男に刀
を突き立てた。
 「ひゃははははは」
最後に甲高い笑い声を立て、牢人はその場に崩折れた。

 片岡が駈けつけたときにはもう男の息は絶えていた。牢人も、全身に傷を負って
いて、見ている間に死んでしまった。牢人の出てきた屋敷からは剣戟の響きが聞こ
える。


    四
 翌朝の江戸は異様な雰囲気に包まれていた。本所の吉良邸から芝高輪の泉岳寺ま
で通りには人が詰めかけていた。その中を四十六人の牢人者が歩いて行く。一人の
かついでいる槍の先には、布に包んだ人間の首がぶら下がっていた。
 前夜、赤穂の牢人が本所吉良邸に討入ったのだ。かねてから噂はあった。ちょう
ど主君浅野内匠頭の、月違いの命日に仇を討った訳だ。しかし江戸の人々はその行
為に沸き立ったというよりも、むしろ不気味なものを見るような目で彼らを見てい
た。何か恐ろしいものでも通るかのように遠巻きに彼らを眺めている。

 前夜の捕物の後、以下のことが判った。犬をさらった男の死体を伊勢屋の番頭に
見せたところ、多助という男だと言った。この男はもと伊勢屋の手代で、店の金に
手を付けたので暇を出したという。内々に済ませてやったのにとんだ逆恨みを、と、
番頭は忌々しげに言っていた。もとが商家の手代だから高札や投げ文も書けたわけ
だ。
 多助を斬って死んだ男は、吉良様に雇われていた用心棒であった。討入りの噂は
あったものの本当に徒党を組んでやってくるとは思わなかったのだろう、討入りの
知らせに驚いて逃げようとしたところを斬られた。満身創痍となりながらも屋敷か
ら逃げだしたところ多助にぶつかり、恐怖のあまり錯乱して斬り殺した、と、いう
ことのようだ。
 奉行からの命令で多助の死骸は塩漬けにする事になった。捕まる前に死んだ罪人
に対しては異例のことであるが、お犬様をさらった大罪人、死骸を引廻しの上磔柱
に架け二日三晩晒すことにすると、老中に届けを出したらしい。

 多助の家を調べに行った三吉は、犬を連れて帰ってきた。
「ほう、親分、お手柄だな。早速犬が見つかったか」
「どうもそうじゃなさそうですよ。確かに似てはいますがね」
 そう言いながら片岡に犬を見せた。犬は確かに白かったが、背中と尻尾に一つづ
つ、黒い斑点があった。
「墨かなんかでごまかしてるのかも知れねえよ。一度、洗ってみちゃあどうだえ」
「そうですね、ちょいと洗って参りやす」
 三吉は犬を連れて自身番から出て行った。小半刻もして帰ってきたときにはずぶ
濡れになっていた。
「どうした。お前もついでに行水か? その年じゃ、水も垂れそうな、たぁ言えめ
えに」
「からかいっこは無しですぜ。洗ってやろうとしたら、こいつ、えらく暴れまして
ねえ。全く、これじゃどっちが水を浴びたんだか判りゃしない」
「ぼやきなさんな。これで犬を連れて行きゃ、お手柄だぁな。伊勢屋も、酒手をは
ずんでくれるかも知れねえよ」
「それなんですがね……ちょっと見ておくんなさい」
「どうした」
 土間に下りて犬を見たところ、犬にはやはり斑点がある。
「なるほどけぶだの。……三吉、他に犬はいなかったのかえ」
「こいつ一匹きりです」
「多助にゃ、親兄弟はいなかったな」
「へえ、兄弟はいないし、ふた親ともだいぶん前に亡くしてます」
「縁座でお咎めを受ける者がなくてよかったが、犬を預ける相手がいねえ、ってこ
とでもあるな。もう一度、多助の家のそばを当たって見ちゃあくれねえか。俺も行
くよ」
 片岡は三吉と連れだって自身番を出た。多助の住まいは神田大工町の長屋である。
木戸を通って中へはいる。三吉に案内された家は、木戸を入ってすぐ、右手にある。
家の前には野次馬がたかっていた。
 中は他の長屋と大して変わらない。土間があって部屋がある。ずっと通り抜ける
と裏に小さな庭がある。そのどこにも犬は見あたらない。梯子を架けさせて二階を
見る。何もない。
 家を隈なく探しても出てくるものは着物や何やと生活に使う物ばかり、犬に関わ
る物は全く出て来ない。日の暮れるまで探して片岡は言った。
「手がかりになるようなものはないな。するてえと、どこかよそにでも隠したか…
…」
「明日、手先を使って、遊び仲間を当たって見やしょうか」
「そうだの。まづ、やってはもらえめえか」
 この日、長屋の捜索は打ち切りにして、二人は引き上げて行った。翌日、三吉は
一日江戸を走り廻って、片岡に会ったのは夜になってからだった。
 三吉が報告に来たと折助が片岡に知らせたのは、丁度夕食どきのこと、彼は元大
坂町東北の組屋敷で食事をとっていた。
「おい親分、おめえ、わざわざ飯を喰ってる時分を狙って来たのじゃないのかい。
……おおい」と、彼は折助を呼んだ。
「三吉親分にも膳を出してくれ」
「へへ、すみませんね。いや、別に見計らって来た訳じゃないんですがね。旦那も
お一人で召し上がるより、わっしが話し相手になった方がうまいんじゃねえかと…
…」
「調子のいい野郎だ。気がついたら飯どきに上がりこんでる。早く女房でも貰や、
俺みたいなもんの顔を見ながら、なんて了見を持たねえだろうに。そろそろ身を固
めちゃあ、どうだえ。お前ももう三十なんだし」
「そりゃあ、旦那もご同様ですぜ。奥様が亡くなってもう三年なんですから、後添
いをお貰いになっても」
「いいじゃねえか。……ところで、犬は見つかったか」
「いえ、それが全然。奴の悪仲間はそんなに多くないんですよ。全部に当たってみ
たんですがね、みんなはんで押したように同じ返事なんで。あいつがそんな大それ
たことをするとは思ってもみなかった、犬は知らない、長屋でぶち犬を飼っていた
けど、あれじゃないのか。まあそんなところで。……旦那、ひょっとするともう一
人仲間がいて、そいつが犬を……」
「いや、それはない。奴一人の仕事だ」
「でも、武家屋敷に逃げ込むのに折助の一人くらいは仲間に引きずりこんだんじゃ
あ」
「一人だよ。多助って野郎は、まんが悪くてあんな死に方をしたが、いろいろ考え
ていた奴だ。そんな危ない真似はしない。三吉、人をさらうとしようや。そん時に
は絶対仲間が要り用だ。人質を見張るためには、そのあいだに身代金を取るために
は、最低でも二人はいる。ところが犬だと一人で済む。つないで置くだけで逃げな
いからな」
「そうなりますね。でも二人じゃいけないってこともないでしょう」
「いけないんだ。こういうことは人数が少ないほどよいのさ。一人なら自分が口を
閉じてりゃ、人様に知られるおそれはねえ。二人以上なら、相手がうっかり口をす
べらさないとも限らねえ。仲間割れの心配もある。少し頭が回りゃ、そんなことを
する筈がない。武家屋敷に隠れるのに、中間を使ったにしてもだ、犬をさらったな
んてえことはまづ言ってねえだろう」
「そうですね」
「それともう一つ。一応、仲間がいたと考えてみようか。そいつの役目はなんだろ
うな」
「人質……いや、犬質か、そいつが逃げねえように見張ってるんでしょう」
「だろうな。そこへ多助が死んだてえ知らせが入った。それも町方に捕まりかけて
だ。相棒は尻に帆かけて逃げ出すだろうよ。人質なら顔を憶えられてるかも知れね
え、逃げる前に殺しちまう。でも犬だ、殺すほどのことはねえ。なにせ人相を口に
出して言えないんだからな。わざわざお犬様殺しの罪を犯して逃げ回ることはない。
そのまま犬を放して逃げ出す、後は知らぬ顔、これで済む」
「なるほど」
「もしそうなら、犬は放っておいても帰って来る。仔犬じゃないのだからな。とこ
ろが、多助が死んで三日になるのに伊勢屋にシロが帰ってきたとか、親分が江戸の
町で白犬を見かけたとかいった話がない。だから仲間はいないのさ」
「でも、仲間がいないってことは、犬の隠し場所を知ってる者がいないってことに
なりませんか」
「そうなるな。生きてりゃ口の割らせようもあったんだが……まったく、赤穂の牢
人めらが。世間じゃ義士の忠臣のといってるが、こっちにしてみりゃおお迷惑だ」
片岡はため息をついた。
「このまま犬が見つからないじゃあ、困ったことになるな」
「困ったことに、ですか?」
「ああ。はじめから犬が死んでりゃ別に困らない。でも、もし殺されてたとしても、
肝心の多助が死んじまってるから証拠がねえ。探してももう死んだてえ証拠が見つ
かる筈がない。てえことは、お犬様が見つからないままになって、こっちに責めが
くるわな」
「へえ、へえ」
「責めを負ってお奉行は辞任、目の前でむざむざ多助を殺された俺は下手すると…
…」そう言いながら片岡は持っていた箸で自分の首を叩いた。
「これだな」
 しばらくはどちらも何も言わなかった。やがて、また片岡が話し出した。
「旗本衆と違って御家人風情じゃ腹も切らしてくれねえ。……もっとも、三方に載
っかった扇子を持ったとたんに首がころり、っていうんじゃ、後ろ手に縛られて首
を打たれるのとたいしてかわらねえか」
「旦那……」
「おいおい、そんな顔をするなよ。絶対犬は死んでねえ。今年中に埒を明けりゃあ、
何も心配はないよ」
「でも、どうやって埒を明けるんですえ? 多助は死んじまった、野郎の仲間は何
も知らねえ、立ち回りそうなところには犬がいない。どこか隠れ家でもあって……」
「それはなかろう。隠れ家があったとしても、犬を隠したりしてたら、周りに怪し
まれらあ。それよりはどこか身近なところ、もっと判り易いところ、犬がいても不
思議でないところ……」
「見つかりにくくて、判りやすい、そんな隠し場所がありますかね」
「うーん……。そうか、ひとつあるな」
「どこですえ、そりゃあ」
 片岡はその場所を三吉に教えた。そして言った。
「三吉、明日、できるだけの手先を集めておいてくれよ」

 四谷大木戸のお犬小屋はたいそうな騒がしさだった。二万五千坪に五万匹という
犬が飼われている。中には小屋が何百かあって、各々に何匹かづつ犬がいる。三吉
が集めた手先、助けの連中は三十人を越した。これだけの人数があれば日の暮れる
までには探し終えるだろう。伊勢屋からは小僧を一人、犬を見分けるために寄越し
て貰ってある。
「犬を隠すのにお犬小屋とは気がつきませんでしたね」
「ここなら犬をこっそり放り込んでいても怪しまれねえ。身代金を受け取ったら、
犬はお犬小屋にあり、じきじき出向いて請け出されるが宜しかろう、これで済む。
お上が養っていて下さるから、餌をやることもねえ。これほどの隠し場所は無いん
じゃねえかな」
「こっちにいてくれりゃあいいんですがねえ」
「まったくだ。今日一日探してみるさ。駄目なら明日は中野の小屋を当たってみよ
う」
「中野は十六万坪、探し終える頃にゃあ年が明けちまいますぜ。……おい、おめえ
たち」三吉は手先に声を掛けた。
「白い犬だ。今朝三河屋のブチを見たな。あれの斑の無いやつだ。少しでも似てい
る奴がいたらこの坊主に見てもらうんだ。よしか」
 一斉に手先は頷き、目当ての犬を探しに散って行った。片岡は残った三吉に話し
かけた。
「俺は、これから伊勢屋に会って来る。午には戻るが、そん時には皆の弁当を仕出
して貰ってくるよ」
「そいつはおおきに有難てえ」
 三吉は小屋に入って行き、片岡は伊勢屋に向かった。

 伊勢屋に着くとまた犬がじゃれ付いてくる。背と尾に斑の入った犬だ。苦笑いし
ながら片岡は伊勢屋に入った。
「すっかりここの犬になっちまったな」
「旦那、ようこそおいで下さいました。何でございます? ああ、ブチのことです
か。はい、本当に、シロがかどわかされてからはずっとこっちにおりまして。三河
屋さんもうちのお嬢様のことを考えて下すって、シロが見つかるまではここでいさ
せてやってもよいと、そうおっしゃって下さったのです」番頭は片岡を奥に案内し
た。奥では主人の善兵衛が待っていた。
「これから毎日あの小僧さんを借りることになるけど、いいだろうね」
「それはどうぞご随意に。……それで、どのようなものでございましょう。シロは
見つかるでしょうか」
「なんとも言えないね。娘さんのことを考えりゃ、出て来て貰いたいものだが……。
安心しな、もし見つからなくても、まづこちらにはお咎めはない」
「本当でございますか」
「おそらくな。むしろ危ないのは私の首だ。多助を捕まえ損ねて死なしちまったん
だから」
 しばらく主人と話をしてから伊勢屋を出る。仕出し屋に行って弁当を人数分、四
谷大木戸まで仕出すように言った。そして、そのまま片岡は奉行所に向かって行っ
た。

 午には、片岡もお犬小屋で犬探しに加わっていた。念のため奉行所で中野のお犬
小屋を探す許しをもらってから四谷に戻ったのだ。
 仕出しの弁当が着いたので休みをとることにした。弁当を使いながら三吉が言う。
「ねえ旦那、一つ聞きたいことがあるんですがね」
「おう、なんだ」
「多助の犬ですよ」
「犬?」
「へえ、奴が犬を飼いだしたのは今月に入ってからなんですよ」
「そうだの」
「じゃあ、犬をさらって、その上で別の犬を飼ったてえことになりませんかえ」
「そうなんだ。俺も、それが気になってな。なにかからくりがあるに違いねえと思
うんだが」
「それとも犬を飼うようになって、この首仕事を思いついたのか」
「さらったはよいが二匹の相性が悪い、それで伊勢屋の犬は別のところに、かえ?
どうかな。ただ、どちらにしても、あの犬が伊勢屋のシロでねえのは確かだからな」
「解らなくなっちまった。わっしは頭を働かすより手足を動かしてた方がよいみた
いだな」
 片岡は笑った。
 食べながらも三吉の言ったことが気にかかった。確かに妙だ。普通に考えて犬を
さらった人間が急に飼いだした犬なら、それがめざす獲物の筈だ。しかし違った。
だが違うその犬は目当ての犬とよく似ている。わずかに斑のあるなしの違い……。
三吉ならず片岡も頭が混乱してきた。そのことは夜にでも考えることにして、今は
伊勢屋の犬をここから探そう、そう考えて、これ以上気にするのはやめにした。
 午後いっぱいを過ごしてお犬小屋を探したが、徒労に終わった。白い犬は何百と
いたが伊勢屋の犬はいなかった。翌日には中野を探すことにして、伊勢屋の小僧と
三吉の手先を帰した。
 翌日、中野お犬小屋を探したが、一日探して見つからなかった。その翌日も、次
の日も、全然見つかる気配はない。そうして五日が過ぎた。この五日間で三吉の手
先は犬に噛まれたり、なめられたり、じゃれ付かれたりして、ほとんどの者がどこ
かしら怪我をしていた。お犬小屋では餌だけは充分に与えているので、さすがに喰
い殺される心配は無かったが、噛みつかれてもお犬様のこと、叩く訳にもゆかぬ。
水を掛けて放すしかない。冬のさなかのことで、怪我の上に風邪をこじらす者まで
出てきた。

 十二月二十三日の夜、片岡の家に三吉がやってきた。折助に命じて酒を用意させ、
座敷に上げた。
「いつも済みません。旦那のところに来たら、必ずご馳走になってるな」
「そう思うなら、なにか持って来たらどうだえ」
「へっへっへ。まあ一杯どうぞ」
「こいつ、うまくごまかしやがった」
 片岡も苦笑する。しばらく呑んでいたが、話は自然に犬のことになる。
「お前達にもこの寒空ん中、済まねえと思ってるよ」
「構いませんよ。もう少しで、調べ終わる。その時にゃあシロも見つかってまさあ」
 請け合うように三吉は言ったが、片岡の表情は暗かった。
「いやですよ、旦那。どうしちまったんです?」
「いや、ひょっとしたらシロは中野にもいねえんじゃねえかってな、そう思ったん
だ」
「どういうことです? やっぱり犬は死んでいたとか」
「いや、それはない。そうじゃなくて、探す場所を間違えてるんじゃないだろうか」
「一体、なんでまた間違えたなんて思いなすったんですえ?」
 片岡は杯をあけて、話しはじめた。
「いつも伊勢屋の小僧を連れて行くだろ」
「へえ。それが?」
「犬を見分けるのに連れて来られるくらいだ、シロもなついているに違いない」
「そうですね」
「いくら広いお犬小屋でも、なついた小僧のにおいを嗅ぎつけられねえ犬があると
も思えねえんだよ」
「言われてみればその通りだ。でも、必ず嗅ぎつけるとも限らねえんじゃないです
か」
「まあ、そうではあるがな。どうも俺には目当ての犬が中野にいるとは思えなくな
ったんだよ」
「それじゃあ、一体どこに」
「判らねえ。全く判らねえ」
「旦那」
「あ?」
「どうぞ」三吉は片岡に酒をすすめた。
「疲れていなさるんですよ。もっと呑んで、ぐっすりおやすみになりゃあ、明日に
はまた元気が出ますよ」
「親分、済まぬな」
「この間旦那の仰った通りですよ。犬を隠すのに隠れ家みたいなところに隠すはず
がねえ、そんなことをしたらかえって怪しまれる。だからもし犬を隠したとすりゃ、
犬がいてもおかしくないところ。普通じゃ見つかりにくい、それでいて、知らせた
らすぐに見つかりそうなところ……」
「そこなんだ。お犬小屋は犬がいてもおかしくはない。それに絶対見つかる心配も
ない。でも、教えたとして伊勢屋がすぐ見つけ出せるだろうか」
「それまたはじまった」
「いや、ちょっと聞いてくれ。ひょっとして、もっと他に隠せる場所があるんじゃ
ないか。犬がいておかしくない、判ったらすぐに見つけられる……」
「他にそんなとこがありますかえ」
「存外すぐそばにあるかもな。俺達の目と鼻の先にあるかも知れない。それならあ
まりに近くてかえって気がつかねえ」
「はあ、そんなもんでしょうかねえ」
「それとだ、もう一つ気になるのが多助の家の斑犬だ。あの犬がこの仕事に関わり
の無いはずがねえ。あの斑犬……。そうか!」急に片岡が立ち上がったので、膳が
ひっくり返ってしまった。三吉は呆然として片岡を見守った。
「三吉!」
「へ、へえ」
「こんなことに気がつかないとは、俺もとんだあほうだ。笑ってやってくれ」
「どうしたんです?」
「犬がどこか判ったんだよ。おおい」片岡は次の間に控えている折助を呼んだ。
「酒だ。うちにあるだけもってこい。明日の前祝いだ。お前も三吉親分と一緒につ
きあってくれ。……三吉」
「なんですえ?」
「明日は、中野に行かなくてもよいぞ。代わりに俺につきあってくれ」
 その夜の酒盛りは日が昇るまで続いた。


	五
 翌朝片岡は三吉をつれて伊勢屋に来た。表には例の斑の入った犬が寝ている。番
頭が出迎えて、奥へ通そうとしたが片岡はそれを断った。
「いや、今日は奥には用がない。番頭さん、一つ聞きたいことがあるんだが」
「何でございましょう」
「この犬さ」片岡はそう言って表で寝ている犬を指さした。
「こいつだが、なんとも汚くなったな。湯にいれてやったりはしないのかえ」
「ああ、そのことですか。はい、ブチは湯の嫌いな犬で、三河屋さんも滅多に体を
洗いません」
「そうか、やはりな……。よし、俺がこいつを洗ってやろう。誰か下働きのものを
一人貸してくれ。二年越しの垢をためたんじゃあ、こいつもあまりにかわいそうだ。
一足先に裏へ回ってるから、後で一人寄越してくんな。……あ、そうそう、ついで
に大旦那とお嬢さんにも来て貰ったほうがいいな」
 それだけ言うと片岡は犬と三吉を連れて表に出た。
「もし、旦那」
 番頭が声をかけたときには、二人と一匹は見えなくなっていた。

 番頭から話を聞いて、伊勢屋善兵衛は娘と女中を連れ、裏の井戸端へ出て来た。
出てみると、片岡と三吉が二人がかりで犬を洗っている。縁側には羽織と大小、十
手を置き、本人たちは着物を尻からげにして、洗っている姿は何ともおかしなもの
だった。
 思わず女中が吹き出してしまい、その声を聞いた二人は犬から顔を上げた。
「おう、伊勢屋さん」
「片岡様、一体何をなさっておいでで」
「見ての通り、犬を洗ってたのよ」
「そんな、もったいない。いづれ私どもが致しましたのに……」
「まあいいじゃねえか。それより、よい知らせだ。お前さんのところのシロが見つ
かったよ」
「見つかりましたか。で、どこにいますので?」
「ここさ」
 片岡はさっきまで洗っていた犬を指した。そこには、真っ白な犬が濡れ鼠になっ
て座っていた。
「シロ!」
 娘が声を上げて駈け寄った。伊勢屋は驚いて、しばらく声も出なかった。
「じゃ、じゃあ、シロははじめからうちにいたわけですか」
「そうなるな」
「それじゃあ、三河屋さんのブチは」
「三吉」
 片岡に声を掛けられた三吉は、勝手口を出て行った。しばらくして戻ってきたと
きには斑の入った白犬を連れていた。
「伊勢屋さん、こいつが三河屋のブチだと思うが、どうかな?」


	六
「つまり、多助がさらったのは伊勢屋のシロじゃなくて、三河屋のブチだてえこと
ですか」
 大晦日、片岡が与力の屋敷から家に帰ると、三吉が蕎麦を持ってやって来ていた。
除夜の鐘を聞きながら二人前、笊に盛って蕎麦を食べる。その時に三吉が事件の絵
解きを頼んだのだ。
「そういうことさ。ブチをさらって、その後シロに同じような斑をつける。高札に
はシロをかどわかしたと書く。伊勢屋はシロがさらわれたと思っているから、すぐ
そばに犬がいても気がつかねえ。ブチが来たとしか考えなかったのさ」
「なるほどねえ、でもどうしてそんな回りくどいことを。シロをかっさらってきた
らよかろうに」
「怪しまれたときのためだよ」
「はあ?」
「もし自分が怪しいと思われて、そばに白犬がいたら言い訳ができねえ。犬に細工
したところですぐに見つかっちまう。俺達が奴のうちで犬を見つけたとき、真っ先
に洗ったようにな」
「なるほど、斑をつけた犬なら細工を見破られる。でも本当に斑の犬なら疑われて
も困らねえ。細工じゃねえんだから」
「そういうことだ。探してるのは白い犬で、斑の犬がいたって気にしない。こない
だ、斑、斑、そう考えてようやくからくりに気がついたんだからな」
「まあ、確かにわっしらの見つけたのは斑、三河屋の犬も斑。言われて見りゃあす
ぐに判る筈なんだ。一体、どうして気がつかなかったのかな」
「そこはお前、俺達は三河屋の、いや、そう思ってた犬にシロを見てたからさ」
「シロを……。判らねえ、どういうことです?」
「つまりさ、俺達は伊勢屋の前にいた犬を見て、シロてえ犬はどんなのかと考えた。
多助の犬のときもそうだ。俺達はシロとその犬の違いばかり考えていた。多助の犬
と伊勢屋の前の犬とが同じに見えるなんてことは考えもしなかったんだよ。あん時
もし伊勢屋の連中に多助の犬を見せてたらすぐ判った筈なんだがな。……三吉、焼
きが回ったのかね、俺も」
「まさか。でも、野郎、ここまで考えてことを起こしたのかな……」
「ふふ……。どうだろうね」
 しばらく二人は黙って蕎麦を食べていた。終わった頃に片岡が言った。
「三吉」
「へえ」
「多助に感謝しなけりゃな」
「感謝? 旦那、どうしてあんな野郎を有難がらにゃあなんねえんです? あいつ
のおかげで旦那は危うく首を……」
 片岡は笑ってこう言った。「なに、もしあいつがシロをさらったのが金目当てじ
ゃなくて伊勢屋憎しだったら、と思ってな」
「するとどうなりますかえ」
「犬を殺してたろう」
「でも旦那、旦那は犬は死んでないって……」
「だからあれは賭けだったのよ。金目当てなら犬は死んでねえっていう」
「賭け?」
「おうよ。伊勢屋憎しでことを起こしたなら、身代金だけで満足はしねえ。犬を殺
すよ。金を払っても犬が死んだらお咎めは必定、軽くても一族は所払い、家は闕所。
……憎い伊勢屋から金をふんだくって、おまけに罪に落とせる」
「でも奴はそうしなかった」
「そうしなかった。もしやってりゃ……」
「やってりゃ?」
「……松の落ちる頃にゃ、こいつも」こう言いながら片岡は自分の首をたたいた。
「一緒に落ちてたろうな」

 百八つめの鐘がなって、元禄十六年が明けた。




後書き

 読んだ方はお判りでしょうが、ホームズのあの短篇とデュパンの例の作品のバリ
エーションです。「江戸時代を舞台にしたミステリ」を書くつもりだったのですが、
出来たものは時代劇の出来損ないになってしまいました。
 主人公の片岡彦十郎は、書いているときは水流添我童(つるぞえ・がとう)とい
う名前でした。勘のいい人は判ると思いますが、これはテレビ「江戸中町奉行所」
で、近藤正臣のやっていた同心の名前です。ですから、もし俳優をイメージして読
まれるなら、近藤正臣をイメージして下さい。
 本所元町に稲荷があったか、この時代仕出し屋が存在してたかどうか以外、時代
考証には正確を期したつもりです。もし誤りがありましたら、ご指摘下さると有難
く思います。
 メインの謎が話の半ば以降になって出て来るのでどうも中途半端な出来になって
しまいました。これで成功するのはブラウン神父と北村薫位だろうなあ(そういや、
謎解きが論理的な手順というよりひらめきになってるのもブラウン的だ……これは
言い過ぎか)。
 「『い』の巻」としていますが、これから続くかどうかは判りません。もし続け
たとしても元禄期を舞台にするかどうかは考えておりません。
 ご意見、お叱りの言葉をお待ちしております。


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