Nobody

                                木下信一
                                真名瀬隆

    「そんな言葉、わが国語には存在せん!」雀蜂が言いました。
                         『鏡の国のアリス』より


「実際、無人が見えるなんていうことが、あると思いますか」
私がこう言ったのは、水島寒月がお茶を淹れてくれているときだった。
 夕方本を返しに行き、そのまま上がり込んで雑談というのは、我々にはよくあ
るパターンだ。その時出たのがアリスの話題だった。
「ほら、『鏡の国』で白のキングとアリスのやりとり。あっこ、訳者が苦労しと
うやろ。『誰が見える』『見えるのはノーバディーです』『そんな目が持てたら
のう。わしは実際にいる者しか見えん』いうとこ。『道には……全然』『全然が
見えるのか』なんちう訳があったけど、苦労してるわ」
「そういえばそんな話、本で読んだような気がします」
「原典は読んでないやろ。どっちかいうたらそっから後のギャグがおもろうてな。
使者が走って来んねんけど、『途中で誰かを追い越したことは?』『自分の追い
越した者はノーバディーであります』『この子もノーバディーを見たそうじゃ。
察するに(ここで寒月は英語になった)Nobody walks slower than you.』ほな
使者が怒ってな。『I'm sure nobody walks much faster than I do!』『それな
らノーバディーはここに着いとる筈じゃ』」
 寒月は面白そうに笑ったが、たいして英語の得意でない私は曖昧に笑うだけだ
った。ここから話は無人の語彙について脱線して行った。
「まあ、大体が日本語に『無』を表す名詞がありませんからね。無とか無人とか
いうたってどうも座りが悪いし。印欧語みたいに自然には行きませんよ」
「英語やドイツ語でも不自然や思うネイティヴは結構おるみたいやで。ちょっと、
はっきりとは憶えてないけどな、ドイツの座敷わらし、ニーマントとかいう名前
らしいわ。ドイツ語で無人いう意味やな。無人さんが存在感持ってるとこなんか
『アリス』と一緒や。そういうたら『海底二万哩』のネモ船長、あのネモいうの
もラテン語で無人いう意味やった筈や」ここまで来ると寒月の脱線はとどまるこ
とを知らない。
「ギリシャ語でいうたらウーティスか。オデュッセウスがサイクロプスに捕まっ
たときに名乗った名前がウーティスやったな。サイクロプスをひどい目に遭わし
て逃げるねんけど、そいつが苦しんでたら仲間のサイクロプスが出て来て『誰に
やられた』いうて尋くねんな。『ウーティスや』言うたら『なんや、自分でやっ
たんかい。人騒がせな』言うて仲間は帰って行きよった。無が存在するちうのも
おもろいわな。あ、そうそう。アメリカの服の広告でおもろいのがあったそうや。
服のメーカーをA社としよか。『A社の服よりよりええもんはない』いうのん、
英語で言うてみ」
「Nothing is better than A-made clothes.ですか?」
「それでええけどな。この英文の書いてあるポスターがな、自転車に乗った女の
子の写真なんや。その女の子がなんも着てへんねん。『A社の服よりええもんは
ナッシングである』」
 私があまり面白そうな顔をしなかったからだろう。寒月は、
「のど渇いたやろ。お茶淹れてくるわ」
 と言って、台所へ消えた。
 寒月の言うお茶とは紅茶のことである。それも英国式に真っ黒になるまで出し
た紅茶に冷たい牛乳(クリームではない!)という取り合わせだ。最初の頃は渋
みがどうもいただけなかったが、最近ではこの紅茶が出るのを楽しみにしている。
じっくりと時間をかけるので十分以上待たなければいけないのが玉に瑕だが。
 彼を待っている間、本棚を眺める。閲覧自由の許可を得ているので遠慮するこ
とはない。百冊はあろうかというアリスの関係書の棚から、『鏡の国』の訳で手
近な数冊を手に取って話題になったところを確認した。寒月いうところの「訳者
の苦労」を見ている内に、つい先日の奇妙な体験が思い出された。それで、寒月
がトレイにポットを載せて戻ってきたときにこう尋ねた。
「実際、無人が見えるなんていうことが、あると思いますか」

 話がてれこに(これは寒月から教えてもらった関西弁で「入れ違いに」という
意味)なってしまったが、水島寒月という人は私には高校・大学と先輩に当たる。
とはいっても私と三年離れているので実際に高校で一緒だったことはないし、大
学も学部が違う。私は文系で彼は理系だ。確か、面白いOBがいるということで
誰かに紹介されたのが知り合ったきっかけだった。変人だという噂を聞いていた
からどんな人かと思っていたら、話しやすい人だったので驚いたのを覚えている。
自己紹介の時、
「水島寒月。ようもこんな冗談みたいな名前をつけてくれたもんやと親を恨んで
んねんけどね」
と言っていた。
 今考えたら、むしろこの人のご両親、人を見る目があるなと思う。一風変わっ
たユーモアの持ち主で、実際、首縊りの力学を計算しかねない人だったのだ。一
度大学で、魚類と哺乳類の間の雑種を作るのにどんな手法を使えばいいか友人と
議論したことがあるそうだが、何でそんなことを考えたのかと尋いたら、
「いや、ウナギとイヌの雑種が作りとうて」という返事だった。
 こんな話もある。理系だというのに高校生の家庭教師で国語と英語を教えてい
たときのこと、ちゃんと韻を踏んだ漢詩と英詩とを作ってみせたらしい。もっと
も、完全なオリジナルを作る気がなく日本語から翻訳したのだそうだ……「大坂
本町糸屋の娘」を。
「もともと漢詩を教えるための唄やねんから頼山陽も本望やろ」と、悪びれもせ
ず言っていた。
 私もどちらかと言えば変わっている部類なのでうまがあった。だから知り合っ
て数カ月で、留守中でも家に出入り自由との許可をもらった。本好きの私は寒月
の家の、本棚から溢れている蔵書と、寒月本人の口から溢れでてくる知識とが目
当てで通うようになった。一人っ子の寒月は、私をきょうだいみたいに思うのだ
ろう。いつ行っても歓迎してくれた。それでこっちもつい甘えてしまって、長居
をしてしまう。

「え? 無人が見える?」
ポットからカップにお茶を注ぎながら、寒月は聞き返した。
「無人が見えるて、あんなぁ、日本語でやで、そんな不自然な物言い無いで。英
語にしてもノーバディーが見えるいうのは慣用句なんやし……別にお前さんの英
語力疑うてる訳やないけどな」
「いや、言葉の問題やのうて、実際、無人が見えたとしかいいようがないんです
よ。寒月さんのノーバディーで思い出したんですけどね」
 寒月は訳が解らんという顔をしていたが、
「なんや解らんが、お茶飲みながら話してくれるか。……あ、ちょっと待ってな」
そう言ってまた台所に行った。出て来たときにはスコーンにホイップクリーム、
オレンジマーマレードを皿に載せて持っていた。私の前で座り直して、「適当に
つまみ。それで、どういうことなんや、無人が見えるて?」と、話を促したので、
私は昨日の奇妙な体験について話し始めた。

 昨日のこと、日曜ということもあって私は特に当てもなく町に出た。大学が町
の中にあったので、学生時代は毎日のように出て来ていたのが懐かしくなったの
だろうか。空が晴れていて、まだ二月の末だというのにトレーナーでは暑いくら
いだった。
「何や、お前昨日もその真っ赤な上着着とったんか」
「ええ。上がトレーナーに下がジーパン」
「ほとんどお前さんのトレードマークやな」
「ほっといて下さい」
 寒月が言うように私は上が真っ赤なトレーナー、下がジーパンという恰好でよ
く歩く。親にはもう少しおしゃれに気を配ったらと言われるが別に気にしない。
その日もいつもの恰好でデパートの中を廻って出てきたら、国道を挟んで正面の
ビルに遠く見えるデジタル時計は三時を示し、町には鐘が鳴り響いていた。デパ
ートを出たすぐ横には地下鉄の駅の出口が口を開けていて、正面には国道が走っ
ている。国道にかかる横断歩道の信号が青だったので渡ろうとする、と、私は人
にぶつかりそうになった。
「危ない奴っちゃな。ちゃんと前向いて歩かんか」
「ちゃんと前は見てましたよ。でも急に前の人間が止まるもんやさかい……」
「ほんで、ぶつかったんか?」
「いえ、すぐによけました」
 何とかよけて歩いたが、女性はその場に立ちつくしている。通りすがりに目を
やると十八、九の女性で、ちょっと中性的な雰囲気がした。身長は百六十くらい。
目の覚めるような赤の、やや大きめのカーディガンを着て、下は濃紺のスカート、
左の肘に布で出来たバッグをかけている。髪はショートカットで顔は……そう、
絵で見たベアトリーチェ・チェンチに似ていた。
「あのなあ、もうちょっと他に喩えようがあるやろが。何もそないな名前出さん
でも」
「でも似てましたもん」
「似てるにしたかてな……。普通人を喩えるのに絵は使わんで。ときどき、お前
の感覚解らんようになるわ。前も確か女の人見て、あの人ゴヤの描いたマハにに
似てません、言うてたわな。その前は男の人相説明すんのに西郷隆盛やろ……」
「そやかて似てたもんしゃあないでしょ」
「……まあええわ。それで? そのフロイラインだかメートヒェンだかはどない
したんや?」
 その日は日曜だというのに、町にはそれほど人が出ていなかった。彼女のこと
を私は少し怪訝に思いながらも横断歩道を渡った。しばらくすると、脇を早足で
すり抜けるものがある。見るとさっきの女性だ。駆け抜けて行ったかと思うと、
横断歩道を渡りきった辺りでまた止まった。つられて後ろにいる私も立ち止まる。
彼女は立ち止まって天を仰いでいた。私も空を眺めた。
「どや、富嶽でも飛んでたか?」
「富嶽って……。いえ、なんも飛んでませんでした」
「なんか珍しい雲でも浮かんでたとか」
「全く。快晴いうのはあんなんいうんでしょうね。雲一つない青空でした。つい
でに言うたらピルトダウン人の飛び降り騒ぎもありませんでしたよ」
 立ち止まった女性はしばらく上を見ていたが、今度はうつむいた。よくみると
肩を震わしている。笑いをこらえているのだろうか。
 信号が点滅したのであわてて横断歩道を渡りきる。渡った先はそのままアーケ
ードの商店街に通じる。歩行者のほとんどはそのままアーケードに入る。この町
の中心地だけあってさすがにこの日も混んでいた。
 そのころには彼女も歩きだしていた。まっすぐ商店街に入って行くものと思っ
て見ていたが、違った。彼女は左に折れた。国道に沿っても商店が立ち並ぶ。で
もこのあたりはアーケードと違いあまり人通りがない。
 これは私の欠点なのだが、どうも人より好奇心が旺盛らしい。もし猫にでも生
まれていたら十ほど命を落としていたところだが、幸い人間だからまだ死なずに
済んでいる。彼女の奇妙な行動を見た私は無意識にあとを追いかけていた。彼女
は道の右端、つまり店のウィンドウのすぐ前を歩いて行く。私は彼女の斜め後方
十メートルくらいのところ……、
「つまりやな、その娘が歩道の店側やとしたら、お前さんは車道側やった訳やな」
「そうなりますね。丁度歩道を挟んだ形になります。そっから後ろに十メーター
いうとこですか」
「その距離は、そのままずっとか?」
「ええ、そうです。つかず離れず、ですね」
「……大したもんやが、まるで警察やな」
「はは、自分でもそない思いましたわ」
「お前、いつもそんなことしとんちゃうやろな?」
「まさか……」
 変な方に話が行ってしまった。誤解の無いように云っておくが、私はかつてそ
ういう真似をしたことは一度もない。実際、それほどうまい尾行でもなかった。
彼女が気をつけてさえいればすぐにでも気がついたろう。もっとも、普通あとを
つけられていると考える人間はいないし、十メートルも離れれば気配だってしな
い。それに彼女はほかのことに気を取られているようだった。だから、それほど
の苦労もなく追うことができた。
 彼女はうつむいて歩いたかと思うとまっすぐ前を向いて歩く。時々は立ち止ま
りさっきと同じように笑いをこらえているかのような恰好をする。一度は立ち止
まって、左手で髪をかきあげるような動作をした。
「髪をかきあげる?」
「ええ。ハンドバッグぶら下げたままで左手上げたんで、えらい不便そうやった
ん憶えてます」
 横断歩道から二百メートルも歩くと道路は右へ直角に曲がる。この角は実際に
は十字路になっているのだが、横断歩道がない。だから歩行者は向こうに渡るし
てもそのまま右折して、次の交差点まで歩かねばならない。角まで行く二十メー
トルばかり手前に、通りに面して古本屋がある。ここで私は少し立ち止まった。
なにせ入り口そばのショーケースに長崎耶蘇会版『れげんだ・おうれあ』上下二
巻……。
「ちょっと待て。『れげんだ・おうれあ』やて? なんで、そんな本があるねん?」
「知りませんよ。とにかくあったんですから」
「国道沿いの古本屋いうたら蓬莱堂か。明日行ってみよ。……それで、本に見と
れてる間に見失うたか?」
「いえ、ちょっとショーケース眺めただけですぐ追いかけましたから。いうても、
相手は角曲がりかけてましたけどね」
 彼女は道に沿って曲がった。私は急いで追いかけた。パチンコ屋の建っている
角を曲がるとそこはアーケードの商店街と同じく町の中心地となっていて、かな
り混雑している。曲がったところで私は彼女を見失ってしまった。しばらく立ち
止まって辺りを見回していたが見つからない。二百メートルほど先の交差点の信
号は時差式で、目を凝らすと歩行者用信号が全部、直進するのも曲がるのも赤に
なっているのが見えた。
 この頃になると私は是が非でも彼女を見つけてやろうという気持ちになってい
た。信号の変わらないうちに交差点まで行ってみよう、そうすれば途中で追いつ
くかも知れない。
「途中の店に入ったとは考えんかったんか?」二つに割ったスコーンにオレンジ
マーマレードをつけながら寒月が尋いた。
「考えることは考えましたけど、あの辺て、それほど女一人で入る店無いでしょ。
角から順にパチンコ屋、不動産屋、事務用品店、ミスタードーナッツ、路地があ
ってそこは……」
「その辺でええよ。角曲がってすぐ見失うたんやから、事務品屋より先へは行っ
てへんわな。路地の先は行き止まりやし。今言うた店に入りよったらお前さんの
こっちゃ、気がつく筈やろ。……続けて」
「続けていうても、あとはそんなにありませんけどね。一応、ミスタードーナッ
ツは気を入れて見たんですよ」
 私は店にも少しは気をつけて、やや早足で人混みを縫って行った。信号が変わ
るまでに交差点に着いたが、そこまでの間に彼女らしい人影は全く無かった。角
を曲がってからこの交差点までの間で、その女性は跡形もなく消えてしまった。

「……たちまちにして入りにけるかな、か」
「月ですね。ほな、水の辺の雀を見つつ笠を取り、と付けんのはどうです」
「ちょっと作りもん過ぎんか? まあ、それやったら地蔵菩薩にはぎを供へて、
と付けて……ちゃうやろ。何の話しとうねん。で? 話はそれだけか?」
「で、って……それだけですけど」
「違うな。さっきお前は『無人が見えるなんていうことが』っちうたわな。今の
話だけやったらこんなこと言う筈がない。『目の前で人が消えたんです』とか
『町中で空を仰ぐいうたらどんな人間でしょう』とか言うてる筈や。もう少し続
きがあんのとちゃうか?」
「そうでしたね、まだ先があります。なんせ目の前で人が消えたもんで、妙なこ
とやなと首捻って帰りよったんですよ」紅茶の残りを飲みながら私は話を続けた。
 かき消すように彼女は消えてしまった。私はしばらく呆然としてそこに立ちつ
くしていた。歩行者信号が青になり、人々が信号を渡る。何度か人にぶつかられ
てようやく私はわれに帰った。そのまま信号を渡ってもよかったのだがどうもす
っきりしない。そこでもと来た道を引き返すことにした。今度は注意深く店を眺
めながら。
 二百メートルの間にかなり多くの店が並んでいる。普通にかかる倍くらいの時
間をかけてその二百メートルを歩いたが、結局、彼女の姿はなかった。
 アーケードの店を少し冷やかしてから帰ろうと思ってパチンコ屋の角を曲がっ
た。さっき女性のあとを尾けたときとは逆に今度は歩道の店側を通る。いつもな
ら古本屋に必ず入るのだが、その気もなくなり素通りした。古本屋を過ぎて少し
歩くと喫茶店がある。
「アルカディアやな」
「ええ、そうです」
 この店の中では、主の趣味だろう、いつも「モーツァルトの子守歌」が流れて
いる。店の雰囲気が落ち着いているのとケーキが美味しいのとで平日でも結構人
が入っている店だ。大学への行き帰り、必ず前を通っていたので、私もよく使っ
ていた。その前を通ったときに後ろから呼び止められた。
 「なんや、お前やったんか」という声に振り向いてみれば友人が立っていた。
「友人?」
「本筋に関係ないんで、名前は言いませんけど」
「まあええわ。ほんで?」
 その友人は今喫茶店から出てきたところだった。店の奥から見るともなく表を
見ていると、私らしき人影が歩いているのを見たらしい。ひょっとしたらと思っ
ているところへ私がもと来た道を戻ってきたので店を出て声をかけた、と、いう
ことだった。
 どうしたのかと尋かれた私は、さっきの女性のことを話した。友人を見るとな
んとも奇妙な顔をしている。少ししてから彼はこう言った。
 「そんな娘、通ってないで」

「いう訳なんです。その娘が歩いてたのは歩道の店より、こっちの歩いてたんは
車道より、娘を見てこっちが歩いてんのを見損ねることはあっても、逆は考えら
れんのです。あれが娘を見てないいうんやったら、一体誰のあとをつけてたんか。
見えんもん追っかけてた、いうたら無人が見えてたとでもいわんとしょうがない
んですわ」
 寒月は今までの話を興味深く聞いていたようだった。
「……ふーん。まあ、おもろい話聞かしてもろたわ。それで『鏡の国』やけどな、
無人の話のあとでアリスがユニコーンに紹介されてな……」
「ちょっと、それだけですか?」
「ん? まだ続きがあんのか?」
「いや、そやから、おかしいなあとか、なんでやろとか……」
「『天と地の間にはな、哲学なんぞの思いもよらんことがあるねんで』いうのは
あかんか?」
「あのねえ、寒月さん、今ここで哲学や英文学はええんですよ。問題は……」よ
く見ると寒月は笑っていた。
「解った解った。結局な、不思議の元は古本屋や」
「古本屋? どういうことです?」
「……つまりやな、お前が蓬莱堂の前で立ち止まったからからそんなおかしなこ
とになったんや。もし古本屋の前を素通りしとったら、お前さんも尾行に成功し
て、何で立ち止まって空を眺めてたか解ったやろな」
 どういうことなのだろう。口ぶりからするに寒月はもう謎が解けたと言いたげ
だが……。
「え? もう解ったんですか?」
「まあな。説明しよか。途中で何回かお前さんに質問すると思うけど、ええか?」
「ええですけど」
「まづ確認しておきたいんやけど、ぶつかりかけたとき、信号は青やったんやな。
赤のうちにみんなが渡りだしたいうことは」
「ありません。デパートから出てきたときにはもう青でしたから」
「そうか。青信号で一人だけ立ち止まった訳やな。相当目立ったやろ」
「まあ、目立ったいうたら目立ってましたわね」
「やろな。ほな、なんでそないなことをしたか。
 第一に考えられるのは、目立つことが目的やった、いうことや。つまりやな、
彼女は何らかの秘密を持っててそれを人に伝えなあかん。ところが自分は見張ら
れてる。自分一人では追手を巻けん、さあどないしょ……。そこで出てくんのが
赤いカーディガンや。彼女は組織の仲間に見張られていることを知らせるため、
横断歩道の途中で止まるてな目立つ真似したんや。多分赤い服は尾行のついた印
とか約束がしてあったんやろな。実はお前は気がつかんかったやろけど、お前の
後ろにもう一人、彼女をつけてた奴がおったんや。お前、その女の子の顔がベア
トリーチェ・チェンチに似とう、言うたな」
「ええ、言いましたけど」
「それもその筈、彼女はイタリア人と日本人との混血で、イタリア政府のために
日夜働くスパイやった。角を曲がったところで仲間が待ってた。すぐに保護して
隠れ家に消えたんや。
 消えかたか? そんなもん、なんぼでもあるやろ。例えばやな、角曲がったと
こにトランポリンでも置いとってパチンコ屋の二階に飛び込む。目立つことは目
立つけど、人がみても映画の撮影ぐらいにしか思わん。すぐ撤収したら大丈夫や
ろ。
 もう一回立ち止まったんは、仲間が了解する合図を確認するためや。途中、何
回か笑いをこらえてるみたいやった、言うたな? それはな、文字どおり笑いを
こらえてたんや。仲間に連絡が行った、これで尾行の連中を巻ける、そう思たら、
おかしいてたまらんかったんやろ。
 お前の友達な、そいつも組織の一員で、彼女を隠すのに一役買うたんや。それ
でお前さんが事情を話したときに、これはまずい思て、とっさに嘘ついた、と、
こういう訳やな。いやあ、危ないとこやった。下手したらお前さんスパイ騒ぎに
巻き込まれてたんやで……」
 私はしばらく言葉が出なかった。一体、この人は本気でそんなことを考えてい
るのだろうか。
「寒月さん」つい言葉が荒くなる。
「あ、今の解釈はいやか?」
「あたりまえでしょ!」
「そうかそうか。ほな、こういうのはどうや。何で彼女は消えたか、何でお前に
しか見えなかったんか、たぶんこれには深いわけがあると思う」
「深いわけ、ですか?」
「そうや。今から十年ほど前になるかな。女子校に通てる女の子が付き合うてた
男に振られたんや。別れ話がこじれたんが横断歩道の上、男は立ちつくす女の子
をほっといてそのまま歩いて行ったんやな。
 彼女は横断歩道を渡った。左へ折れてずっと行ったとこのパチンコ屋、あそこ、
二階から上は貸しビルになっとうやろ」
「はい」
「彼女はビルに駆け込む。屋上から飛び降りて下へドスン……。あとから赤いカ
ーディガンがひらひらと舞うて、彼女の屍体の上にかぶさるように落ちたらしい
わ。それ以来毎年その日になると赤いカーディガンの女の子の姿が現れるねんて。
 お前、女の子の後ろ姿が笑いこらえてるみたいやったていうたけど、ほんまは
な、肩震わして泣いてたんや。自分から離れて行った男のことを考えながらな。
ああ、なんと悲しい恋物語……」
 さすがに私も呆れて、
「……あの、寒月さん、真面目に考えて貰いたいんですけど」と言ってしまった。
「え? 僕は真面目やで」
「どこが真面目なんです?」
「いや、ことほど左様にやな、彼女の行動に意図的なもんを考えたら、まあ、デ
ータ不足いうこともあるやろうけど、行き着く先はナンセンスなもんになってし
まう。そやから、ここで一つのことを仮定してかかろやないか、いや、仮定して
も間違いないと思う」
「何です?」
「彼女の行動にはなんら意図的なもんはなかった。つまり、彼女はなんら小細工
を弄してない。これはええな?」
「認めましょう」
「さっきのあらましで、不思議なことは三つに分けられると思う。まづ第一に、
なぜ横断歩道の真ん中で彼女は立ち止まったか。次に、彼女はどうやって消えた
か。最後に、お前さんの友達にはなんで彼女が見えんかったか。……さっき、彼
女の行動にはなんら小細工がないて仮定したな」
「はい」
「そこからこう考えることが出来る。一つには、今言うた三つの謎は各々独立し
てる。それと、謎は三つとも偶然が重なったから、または出来事の一部しか見え
んかったから不思議に見えたんで、全体を見渡したら我々もようやってるような
ことや。これは解るな?」私は黙って頷いた。
「時間としては逆になるけど、いちばん最後の謎から考えてみよ。お前さんの友
達は何でその女性を見んかったか。
 ここでちょっと確認しとくけど、友達のおった喫茶店な、その日も混んでたか?」
「混んでたと思いますけど、そんな無茶苦茶にいうほどでもありませんでしたよ。
それが何か?」
「別に混んでのうても大した差はないんやけどな。次に、友達は店の奥から表を
眺めてた。ええな?」
「その通りです」
「件の女性は歩道の店側、お前さんは車道側を歩いてた。そやから、その女性が
見えてお前さんは見えんかったいうことはあってもその逆は有り得ん。これもえ
えな」
「はい」
「ほな答は見えとうやないか」
 寒月は簡単にいうが、私には全く解らない。それを知ってか知らずか寒月は、
「五分あげるわ。その間に考えてみ」まるで家庭教師が問題を解かすような口ぶ
りで言う。
 私は熱心に頭を働かした。寒月は新しいお茶を淹れるのに台所へ立ったり、ス
コーンにつけてホイップクリームを(逆ではない、念のため)食べたりしている。
 さてどうしてあの女性が友人には見えなかったか。こういうのはどうだろう。
彼の女性が通ったとき、ちょうどウェイトレスが来て注文をとっていた。いや、
駄目だ。喫茶店の前を通ってから戻ってくるまでに十五分ほど。その時には友人
は出ようとしていた。いくらなんでも時間が足りない。
 たまたま彼の前を通って先客が帰った。それが目隠しになって女性が見えない。
これも駄目だ。もしそうなら私も見えない筈ではないか。
 確か彼は近眼だ。だから彼女を……よけい駄目だな。もし彼女が見えないなら、
もっと遠くの私は見える筈がない。

 五分間考えてみたが解らない。「解りません。降参です」私は両手を上げた。
「解らんか? しゃあないな。まづ、念のために尋くけどお前さんの友達な、色
盲やないやろな」
「免許持ってますから違うでしょ。近眼やったとは思いますけど……」
「やっぱり色盲やなかったか。近眼かどうかはどっちでもええねん。さて、その
友達が喫茶店におった。お前もよう使てるやろから、知っとう思うけど、最近の
喫茶店いうのは客が入ってきたら店のもんが席まで連れて行きよう。混んでたら
どこでも空いたとこに連れて行くけど、ある程度空いてたら店のもんはまづ間違
いなく窓際に案内する」
「でも奥の席から見てたて言うてましたよ」
「お前さんの友達のことやない。多分、友達は奥から表を見てたやろ。ただ見と
った先の窓際にはおそらく人が座っとった。混んでても、ある程度空いとっても
な」多分そうであろう。
「そこで尋きたいんやが、お前さんはそいつが表に出てきたときに会うたんやろ」
「ええ、そうですけど」
「別に誰とも一緒やなかったな」
「一人でしたよ」
「いうことはや、お前の友達は誰とも待ち合わせをしてなかったことになる。も
し待ちぼうけ喰らわされたんやったらお前さんと話してるときに少しは話が出た
筈や。
 誰かと待ち合わせしてるときには表を結構気いつけて眺める。すぐにでも合図
できるようにな。でもお前の友達は誰とも会う約束をしてへんかった。いうこと
はや、表を見るでもなくぼーっと見てたと考えて間違いはないやろ」
「そやから彼女を見過ごした、ですか? それはちょっと……」
「待たんか。話は最後まで聞け。友達がぼーっと表眺めてたいうのはええな。そ
こで僕はこう考えたいねん。お前の友達は彼女を見てる」
 どういう意味だろう、友人が嘘をついたとでもいうのか。彼が嘘をつくとも思
えない。第一、私に嘘をついても得になるようなことがないではないか。
 困惑した私の顔を読んでか寒月は言った。
「ちょっと話は飛ぶけどな。お前さん、消えた女の子がどんな服装をしてた言う
た?」
「確か赤いカーディガンに濃紺のスカート」
「そう言うたわな。お前さんは後ろから見てたから全身が見える。お前が彼女の
姿を思い起こすのにスカートが必ず頭に浮かぶ。
 そこでや。もしお前の友達が喫茶店のウィンドウ越しに彼女を見たらどう見え
るやろ?」
「あの喫茶店は天井から床まで全面ガラス窓ですよ。そやから、やっぱり全身が
……」
「忘れてるな。さっき窓際の席には人がおる筈や言うたやろ。お前の友達からは、
彼女は上半身しか見えんかったことになる。ということは、友達から見えたんは
赤いカーディガンだけいうことや。
 人間の外見でまづ目につくのは上着、スカートはいてたらスカート、それから
髪型、この三つやろ。ただ男か女かが判らんとき髪型は余程長ないと特徴にはな
りにくい。彼女の髪の毛が長かったらお前の友達も長い髪いうて頭に残っとった
やろ。実際にはショートカットやったから赤い服しか頭に残らへん」
 どうも寒月の言っていることが解らない。一体、何を言いたいのだろうか。
「特に関心もなしに表見てたら、顔の造作まで気が行けへんよ。つまり、もし友
達に例の女の子が見えたとして、頭に残るのは赤いカーディガンだけやろな。
 ここでひとつ考えてみよか。お前さんの友達がみたんな、それ、ほんまにお前
やったんやろか?」これだけ言い残して寒月は台所に行った。

 ポットを手にして戻った寒月は二つのカップにお茶を注ぎながら話を続けた。
「さっきお前が言うたわな、彼女を見て自分が見えんことはあってもその逆はな
いて。いうことはや、友達は女の子とお前さんの両方を見たか、彼女だけを見て
お前さんが見えんかったか、どっちかやな」
「はい」
「お前さんだけが見えたて言うた以上、ウィンドウ越しにお前さんら二人が順番
に見えたいうことはないやろ。それでや、こうは考えられんかな。つまり友達に
は、彼女は見えたけどお前は見えてなかった」
「なんですて?」
「さっき話したやろ、もし友達が女の子を見てたらどない見えるかて」
「はい。赤いカーディガンだけしか頭に残らへんて言いましたわね」
「お前の友達がそれを見たら、誰やと思うやろ?」
「?」
「自分のことは気がつかんと見えるな。お前さんや。さっき僕は、友達が彼女を
見たと考えるていうた。もっというたら、彼女とお前さんを取り違えたんちゃう
かと思たわけや。ちょっと、友達の見たままを再現してみよか。
 お前の友達はぼーっと表を眺めてた。そこへ赤いカーディガンを着た人間が通
る。下半身は見えへんから赤い上半身だけが見えたんやな。赤いうことでなんと
なくお前さんのことを思い出した筈や。そろそろ表に出よかと思てたら、さっき
赤い人影の行ったほうからお前さんが帰ってくる。トレードマークの赤いトレー
ナー着てな。ああやっぱりさっきのはお前やったんか、そう友達は思た。いうた
ら友達が見たんは彼女であって、それをお前さんやと思い込んだ訳や」
「ちょ、ちょっと待って下さい。上半身しか見えへんからスカートかジーパンか
は判らん、赤い上着着てる奴としか思わん、それは解ります。でもバッグはどう
なるんです? 手に持ってたら気がつくでしょう」
「彼女はバッグをどっちの肘にかけてた?」
「左ですね」
「そやろ。彼女はバッグを左手にかけてたんやで。喫茶店から見えるのは彼女の
右半身やろ。体に隠れてバッグは見えへんよ」

 紅茶を飲んで、また寒月は話を続けた。
「お前さんの友達が彼女を見んかった訳はこれでええとして、次に二番目の謎に
行こか。彼女はどうやって消えたか。そこで尋きたいんやが、彼女が見えんよう
になったんは、どの時点や? お前はどこまで彼女を確認してた?」
「そうですね……、角を曲がったまでははっきり見てました。彼女が角を曲がっ
たんで急いで角まで行ったんですよ。それで曲がったらおる筈の彼女が見えんよ
うになってた。そんなとこですかね」
「そんなとこやろな……。それともう一つ、角を曲がったとき、お前、なんで彼
女が信号まで歩いて行ったと考えたんや?」
「なんでっていわれても。向こうの方で彼女が歩いてんのを見たような気が……」
「やろな。彼女みたいなんを見かけたから急いで行ってみた、ところが信号まで
行っても彼女はおらん。さあ消えた……、と、おそらくはこうやったんやろ」そ
の通りだった。
「さて、さっき友達が陥ったんと同じ落とし穴に今度はお前が落ちたんや。彼女
を見失うて焦ったお前は辺りを見回した。前の方に赤いもんが見える、人混みや
から人の上半身しか見えへん。てっきりお前はその姿を彼女やと思て追っかける。
ところが追っかけてんのは彼女やない。いつまで行っても見つからん訳や。
 まあ、そんなことはどうでもええんやけどな。赤い服を見たにしても見んにし
ても、お前は多分彼女がまっすぐ信号まで行ったと思たんやろ。……それはそう
と、先週の日曜日は暑かったな」
「ええ。冬やというのに汗かきました。もしトレーナーやなかったら……」
「脱いでたやろ。お前のトレーナーは頭からかぶる式やからな。ちょっと人前で
は脱ぎにくい。そやけどその天気やったら誰でも暑かったやろな。前ボタンのカ
ーディガンやったら脱いでもそれほど恥ずかしない。とはいうても道みち歩きな
がら脱ぐやなんてことはせん。ちょっと物陰で、とか角を曲がったときに、とか
なるやろな」確かにそういうことはある。
「ここまで言うたら解るな。角を曲がったときに彼女は上着を脱いだんや。濃紺
のスカートはいてた言うたな? その色のスカートやったら多分カーディガンの
下は白いシャツかブラウスやったんちゃうかな。
 お前が古本屋のショーケースに見とれてたときに彼女は角曲がったんやろ? 
その時点で、お前さんらの間は大体二十メーター離れることになる。そこからお
前が急いで角まで行ったとしても、走っては行かんやろから十秒から二十秒はか
かるな。それだけの時間があったら隅に寄る、恥ずかしいから通りに背中向けて
カーディガンを脱ぐ、脱いだら丸めて手に持ついうくらいのことは出来る。いや、
出来るいうより、ちょうどそのくらいでお前さんが角曲がって来るタイミングに
なるわな。
 人間の心理いうのはおもろいもんでな、今まで動いてたもんはそのままずっと
動いてると思てしまうんや。今の場合やったら、彼女が角を曲がる、お前には見
えんようになった先で実際には立ち止まってるかも知らん。でもお前の頭の中で
は彼女は角を曲がったらそのまま歩き続けとんねん。そやからお前さんは角曲が
ったら何も考えんと前を見てしもた」そう言いながら寒月は皿の上のスコーンを
私に放ってよこした。
 いや、よこしたと思った。しかし私が手で受けようとしても、何も来ない。寒
月はどうだと言いたげな目で私を見ながら、まだ手にしているスコーンを皿に戻
した。
「言うた通りやろ。それでお前さんが前を向いてたとしてやな、そのお前の目に
見えへんかったいうんやったら、彼女は先へは行ってなかった、お前の側におっ
たと考えんとな。
 それでもまだ彼女が赤いカーディガン着たままやったら気がついてたやろ。気
がつかへんいうことは彼女の姿が角曲がる前と違てた、理屈ではそうなる。つま
り彼女はカーディガンを脱いだと考えるべきなんや。
 彼女は今や白ブラウスに濃紺のスカートいういでたちや。そのうえ背中を向け
てる。お前の目には彼女とは映らん。目の前から彼女が消えたわけや。
 うろたえたお前はすぐそばに彼女がおるのに気がつかんかった。そのうち前の
方に赤いもんを見たから急いで行ってしもたんやな」
「でもねえ、寒月さん、信号まで行ってからまた戻ったんですよ。しかも帰りは
店も念入りに見て。最初は気がつかんでも帰りには気がついた筈やと思いますが」
「そのまま彼女が歩いてきてたらな」

 寒月の言葉には妙に引っかかるものがある。そのまま歩いてきてたらとはどう
いうことか? 歩いてこなかったのならどこへ行ったのか。
「お前さんの目を信用するとして、信号から曲がり角へ戻るまでに彼女を見んか
ったいうんやったら、こう考えんとしゃあない。彼女は角を曲がったけどもそっ
から先へは行かんかったし、店にも入らんかった。ほなどこへ行ったか? 答は
一つ、もと来た道を引き返したんや」
「引き返した? 何のために?」
「『さてどんじりに控えしは』っちう訳やないけど、最後に残った謎な、なんで
横断歩道の真ん中で立ち止まったか。彼女が引き返した、いや、引き返さなあか
んかった理由はこれと関係があると思う。
 その女性やけどな、横断歩道を渡りきったあと、もう一回止まって空を見上げ
たいうたな」
「はい。そのあとうつむいて……」
「その時やけど、ほんまに空を見上げてたんやろか? 上を眺めてたんは確かや
ろけど、見てたんが空やていえるんやろか」
「空以外に何があります?」
「まあええわ、次に彼女はうつむいた。この二つをセットにして考えたらこうな
るな。彼女は上を見てそのあとで下を見た、彼女をうつむかせる原因が上にあっ
た、そうはならへんか。
 ここで、彼女が下を見たら何が見えるか考えて見よ。何が見えるやろな?」
「何って……地面くらいなもんとちゃいます?」
「地面になんかあったか?」
「いえ、何もありませんでしたよ」
「何もない地面見たってしょうがないやろ。地割れが起きてハーデスでも出て来
るんやったらともかく。彼女の見てたんはそやから地面以外のもんや。そこでさ
っきもお前が言うたけど、彼女はハンドバッグを左の腕にかけてた。そのとき左
手はどこに行くやろ」
「どこって、体の前でしょ。……つまり、うつむいたのは左手を見るためやった
言いたいわけですね」
「近いな」
「でも左手を見てなんになります? 町中で左手見て楽しいですか?」
「楽しいかどうか判らんが、見る必要はあった。左手いうより左手首についてる
もんを見る必要がな。つまり時計やな。大抵の女の子は時計つけんのに文字盤が
てのひら側になるようにする。そういうつけかたしとってハンドバッグを左肘に
かけてたら、目を落とすだけで時計を見ることができる。後ろから見たら、単に
うつむいてるようにしか見えへん。そう考えたら彼女が見上げてたもんも見当が
つくわな」
「デジタル時計!」
「よくできました。そう考えてきたら最初に彼女が立ち止まった理由も解る。三
時の鐘を聞いたからや。
 今までのことをまとめてみよか。彼女は三時の鐘を聞いて急に立ち止まった。
お前が彼女に気がついたんはこの時やから、鐘を聞いてから立ち止まるまで彼女
が何をしてたかは見えん。それから彼女は急いで横断歩道を横切って、近くから
デジタル時計を見上げた。そのあと自分の時計をみた。こうなる。
 次に、何で彼女が肩を震わしてたか、これを考えてみよ。あとの尾行のことを
考えたら、お前と彼女との間は十メーター以上離れてたと思う。お前は笑いでも
こらえてるんちゃうかて言うた。でもな、それだけ離れてて肩の震えてんのがは
っきり判ってんで。笑いをこらえるとか、泣いてるとか、そんな細かい震えかた
やない。もっと震えかたが大きないとあかん。いうたら手をもっと激しいに動か
してるんや。そんな動きをするのはなんか叩いてるときぐらいやろ。ほな何を叩
いたか。時計や」
「時計?」
「お前に見えずに叩けるもんいうたら時計くらいしかないやろ。なんで時計を叩
くか、時計に異常があったとしか考えられん。
 最近は手巻き式の時計が珍しなってな。女もんの小さいアナログ・ウォッチも
みんなクオーツになっとう。おそらく彼女の持っとったんもそういうたぐいの奴
やろ。手巻き式とか自動巻きはぜんまいが終わる頃には時計が遅れてくる。でも
電池式の奴はいよいよ止まろかいう時まで正確な時間を指すんや。電池の残りが
少ないときはな、デジタルやったら文字盤が点滅する。針やったら二秒に一回、
秒針が二秒づつ動く。でもデジタルやったらともかく、針はちょっと見ただけや
ったら判らへん。気がついたら止まってた、そういうことが多い。
 実際、時計買うた時に入ってる電池なんか、いつ切れるか判らへん。さらやの
うても、いつ電池替えたやなんて憶えてへんもんな。
 三時の鐘を聞いてなんで立ち止まったか、もう判ったと思う。時報を聞いたら
普通の人間は何をするか、ほとんどの人は無意識に自分の時計を見る。そこで立
ち止まったんやから、なんか驚いたんやろう。一番考え易いんは、時計が止まっ
てたいう考え方や。急いで横断歩道を渡ってデジタル時計を見る。もう一回自分
の時計を見たらやっぱり止まっとう。
 時計が止まったらどうするか。デジタルやったら考えられんことやけど、針や
ったらまづ竜頭に手を伸ばす。実際には電池やからそんなことをしても意味がな
い。次に叩いてみる、壊れたテレビ叩くみたいにな。お前さんが見た、うつむい
て肩震わしてるいうんはこのときや。
 歩いてる最中に左手で髪の毛をかきあげたて言うてたな。左手にハンドバッグ
下げてんのになんでそんな真似をしたか。ほんまは髪をかきあげたんやなかった
んや。彼女は単に左手を頭まで持っていかなあかんかっただけやった」
「時計が止まってんのかどうか、音聞いて確かめるためですね」
「よう判ったな。腕を振ってみたり時計を叩いたり、音まで聞いて、これは電池
切れやと思たんやろ。時計屋に行って電池入れて貰うために、彼女はもと来た道
を引き返した」
「なんで? あの先に時計屋さんがあったでしょ」
「僕らみたいに町に詳しい人間ばっかりとは限らへんよ。歩いてる先に時計屋が
あるかどうか判らんときにはどないしたらええか。時計屋があるとはっきり判っ
てるとこに行ったらええ。絶対時計屋があるといえるとこはどこやろ。商店街で
も時計屋のない可能性はあるし、いちいち探すのに時間がかかる。もっと確実に
時計屋のあることが判ってて、しかも場所を案内してくれるとこがあるな。……
そう、デパートや。
 彼女は角でカーディガン脱いでるときにそのことに気がついて、デパートに引
き返したんや」

 しばらく私たちは黙ったままで紅茶を飲んでいた。ややあって寒月が話し出し
た。
「まあ、これで謎は三つとも解けたわな。お前さんも無人やのうて何が見えたか
判って……、ん? ちょっと待て。なんかおかしないか?」
「何がおかしいんです?」
「いや、謎が解けたんはええねんけどな、そっから先にもう一個解らんことが出
て来たみたいなんや。
 あのな、なんで彼女はデパートに引き返したんやろ?」
 寒月の言わんとすることは解るような気がした。しかし、彼女がデパートに戻
ったのは時計の電池を入れ替えるためだと言った先からデパートへ戻る理由とい
うのも変な感じだ。寒月は私の考えを読んだかのように、
「あのな、こう言い換えてみよか。彼女はなんでわざわざ電池を入れ替えにデパ
ートまで戻ったか、こういうこっちゃ。
 考えてみ、普通、町ん中歩くんに時計なんかいるか? 必ずどっか目立つとこ
に時計がある。実際デパートから出たとこにもデジタル時計があったやろ。いう
たら腕時計が止まっとっても、町の中でおる限り困ることはないんや。そやのに
彼女はデパートに戻った。これが腑に落ちんわけや。
 材料が少ないけどこれも考えてみよか。でも、その前に一つ判ってることがあ
る。彼女はデパートの時計屋に行くんは初めてやった。いや、少なくとも行きつ
けの店ではないのは確かや」
「どうでしょうねえ……。デパートに行きつけの時計屋があったから戻った可能
性もあるんちゃいます?」
「ないことはないやろな。でもな、行きつけの時計屋やったら角曲がってから戻
るやなんてことはせん。デパート出たら時計が止まってた、すぐそばに行きつけ
の時計屋がある、それやったらすぐ引き返すんが自然や。たとえ叩いたら直りそ
うでも、時計屋の方向に行きながら時計をいじる。わざわざ離れながら時計さわ
るような真似はせんよ。そやから、ここで彼女はデパートの時計屋にあまり行っ
てないと考えてもそれほど間違いではないやろ」認めたしるしに私は頷いた。
「さてここで判ることは、彼女は普通におったらのうても済む時計の電池を入れ
てもらうためだけに、わざわざデパートまで引き返したいうことや。そんなにま
でする理由は一つ、彼女はどうしても時計が動いてなあかんかった」
「動いてなあかんかったて……、でも、手につけてる時計が止まってたら気色悪
いから誰でも時計屋にいくでしょ」
「行きつけの時計屋がそばにあったらな。もしなかったら、知らん時計屋に飛び
込んで電池入れてもらうこと考えるよりは時計を手から外すこと考えるやろ。あ
まり気色のええもんでもないけど、知らんとこに入るよりはましや。ところが彼
女はデパートまで戻って電池を入れてもろた。よくせき時計が必要やったんやと
は思わんか?」
「まあ、そうなりますかねえ」
「それと、彼女はそれ程近いとこに住んでへん、なんか用事があって町まで出て
来たいうのも判るな」
「近くやないいうのはデパートの時計屋に入ったからでしょ? あの辺にそれほ
ど詳しないから、そのまま歩いて行ったらある筈の時計屋に行かんと、もと来た
道を引き返した」
「そうやな。用事があるいうのは、時計の電池を入れ替えに行ったからや。用事
がなかったらそんなことはせん」
「そうですか? どっちかいうたら用事がないから時計屋まで行くことが出来た
いう方が自然やないですか」
「もし用事がなかったら時計も要らんやろが。さっきも言うたみたいに、知らん
時計屋までわざわざ行くより、時計外してバッグにでも入れとくよ。そやから、
彼女はなんか用事があって、それも時計の要る用事があって町まで出て来たいう
のが判る。ほな、その用事いうのは何やろな」
「一番考え易いんはデートですね」
「違うな。もしデートやったら彼氏も時計持っとうやろ。なんもわざわざ電池入
れるようなことはせん。それに、もし相手が時計持ってなかっても町中には時計
が溢れてんねんで。デートやない。
 それより、時計のこと考えてみよや。町中でおったら時計が溢れとうのになん
で腕時計が要ったか。わざわざ町に出た以上、時計のないとこに用がある、いう
たら町以外のとこに用事があるとは思えん。そやから町にある時計では役に立た
んこと、ちょっと用を足しにくいことに腕時計が要ったと思うねん。
 でなあ、お前さん、時計の機能いうたら何があると思う?」
「やっぱり、第一には時間を知ることでしょ」
「あかん。それやったら町で見えてる時計でも充分やろ。それに、正確な時間が
必要いうわけでもなさそうや。彼女は最初、叩いて時計を動かそうとした。多分、
動いたら近くに見える時計で時間合わせてたやろな。ああいう時計は必ずしも正
確な時間をさしてるとは限らへん。もし彼女が時間を知りたかったとしても、正
確な時間である必要はなかった。五分くらいの誤差はあってもよかったやろ。む
しろ必要やったんは時計が動いてるいうことやったんやないかな。動いてる時計
やないと困ること……」
「もしデジタルやったら、電話番号とかスケジュールを記憶できるんがあります
けど」
「いっぺん電池が切れてんのに、どうやって時計が憶えてんのや? 仮に電池切
れでないにしても、時計屋に持ってくような故障で、記憶してるデータに信用が
おけるとは思えんで。それに、デジタル時計やったら叩いたりせん。アナログ・
ウォッチなんは確かや」
「持ってたら何歩歩いたか判るとか」
「アホ! 真面目に考えてくれ言うたんはお前やぞ。お前がふざけてどうすんね
ん」
「すいません。えーっと、他に何があるかな。ストップ・ウォッチなんかは……
あかんな。デジタルとちゃうねんから」
「待てよ、考えとしては悪ないかもしれん。普通の時計でもストップ・ウォッチ
的な使い方はできんか。つまりやな、何時間とか何分とか、時間を計るねん。う
ん、多分そうや。
 時間計るとして、一体、何の時間を計るか? どっか行く所用時間を計るいう
のが一番自然ちゃうかな」
「所用時間ていいますけど、どこからどこへ行く時間なんですか? 彼女はどこ
から来たか判らへんのですよ」
「はっきりとは判らんにしても、推測は出来んか? 彼女の立ち止まった横断歩
道のすぐ側いうたら何がある」
 当然、私が出て来たデパートがある。
「デパートでしょ? でもデパートから出て来た人間が所用時間気にするとも思
えませんけど」
「それやねんけどな、一つ尋いてええか。お前、彼女とぶつかりかけたんはどこ
や?」
「ちょうど横断歩道を渡るとこですけど」
「ほな、彼女は必ずしもデパートから出て来たとは言い切れんな?」
「うーん。言われたらデパートから彼女が出て行ったとは断言できませんね」
「そうやろ。そやからここで彼女はデパートから出て来てないと一旦考えてみよ
や。
 デパートの出口の横に地下鉄の出口があるやろ。彼女は地下鉄を降りて地上に
出て来た、とりあえずそう仮定しよ。
 次にどこまで行くかいう問題になるねんけど、これは時間を計るいう行為自体
が鍵になってくれてる。普通、所用時間を計るいうのは、何かに先だってするい
うことが多い。例えばどっかで待ち合わせの約束があったとする。大事な約束で
時間守らんならん時とかや。それが初めての場所やったら前もってそこまで行く
時間を調べる。実際に自分で行ってもみるやろ。所用時間を計るのはそういう場
合や。
 前もって調べるのも、一週間も二週間も前に調べたりはせんわな。二、三日前、
下手したら前日いうこともある。つまり、彼女は今日、明日くらいの間に何か約
束があると考えられる」
 今日? 何かが私の頭をかすめた。だが寒月は話を続けて、
「今までのとこを、ちょっと整理してみよか。お前の見た女性はおそらく今日か
明日に行く場所までの時間を計ってた。多分彼女は地下鉄の駅を降りて表に出た
んやろう。ところが表に出たら腕時計が止まってた。叩いて、動き出したらすぐ
に時間を合わせるつもりでいろいろやってみたけど、結局、電池切れやった。ど
うしても時間を計らなあかん彼女は、電池を入れてもらいにデパートの時計屋ま
で行った。
 まあ、必ずしも出て来たのが地下鉄でのうてもええねんけどな。出発した時間
が判ったら、デパートにはちょうど三時に着いたわけやから所用時間が判る。そ
こから目的地までの時間を足したらええんやしね。
 そこで、彼女が今日、明日にあった用事が何かやけど、結局、これだけは理屈
では判らんな。十八、九の娘が行きそうなとこなんは確かやねんけど……」
 私はたまらずに言った。「寒月さん、今日はうちの大学の入試日ですよ!」
「え、ほんまか?」私の言葉に驚いたように寒月は言った。「そうか、今日は試
験か。それやったら年齢的にも合うし、筋が通るな。つまり彼女は僕らのおった
大学を受けに来た娘で、昨日は下見に来た途中で時計の電池が切れた、いうこと
やな」

 寒月は話し疲れたのか、言葉を切った。少ししてから、
「これで全部解ったことになるか。まあ、理屈ではこうなったとしても、ほんま
かどうかは確認しようがないけどね」と言って、紅茶の残りを飲み干した。
 壁にかけてある時計の時報が鳴った。
「あ、ちょっとごめんな」と言って寒月がテレビを点けるとニュースをやってい
た。話題は今日の入試についてで、画面には私が通っていた大学が映っている。
レポーターが受験生にインタビューしていたが、その女の子に私は見覚えがあっ
た。ちょっとボーイッシュな顔立ちで、ショートカット。今日は赤いカーディガ
ンを着ていなかった。マイクを向けられて彼女の話しているのが聞こえて来た。
「……昨日、下見に来たんですけど、途中で時計が止まっちゃって。ええ、今日
は大丈夫でした。ほんと、止まったのが昨日でよかった……」


 後書き

 もともとこの小説は、『第五公理』第一号に載った氷室克在氏の「彼女は不思
議で出来ている」にインスパイアされて書かれたものです。本文に「彼女は……」
のパロディ的要素が散見するのはそのためです。氷室氏にはこの場を借りてお礼
とお詫びを申し上げます。
 本作品は第一稿作成および執筆全般を木下が、プロットの見直しと細部の検証
を真名瀬が担当しました。我々の(特に木下の)趣味が出た作品であると、作者
は思っておりますがご感想などお聞かせ下されば有り難いと思います。
 最後になりましたが、水島寒月と「私」のモデルになって下さった方々(その
人達の名誉のために名前は明かしません)に感謝します。


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