富士山・・・あんたは強かった

 
「強え〜。強すぎるぜっ。」彼は唸った。
男・小松 一郎、普段から疲れやすく、すぐ弱音を吐く男が
やはり、早くも6合目でダウンした。
相手は、日本無差別級チャンピォン「富士山」。
「全然楽勝やん。なにへばっとるんや。」
同期で同い年の豊西が私に声を掛けた。
「何故だっ。何故、彼は平気なんだっ。」
私はつぶやいた。

{晴れ。午後10時半。時折涼しい風。眼下には雲海。天空には満天の星。
足元は、富士山特有の粉々の溶岩石。}
確かに、富士山に挑戦する条件としては、最高といえるだろう。
そう。簡単に負けるわけにはいかないのだ。自分を変えるために・・・。
私は、力を振り絞って右足を前に出し、進みはじめた。
私は歩いた。「ザッ、ザッ。」という足音を聞きながら。そして7合目に到着した。

「こまっちゃん。結構辛いな。」吉岡さんの声だ。
吉岡さんも頑張っているんだ。「あきらめてはいけない。8合目を目指そう。」そう思った。しかし・・・。
「8合目までがかなり遠いんだよ。」と、リーダー清家さんがぼそっとつぶやいた。
「そ、そんな・・・」私は言葉を失った。そうか。ここからが本当の正念場なのか。
ここまでは、チャンピォン富士山にとっては軽いジャブ程度だったのか。
私は思い出していた。そう。あれは3週間程まえの午後3時ころ。
「富士山行く?」「いいっすねぇ。一度行ってみたかったんすよ。」
あのとき、もう少し私に思慮分別があれば・・・。遅い。気づくのが遅すぎる。
「これからは、安請け合いは自重しよう。」私は、己の浅はかさを呪った。
そして、8合目への一歩を踏み出した。
長い道程。休みながら登る。「あっ。流れ星。」杉山さんだ。
休むとき、ふと上を見上げると東京ではとても見ることのできない星・星・星。
そして流れ星。この辛く、苦しい闘いを癒してくれる。
願い事は、もちろん「打倒、富士山」それしかない。
・・・。

8合目到着。「なんなんだ、これは。」私は愕然とした。
どこから湧き出てきたのかと思えるほどの人・人・人。
「何故人は富士山に挑むのか。これほどに辛い業なのに。」
この時点では、私にはわかるはずもなかった。
しかし、とにかく8合目まで来たのだ。
あと少し。頑張らなくては。そして9合目へ。しかし・・・。
もう時刻は丑三つ時を過ぎる頃。悪魔が私に忍び寄ってきたのだ。
そう。その名前は睡魔。足を休めるために立ち止まると、眠いんだな。これが。
「眠っちゃいけない。眠ったら最後、そこに待ち受けているのは・・・。」
吉岡さんの励ましの声が遠くで聞こえる。そう。負けてはいけないのだ。
9合目を過ぎて、上を見上げると灯かりが。その先には・・・。
私を呼んでいる。そう感じた。私は、睡魔と闘いながら進んでいくのだった。
そしてついに・・・。

「うぉー。やったぞ。ついにやったんだ。」
普通の人なら、そう叫んでガッツポーズを決めるだろう。しかし、寒い。目っ茶寒い。
間違えて南極に来てしまったかと思うほど、寒いっ。
そして睡魔と肉体疲労。この三重苦で私には、言葉はなかった。
しかーし。はるか地平線に目を向けるとそこには・・・。
そこには今までに見たことがない、そう、神秘的なご来光が・・・。
「これか。これだったのか。人が富士山を目指す理由は・・・。」
私は、寒さと睡魔と疲労と酸素不足のためにもうろうとなった意識の中で気づいたのだった。

「富士山行く?」「いいっすねぇ。一度行ってみたかったんすよ。」・・・

「ふっ。たまには安請け合いもいいもんだ。」
午前4時42分。アトランタでは田村亮子が決勝を闘っているころ、
私は深い眠りにつくのだった。

96年7月 小松一郎
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