blood sucker 作・ひで

  

 Y市のY港にあるO桟橋に、豪華客船が寄港する。
 その名も、レディ・シーラ。
 海上の麗婦人とも呼び名されるその豪華客船の船体は、
輝くばかりの一面の純白であり、世界有数といわれるそ
の巨体をより一層際立たせている。
 有名な船が寄港するときには、一目その姿を見ようと
O桟橋付近には、多くの人々が集まる。今回もその例に
もれず、相当の人数が集まっている。
 到着の予定時刻が近づき、その白亜の船体が港内に姿
をあらわすと、観衆の中から歓声が上がった。
 世界一周の旅を行っているレディ・シーラにしてみれ
ば、日本のY港は一寄港地にすぎないのだが、それでも
乗客は陸が近づいてくるのがなぜか嬉しいらしく、甲板
の上には結構な人数が登ってきている。
 いよいよ接岸が近づいたという時、最高級の船室の窓
からは、乗客名簿に乗っていない一つの顔が覗いていた。
『どうした、メリーベル。日本が懐かしいか?』
 窓を覗く少女の背後から、声がかけられた。
 声の主は、背が高く引き締まった体つきをした銀髪の
老人である。
 この老人の名も、乗客名簿には無い。
『ねえ、あそこに吸血鬼が居るわ』
 一〇歳ほどの少女、メリーベルが涼やかな声で、こと
もなげに言う。まるで吸血鬼という存在が、当たり前で
あるかのような口調である。
『何、本当か?』
 あわてて老人が窓辺に駆け寄る。その言葉が、その年
頃の子供にありがちな空想によるものだとは、夢にも考
えていないらしい。
そして、少女の指さす先には、一人の少年が居た。
 わずかな手がかりに結ばれた、繊細な糸を慎重に手繰
りよせ、老人がやっと捜し当てた顔がそこにあったのだ。



 同日。
 Y市内にある私立文系大学に通うTは、Y市の埋め立
て地にある巨大なビルの麓のショッピングモールの一階
の噴水の脇に腰掛け、一息ついていた。周りを見回すと、
大理石を中心にした無駄に豪華なつくりであり、そこを
歩いているのは露骨に仲良くしている二人連れか、いか
にも金を持っていそうな外国人ばかりで、Tにはどうに
もそぐわない。
 そのことを自覚してか、軽くため息をついてから腰を
上げ、Tは再び歩きだそうとした。
「くそっ、あの小僧。飛び降りやがった!!」
 上の方からガラの悪い声が降ってくると同時に、Tを
掠めるようにして後ろにも何かが凄い速さで降ってきた。
大きさは、かなり大きい。丁度、小柄な人間ぐらい。
 ばぁっっしぃぃぃん。
 その直後、破裂音にも似た暴力的に大きな音がショッ
ピングモールの中に響き渡る。
 このショッピングモールは複雑な形はしているが、お
およそ大きな吹き抜けの壁に廊下が張り付いているよう
な形になっており、いちばん上は自然の光が入るように
かまぼこ型の天窓になっている。最上階、つまり四階か
ら一階までの距離は優に一五mを越えている。
 最上階からダークスーツ姿の一団が、エスカレーター
を駆け降りて来る。全体的に体格が良く、ちょっと見た
だけでも上品な方々とはとても言えそうにはない。どう
やら、先ほどの声も彼らの物のようだ。
 小僧とやらは一五mばかり落下して、固い大理石の床
に叩きつけられたことになる。
 ぶつかったら、やばかったな。
 いささか惚け気味になっているTの肩が、後ろから軽
く叩かれた。
「よう、兄ちゃん。迷惑かけたみたいだね。一言声かけ
とこうと思ってさ」
 Tが振り向くと、そこには墜死体の代わりに、一
人の少年が立っていた。声の主も、その一五・六歳の少
年であるらしい。
「……」
 Tが返答に困っていると、少年が言葉を継いだ。
「まぁ、飛び降りてきた俺が言うのもどうかとは思うけ
どさ、普段から頭上注意は怠らない方がいいよ」
「あ……、ああ。気をつけておくよ。君も気をつけなよ」
 わけが判らないながら、Tにとっては殺されかけた相
手に説教をされるという状況が変におかしく、少年に対
して苦笑混じりで皮肉を込めた返事をする。
「じゃあね」
 少年はそう言うと、古いアニメのロードランナーもか
くやという速度で走り去った。
 少年が、Tからはとっくに見えなくなってしまってか
ら、複数のワイリーコヨーテ達がやっと一階に到着する。
それまでに、エスカレーターに乗っていた他のお客さん
達に、随分と迷惑をかけていたようだ。
 少年と、ダークスーツ姿の男達が視界から消えてから、
それまでただぼうっとつっ立ていたTはあらためて考え
た。
 誰に話したら、信じてもらえるかな?

 少年は、抜群に整備は良いのだが車通りがあまりない
道路を記録的な速さで走り抜け、手近の建物を利用して
高架になった線路に飛び乗ってしまう。
 少年は、そのまま線路に沿って走り出した。すぐそこ
に見える、巨大ビルからの最寄り駅の方へと向かい、一
気に駅を通過する。
 次の駅とのちょうど中間の辺りまで来たとき、正面か
ら水色の電車が走ってくることに気がついた。
「やべっっっ!」
 一声発して、反対車線に飛び退く。
 それぞれそれなりの速度で走っており、相対速度はか
なり大きくなっていたので、少年が電車を避けたときに
は、すでに間一髪のタイミングだった。
「前方不注意だぞ! 非常識な奴だ」
 電車以外のモノが線路の上を疾走している方がよほど
非常識なのだが、そもそもこの少年のする事は一般常識
からかなり逸脱しているので、常識のなんたるかをあま
り心得ていないのかも知れない。
 止まったついでに、少年は自分がなぜ襲われたのかを
考えようとした。
 襲われた。
 先ほどのショッピングモールでの出来事は、そう表現
するのが妥当だろう。四階のトイレで用を足し終わった
後、五人の怪しい男達が少年の周りを囲み、有無を言わ
さず掴み懸かってきた。何やら、薬を使おうとした気配
さえある。
 並の人間ならば、ちょっと逃げることはできまい。し
かし、少年は彼ならではの力を発揮してそれを振り払い、
逃げ出した。
 少年は自らを吸血鬼であると認識している。
 産みの親の親友であったという、現在の養い親からそ
う告げられた。人とはほんのちょっぴり違うところがあ
ることも自覚している。
 吸血鬼は人間の一種なんだと、親からは聞いている。
少なくとも、少年の両親のうちの片方は、まぎれもなく
単なる人間だったと証言していた。
 俺が吸血鬼だから、襲われたんだろうか?
 考えてみれば、他にこれといった心当たりは無い。少
年に血を吸われた被害者の復讐というのも、まず無いだ
ろう。
 とにかく、相手が何者だか判らないことには見当のつ
けようもない。
 さっきは突然襲われたので思わず逃げ出してしまった
が、幸い人目もなかったし、捕まえて締め上げた方が今
後のためには良かったのかも知れない。
 追いかけてきてないよな?
 ちらっとそんなことを考え、いま自分が来た方を見る。
もちろん追いかけてきていない。
 代わりに銀色の車体が、うなりを上げて走ってきた。
「あーあ」
どうやら落ち着ける場所でもなさそうなので、少年は
場所を変えることにして、無造作に高架から飛び降りる。
 またしても誰かのすぐそばに着地してしまい、相手の
頭上注意を促した。
 呆気に取られている相手を尻目に、「うーん。やっぱ
り家には帰らない方がいいんだろうなぁ」等と、腕組を
しながら意味不明な事を口走り、その場から歩いて立ち
去った。


 太陽が地上に注ぐ光の色は、意識できないほどに透き
通った黄色から、息も詰まりそうなほど濃密な橙色に移
り変わった。早い話が夕方、いわゆる逢魔ヶ刻になった
のである。
 この少年ならば魔物に逢ったところで心配する必要は
無用であろうし、何より少年の今居るところには、人知
れず魔物など出てきそうもない。
 公園である。
 有名なS市の雪祭で名を知られている北海道の同名の
公園よりも小規模だとはいえ、こちらもそれなりに賑わ
いを見せている。
 この公園は、互いにすれ違う片側通行の道路と道路の
間、つまり中央分離帯のようなところに延々と作られて
おり、逃げ去るのにはなかなか都合が良い。横幅は広く
もないが狭くもなく、場所によって違いはあるのだが、
ここではおよそ四車線分ほどもあり、見晴らしも悪くな
い。
 そういう公園に作られた、流水階段になった噴水の縁
に、少年は座っている。
 暮れて行く空の下、緩やかに流れ落ちる水を背に線の
細い美少年が愁いを含んだ様子でうつむき加減に座って
いる様子は、どこか一幅の絵のようであり、何を勘違い
したのか写真を撮っている者まで居る。
 幸い、と言っていいのか、被写体の愁い顔が「晩飯食
えるかな?」などという理由で形作られているなどとい
うところまでは、いかに高性能なカメラでも写し取れな
い。
 結局、少年は自分自身を囮にして相手をおびき出して
から、相手の本拠地に連れていって貰うことに決めた。
さきほど拉致しようとした事や、相手は何気なく立ち寄
った先で接触を計れるだけの実行力があるということを
考え合わせて、そうするのが最善の選択であると考えた
のだ。
 しかし、逃げるだけの余地は残しておきたかったので、
この公園で待ち受けることに決めた。
「あれだっ!」
 都合三人目の撮影者が、通算にして一〇回目のシャッ
ターを少年に向かって切ろうとしたとき、聞いたことの
あるだみ声を少年の耳がとらえた。
 さっきよりも、相手の数が増えていた。
 スーツ姿の男達が一五人程、スクーターに乗ったまま
で少年に向かって来ようとしている。その中には、当然
のように先程少年を襲った男達も混ざっている。
「嘘だろ、おい」
 少年は一瞬頭に手をやると、スクーターの群れの方に
向かって駆け出した。アクセルを開いて、一気に加速を
付け始めたスクーター軍団の間に緊張が走る。既に少年
の肉体能力の桁違いの異常な高さを見せつけられている。
彼らとて、おさおさ引けを取る気はないが、少年が何を
しでかすかまでは判らない。
「相手はちょっとやそっとじゃ死なないんだ。体当たり
して、ぶち倒せ!」
 スクーター軍団の中でもリーダーらしき男が、仲間達
に向かって声を掛ける。
 少年とスクーター軍団との距離が最初の半分になり、
その半分になり、そのまた半分になり、最後に〇になっ
た。
 少年は、スクーター軍団の中にまともに突っ込んだの
である。
「くそっ。やられた」
 少年はその脅威的な敏捷性で、走行中のスクーターに
よる全長一五m程の長さの障害物競争を、約〇.五秒ほ
どで難なく駆け抜けた。なおかつ、障害との衝突事故を
一度も起こしてはいない。
 だからといって、障害物達の方にも何の困難も起こら
なかったのかというとそうではない。平静を保ち得なか
ったスクーター軍団中の一人が、ハンドル操作に些細な
ミスをしてしまい、動揺したスクータは併走していた同
僚と接触事故を起こして転倒した。密集して走っていた
のでそれだけでは収まらず、それを避けきれなかった後
続の五台程を派手に巻き込み、人とスクーターと絶叫と
の混じりあった雪崩と化した。
 しかし、残りの一〇台余りはスクーターの長所である
軽快さを生かし、即座にターンして追跡を再開する。
 逃げる少年の方も、表情に余裕が無い。まさに、必死
と言ってもいいほどの形相である。
 今ここでだけは、どうしても捕まるわけにはいかない。
 少年は、そう考えていた。
 あんな奴等に捕まったら間抜けすぎる。



 空は、すでに闇の色に近くなっている。もっとも、こ
の街では、空が完全な闇の色に閉ざされることは、まず
無い。
 科学文明の進歩と、人々の営みがそうさせたのだ。
 夜の闇を捨てた街の片隅で、少年は、青く濁った海と、
赤いレンガの壁と、暗い色の服の男達に囲まれていた。
闇に染まったどす黒いレンガの壁の隙間からは、少年が
今朝見物したばかりの、白亜の巨船が覗き見えている。
 男達が乗り捨てたスクーターは、周りに適当に散らば
っている。赤いレンガの壁は、ノスタルジックな倉庫の
一部である。
「貴様等、何が目的なんだ?」
 一〇代前半の華奢な少年が周りを取り囲む大柄な男達
に向かって、微笑みさえ見せながらそう問いかける姿は、
少々滑稽にも見える。
「我々について来い」
「どうして?」
「それは言えんな」
「なるほどね。おまえら、単なる下っ端と言うわけだ」
 少年の言葉に反応して、薄闇の中で男達の影が不気味
に揺れる。
「……。一つだけ教えておいてやろう。この先、貴様に
とっては、あまり愉快なことにはならないかもしれん。
それともう一つ、我々をあまり甘く見ないことだ」
「二つじゃないか。頭も悪いんだね」
 これは、平和的じゃない方法でもお願いして、喋って
貰うしかないな。
 少年はそう判断して、限りなく剣呑な一歩を踏み出す。
「しかし、我々も君を甘く見ていた。吸血鬼と言えども
ただのガキだからな、あわよくばこれを使わずにすまそ
うなんてな」
 リーダーらしき男は、懐からガラス瓶らしきものを取
り出した。単二の乾電池ほどの大きさのその瓶には、赤
黒い液体がなみなみと入っている。
「ぶつけても、当たらないよ」
 少年はまるで白け切った表情で言う。奥の手が効かな
かったとなれば、それだけ素直になってくれるだろう。
 瓶を取り出した男は、無造作にそれを喰った。ぼりっ、
ぼりっ、と、異常な咀嚼音がそれに続く。
「血が……」
 意外な行動に思わず目を奪われてしまった少年は、我
知らず声を洩らした。
 男の口の端から赤い滴がしたたり落ち、濃厚な血臭が
漂い出す。少年の吸血鬼の鼻は、敏感にその匂いを捉え
た。
 噛み砕いたガラス瓶ごと瓶の中身を嚥下すると、男の
身体が変化し始めた。
「あ……、甘く見テ、すまナかっッタナ。ダガ、コレヲ
使ッタカラニハ、モウ、逃ゲ……ラ……、」
 言いながら、男の身体には、スーツの上からでも判る
ほど大きな瘤状の塊がボコボコと浮き出してくる。それ
ぞれの瘤は萎まず、次々に浮き出してくる瘤とつながり、
男の新しい身体を形作る。
 顔には、瘤こそ浮き上がってこないが、顔面の筋肉に
沿って脈打ちながら条痕が浮き上がる。顔の筋肉が盛り
上がるのに対して、眼球の位置は変わらずにあるので、
眼は落ち窪んでしまうが、代わりに異常な赤い光を発す
る。また上下の犬歯が異常なまでに伸び出して、二対の
牙と化した。
 身体に現れた変化は、喉にも影響を及ぼしたらしく、
声と同時にゴボゴボと言う異様な音が聞こえて来るよう
になり、最後には声の方がかすれて聞こえなくなってし
まった。
「な……、へ、変身するなんて……」
最終的に、男は始めの三倍ぐらいの大きさに膨れ上が
った。四肢を包むスーツの袖や裾は、膨張した腕や足を
納めておくことができずにビリビリに裂けてしまい、そ
れ以外もボタンというボタンは全て弾け飛んでしまった。
新たな形を獲得した〈それ〉は、辛うじて人型を保っ
てはいる。保ってはいるが、少年の眼の前にたたずむ
〈それ〉は、もう人間とは言えない代物になり果ててい
る。
「お……、おまえ、一体何をしたんだ? どう考えても、
非常識だぞっ!」
 少々錯乱気味なのか、少年が何の意味もないことを口
走る。
 それに答えて、もはや怪獣と化した〈それ〉は、少年
に向かって無造作に突撃してくる。
「っ……」」
 巨体に似合わぬ、信じられないような瞬発力で近づい
てくる〈それ〉を、少年はやっとの事で避けた。不意を
突かれた少年には、まともに叫び声を上げる暇さえ無い。
飛びすざった少年の脇には、乗り捨てたスクーターが
落ちている。
 少年はスクーターの荷台に手をかけ、すくい上げるよ
うな形で、〈それ〉に向かって投げつける。
 隙を見て横から少年を捕まえようとタックルを仕掛け
てきた男が、横殴りで振り回されたスクーターに胴を払
われて、一緒に怪物に向かって飛んで行く。
 体重の軽い少年は、スクーターを投げ飛ばした反動で、
少しよろめいてしまう。
がごっ。
 怪物は、飛んできたそれらのモノを、腕の振り一つで
横にはねのけた。横に飛ばされた男とスクーターは、赤
いレンガの壁に叩き付けられ、下に落ちた。男からは赤
い血が、スクーターからはガソリンがドクドクと湧き出
してきて、地面に黒いシミを作る。
 ほんの一瞬、少年はその一点を注視し、刹那の間だけ
辺りを見回した。
 怪物も、手近のスクーターを持ち上げ、ぶんぶん放り
投げて来た。
 自力で走るより断然速い速度で飛んでくるスクーター
を、少年は危なげもなくかわし、じりじりとある地点に
近づいて行く。ついでに、行く手の途中にあるスクーター
を投げつけるのだが、最初の一投が嘘であったかのよう
に、怪物には一向に当たらない。それどころか、全く見
当違いの方向に飛んで行き、いたずらにスクーターを破
壊して、地面に黒いシミを増やすだけである。
周りの男達は、剣呑な物体が凄い速さでの飛び交うこ
の戦いについてゆけず、少年に余計なちょっかいをかけ
て来ようとする者も居なくなった。
 目的の場所に、少年が着いた。
 少年の口の端に、淡い笑いが浮かぶ。
 しかし、そこにはまだ壊れていないスクーターが二台
有ると言うだけの事である。まだ壊れていないスクーター
の、最後の二台ではあるのだが……
「だあっ!」
 少年は渾身の力を込め、両手で荷台の部分を持ち、一
方のスクーターを投げつける。今度こそ狙い違わず、怪
物に向かってスクーターは飛んで行く。両手で思いきり
投げているので、スピードも今までとは段違いに速い。
 しかし、怪物はそのスクーターをも簡単に払いのけた。
 そして……、
 がごおっ。
 怪物の頭に直撃したスクーターが、異様な音を立てた。
一瞬前まで、スクーターだったモノは壊れた部品をまき
散らし、ガソリンを吹き出させ、怪物の肩の上に留まっ
ている。
 少年は、両手でスクーターを投げつけた直後、もう一
台のスクーターを怪物に向かって蹴りつけたのだった。
怪物は、一台目のスクーターは払いのけたものの、二台
目を避けることができなかったのである。
「やりぃ」
 少年が、喜びの声を上げるのと同時に、怪物は肩の上
に乗っている異物を振り落とした。しかも、見ただけで
判断ができるのであればの話だが、怪物にはダメージを
受けている様子はない。
「あれだけ醜いんだから、やっぱこれぐらいじゃやっつ
けられないな」
 減らず口を叩きながら、少年は場所を移動していた。
最初のスクーターが叩き付けられた壁の前へと。どうい
うわけか、叩き付けられたはずの男の姿は無い。男がま
き散らした血液だけが、壁にその痕跡を残している。
 おおかた、仲間が動かしたんだろう。少年はそう見当
をつけて、気にしなかった。
 少年の減らず口が聞こえたのかそうでないのか、怪物
は再び猛突進を仕掛けてくる。
最初の突撃より、パワーもスピードもあるいは充実し
ていたかもしれないが、今度の場合は不意を突かれたわ
けでもないので、少年は楽に避けることができた。それ
どころか、避けざまに後ろから蹴りを入れる余裕さえあ
った。
 どごぉっ。
後ろから蹴りを入れられた怪物は、バランスを崩し、
頭から壁に突っ込む羽目になった。
 同じ場所に二度目の衝撃を受けた赤いレンガの壁は、
怪物の激突を受けとめきることができず、崩壊した。怪
物は体ごと赤銅色の瓦礫の下敷きになってしまう。しか
し、怪物の不屈の生命力を示すように、瓦礫の山は不気
味に揺れ動きはじめた。
 だが、その場所は同時に少年が見当違いの方向に投げ
つけたはずのスクーターが、最も多く集まっている場所
だった。四台分のガソリンが、瓦礫の近くに水溜まりを
作っている。
「おまえじゃ口が固すぎるみたいだから、そろそろ終わ
りにさせてもらおうかな」
 怪物が飛び込んだ、向かい側の倉庫の庇の部分に飛び
乗った少年の掌にはいつのまにか、壊れたスクーターの
金属性の部品が二・三個握られていた。言いながら、チ
ャリチャリとそれを弄んでいる。
 舗装された地面に金属片を投げつれば、火花を散らす
ことができる。むろん、並の力ではなかなか難しいこと
なのだが、この少年の瞬発力を鑑みれば、その辺の問題
は無い。
「………クニ、…イ………ナ…ノカ?」
 乾いた血の色の瓦礫の山の中から、くぐもった声が聞
こえてくる。
 少年はあの怪物が、再び人間の言葉を口にしたことに、
多少の驚きを覚えていた。
「なんだ、喋れるじゃん。でも、悪いけどちょっと聞き
逃しちゃったから、もう一回最初から言ってくれるかな」
 あきれるほど無邪気な声で、少年は言った。自分の力
量の、圧倒的な優位を確信しているのである。
「ドウゾクニ、アイタクハナイノカ?」
 要請に応えて、もう一度繰り返した怪物の言葉に、金
属片を弄ぶ少年の手が止まった。
 ……同族に逢いたくは無いのか?
 同族だと?
 少年には、同じ吸血鬼の知り合いはいない。記憶もな
いほど幼い頃から、今の親に育てられているので、産み
の親の記憶もなかった。
 吸血鬼って、他にも居るのか。
 少年の驚愕は、一瞬であった。
 しかし、時にはその一瞬が命取りになることもある。
今が、正にその時だった。
 どがっ。
 少年の頭頂部に、激しい衝撃が加えられた。
 立っていた倉庫の庇ごと、少年の体を地面に叩き付け
るほどの力である。
 朦朧としながらも、少年は何とか膝をついた姿勢で着
地する。
 あいつじゃないはずだ。
 少年は、とっさに瓦礫の山の方に目を向けた。
 そこでは、怪物が自力で山を崩して出てきたところだ
った。
 その時、少年の後頭部、ぼんのくぼ辺りへ二撃目が加
えられた。
 何にやられたんだ。
 少年は、残された意志の力を結集して、倒れ込みなが
ら振り向いた。
 遠くなる意識の中で、少年が最後に見たのは、両手を
組んで一つの拳を作っている血みどろの怪物の姿だった。
 そうか、壁に叩き付けられた奴も変身したのか……。
変身できるのが、一人だけとは限らなかったんだよな……
自分の不覚を後悔しながら、少年の意識は暗闇へと落
ちて行った。


   

 揺れている。
 と、少年は思った。
 ここは……、どこだ?
 霧がかった少年の意識が、次第に覚醒して行く。
 薄暗い部屋だった。あまり広くはなく、金属性の壁に
囲まれた室内には余計な物が何一つ置いてなく、殺伐と
している。
 少年は、ベッドのようなものに寝かされている。
『この子、目が醒めたみたいよ』
 右側から、耳慣れない言葉が聞こえてくる。どうやら、
英語のようである。
 日本語以外の知識の無い少年にも、それが英語である
らしいことぐらいは理解ができた。だが、何を言ってる
のかまでは分からない。
 俺は殴られてここに連れてこられたんだ。
 突然、そのことに気がついて、少年は身を起こそうと
した。
 がっ。
 両手首の辺りから鈍い音を立てただけで、試みは失敗
に終わった。
 両手、両足をベットに埋め込まれた金属環で固定され
ているのだ。何のためなのか、右手に限っては肘をも固
定されている。
「もう、お目覚めかな? 何度見ても、君達の生命力に
は改めて驚かされる」
 先ほど音がしたのと同じ右側から、老人の声がした。
今度は、日本語で。
 少年は、そちらに目を向けた。
 そこには、白人の男女が居た。
 男は白髪の老人だが、ダークグレーのスーツをしっか
りと着こなしている。瞳は青く鋭い光を放っており、衰
えを余り感じさせない。アメリカの代議士に良くいるタ
イプだ。しかし、言葉にできない何かが、どこかで確固
として老いを感じさせ、それがある以上、外見はどうあ
れ老人としか呼びようがない雰囲気を作っている。
 もう片方は、女性というより女の子である。アンティー
クドールが着ているようなピンクのフリルで埋まりそう
な服を着ていて、瞳は深い緑色、軽くウエーブのかかっ
た薄い色の金髪をリボンでまとめている。繊細な顔立ち
は並の人形などよりよほど可愛らしい。年は一〇歳程度
に見えるが、何事かを憂えたような表情は年齢に不相応
な妖しい魅力を放っている。
 どちらにせよ、拉致した人間を縛り付けているような
場所にいるには不似合いな人間である。老人の手にした、
太い注射器のみが、この場には似合っている。
「くそっ! ここはどこなんだ、どうするつもりだ! 
俺に、さっきの奴が飲んでたやつを注射しようってのか!」
 少年は、叫んだ。がつがつと両手両足を動かし、金属
環を外そうとする。
「無駄だ。いくらおまえの力だと言えども、その環は引
きちぎれんよ」
 言った後、老人はしばらく少年の行動を眺め、はずれ
ないのを確かめると、薄く笑った。
「初めの質問から応えようか。ここは、レディ・シーラ
の中にある秘密の部屋だ。私はこの船のオーナーでな。
わざわざ見物に来てくれた君のために、今回この部屋を
用意させたんだよ。そして、次の質問の答えはNOだ」
 老人は、楽しそうに注射器を振って見せた。
「良く見たまえ。注射器は空だろう。おまえの血を、分
けて貰うんだよ」
 老人は、勝者の余裕なのか、少年の質問にいちいち答
えてやっている。
「そんなことをして、何になるっていうんだ!」
「若さだよ。若さを保つためだ。見ての通り、私ももう
いい年でなあ。このままでは、死んでしまう」
「それが俺の血とどんな関係があるんだよ」
「君達の血液は、人間に活力を与えるすばらしい薬なの
だよ。君達吸血鬼の〈血〉は、な」
 知っている。
 この老人は、誰にも言っていないはずの俺の正体を知
っていたのだ。少年は、愕然とするものを感じた。
 そして、もう一つ気になる点もあった。
 老人は、先ほどから吸血鬼に対して、達と複数形を使
っている。つまり、老人は吸血鬼をもう一人かそれ以上
知っていると言うことである。
「吸血鬼の〈血〉はな、分量を間違えずに服用していけ
ば、余命さえも伸びる。一度に多量に服用すれば、元の
姿も分からぬような怪物になってしまうものの、すばら
しい力を手に入れることができる。もっとも、あれでは
無理がかかりすぎて、すぐに死んでしまうのが難点だな。
おまえも、さっき見ただろう」
 老人は、更に言葉を継いだ。
「馬鹿な奴等よ。超人になれる薬があると言ったら、す
ぐに飛びついてきた。今ごろは、体の膨張に苦しんでる
頃だろうて。明日になったらぼんっだな」
 老人は、注射器を持つのと反対の手を声に合わせて開
いて見せ、くっくっと楽しそうに笑った。
「くそじじい。それでも人間か!」
「人間を餌にしてるような吸血鬼に言われて、愉快な言
葉ではないな」
「……」
 少年は、黙って老人を睨み付ける。
「どうした、さっきまでの元気がないな。返す言葉もな
いか」
 老人は、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、少年を見お
ろしている。
「……してない。餌になんて、してないぞ。俺は今まで
人間の血を吸ったことはない。だいたい、吸血鬼の血ま
で啜る貴様は一体なんだっていうんだよ!」
 最後のくだりまで来ると、少年を見下ろす老人の目付
きが急に険しいものとなった。自分がどれだけ見苦しい
ことをしているのかという、自覚の程はあるらしい。
「人間はな、古来あらゆるものの生き血を啜って生き延
びてきた。動物の、植物の、地球のな。果ては同じ人間
同士、互いに殺し合い、相手の生き血を啜ってきた。そ
れはな、万物の霊長たる人間にのみ神が許された特権だ。
いまさら、吸血鬼の生き血を啜ったところで、どうとい
うことはない」
 論理にも証拠にも神学にも裏打ちされてない理論を、
老人は勝手に人間にとっての一般論に置き換えて言った。
 そこに見えるのは、醜怪な人間の単なる自己正当化の
みだった。
「この辺で、楽しい質問の時間は終わりだな。そろそろ
おまえの〈血〉をいただくとしよう」
 老人が不気味な笑みを取り戻して、少年の寝かされて
いるベットに近づいてくる。
「そんなことさせるか」
 少年はそう叫ぶと、再び体に力を入れた。
 上半身も、下半身も同時に持ち上げるように。
「無駄だと言っただろう」
 老人は、注射器を持ってじりじりと少年に近づいてく
る。二カ所固定されている右腕は、多少力を込めてもあ
まり動かず、問題なく採血をできそうである。
 近づいてくる老人は、舌なめずりでもしそうな口調で、
少年に向かって、言った。
「私は、おまえを殺しはせんよ。生かしておきさえすれ
ば、いくらでもおまえから貴重な〈血〉をいただくこと
ができるのでな。おまえは、これから私専用の血液工場
になるというわけだよ」
 老人の顔貌が、邪悪な願望によって醜く歪んだ。
 ばきんっ。
 重く異様な破壊音が、低く室内に響いた。
 少年を張り付けにしていたベッドが、腰の所でまっぷ
たつに断ち割れたのである。
 同時に、足を留めていた金属環が両方ともベッドから
もぎ取れた。
 足首の金属環がもぎ取れた反動で、少年はベッドの上
半分と一緒に跳ね飛ばされたような形になり、空中回転
をした。
 それでも足から着地したのは、さすがという他はない。
 ベッドの下半分は、どう力がかかったのか折れ口が床
に叩きつけられ、跳ね返って暴れまわった。
 そのすぐそばまで来ていた老人は、変則的な動きをす
るベッドの残骸を避けきれず、頭を強打し、よろめいて
壁ぎわまで後じさった。
 それでもいまだ注射器を手放さずにいるのは、執念の
なせる技であろう。
『メリーベル。奴を押さえつけろ!』
 老人が平静を欠いた声で、英語を使って何事かを叫ん
だ。すると、それまでかたわらで状況を眺めていた女の
子が、すさまじいスピードで少年に向かって駆け寄り、
少年の足を払った。上半身のベッドが横向きに倒れるこ
とをさせず、少年は座り込む形になる。
 不自由なままで居る少年の反応は、迅速さを決定的に
欠いていた。
 少年が何か行動を起こす前に、フリルの服を着た少女
は少年の首の両側のベッドの部分を押さえつけ、まだ残
ったままのベッドの足を壁とのつっかえ棒代わりにして、
少年を完全に押さえ込んだ。
『これでいいの?』
 少女が、顔立ちに似合いな可愛らしい声で老人に問い
かけた。
 老人はそれには答えずに、少年に向けて話し出した。
「無駄な抵抗をするな。このメリーベルもおまえと同じ
種族でな。ろくに血を吸っていないおまえなどよりも、
力は数段上だろうな」
 少年が動けなくなると、突如冷静さを取り戻した老人
が、さも得意げに話し出した。
「おまえを捕まえる時にあの馬鹿者どもが使ったのもメ
リーベルのだよ。私がおまえに話しかける時に、〈達〉
と複数形を使っていたのに気がつかなかったか? 私が
これだけのヒントをくれてやっているのに、私の側に吸
血鬼が居ることを考えぬとは、愚かな奴だ」
「じゃあ、なぜ俺の〈血〉を狙うんだ! この子の〈血〉
で、充分だろ」
 少年は問い返した。吸血鬼の〈血〉が必要ならば、こ
の少女のものでも充分なはずである。
 老人は注射器を持ち直し、少年の方に向かって再び近
づき始めた。
「この子とは、随分な言い様だな。こう見えても、メリー
ベルは私と同じぐらいは生きているのだ」
 老人は、今度こそは無事に少年の傍らまで来ることが
できた。
「私が今まで生きてきたのはすべてメリーベルのおかげ
だ。メリーベルの〈血〉の、な」
 老人は少年の腕に注射器の針を刺す。少年は必死に抵
抗をしようと試みる。もし単なる力比べをしたら、少年
の力はメリーベルより上かも知れないが、今は不自由な
状態だ。少年がいくら動こうと試みても、無駄にしかな
らない。
「しかしな、一五〇年も服用を続けているとどうしても
免疫になってしまう。今ではそれほど効きはせんのだ。
だから、おまえの血が要るのだよ」
 一五〇年。常人の二倍の生を経てなおも衰えない老人
の生への執着に、少年はうすら寒いものを覚えた。
 老人は、手際よく少年の細い腕へと注射器の針を潜り
込ませた。
「先ほど、おまえは血を吸ったことが無いと言ったな。
してみると、あるいは吸血鬼の吸血行為には老化防止の
作用があるのかもしれん。だとしたら、おまえに人間の
血を与え続ければ、永遠に〈血〉の供給が途切れること
はないのだな」
 ひひひひひ。老人は吸い込むような不気味な笑い声を
上げた。一五〇年も生き続けた、この貪欲な生物の笑い
声は、すでに人間のそれとはかけ離れている。
 老人の手に握られた注射器は、刻々と少年の〈血〉で
満たされて行く。
 それを見つめる少年の心を支配する感情は、主に怒り
であった。
 理不尽な欲望のために自分の血液が奪われていること
にはむしろ、老人に対する嫌悪感が先立つ。
 怒りの感情は、老人その人に対して向けられているの
ではない。何がそれほどまでに腹立たしいのか、少年自
身も判然としない。何か説明のできない、根元的でそれ
だけに純粋で、大きな怒りだ。それは自分の血を奪われ
る事に対する、吸血鬼ならではの感情だった。
「はははぁ。やっと新しい血液を手に入れたぞ。私の命
も、あと一〇〇年は安泰だわい」
 老人は、少年の腕から注射器の針を抜いた。もちろん、
脱脂綿などで保護をしているわけなどはなく、針の刺さ
っていたところから少年の細い腕を伝って赤い血が流れ
落ちる。
 老人がその手に持つ注射器には、不自然なほど赤い血
液が満ちている。注射針の先からは赤い滴が一滴、床に
向かって落ちた。
 それを見た少年の瞳が、暗く赤い光を放つ。そこから
は、あるべきはずの理性が、ぬぐい去られていた。
 少年とは逆に、喜びで我を忘れている老人は、ほとん
ど小踊りをしながら注射針の先を嘗めた。そこに滴って
いる、赤い液体を嘗め取るために。
 老人の体が、ビクンと小さく震えた。虹彩が拡大して、
髪の毛が逆立つ。血の気の薄かった顔面に、上気した赤
みがさしかかる。
「うはぁっ。これこそまさに、命の薬だ。神が我に与え
たもうたネクタルだ」
 老人が狂喜のあまり、またもやいい加減なことを口に
する。このような者にさえ神の加護が下るなら、世の中
に不幸になる者は居まい。
 少年は自らの血液を啜られたことで怒りが頂点に達し
た。今の今まで一度も犯したことがない禁忌が、少年の
頭をかすめる。
(奪われた〈血〉は、奪い返せ)
 少年の内なる意識が、少年にそう命令した。
 怒りに我を忘れた少年には、その内なる命令にあらが
う自制心はすでに無い。
 深紅に底光りする少年の瞳の前には、老人と同じだけ
生きた少女の、白く細い首筋があった。吸血鬼メリーベ
ルは、いまだ少年を押さえつけたままで居る。
 少年は首を伸ばし、透き通るほどに白いその首筋に噛
み付いた。同族の〈血〉が彼の体に引き起こすかも知れ
ない、様々な副作用のことなど頭にはない。
「なっ! 小僧っ、吸血鬼の血を吸おうなどと、気でも
狂ったのか」
 老人は、自分のことをいとも簡単に棚に上げ、少年を
怒鳴りつけた。かといって、少年がそれをやめる義理は
ない。
 じゅうじゅう、と不気味な音を立てて少年は同族の年
長者の血を啜った。メリーベルも、なぜか為すがままに
されている。
『メリーベル、何をやってるんだ。すぐにそいつから離
れろ!』
 老人の冷静さの欠落した叫び声があってから、始めて
メリーベルは少年を振り払うようにしてその場を離れた。
 しかし時すでに遅し、すでに少年は充分なだけの血を
吸ってしまっていた。
「ぐあぁあああああ!」
 少年が、獣のような咆吼をあげる。喉の奥から血液が
あふれ出して、ごぼごぼと口から溢れ出し、声が途切れ
た。
 少年の瞳を彩る赤い光が、鋭さを増した。少年の体自
体に変化は見られないが、見て分かるほどに充溢した力
が、ほとんど物質的な力として老人と少女を圧倒する。
 少年が両腕に力を込めると、今度はあっけないほど簡
単にベッドが割れた。少年は、ちょうど四分の一になっ
たベッドを左右とも軽々と壁に叩きつけ、あっさりと粉
砕する。
 残った部分も力ずくでもぎ取り、両腕とも、残るのは
金属環のみという状態になった。
 老人は、新たに少年に宿った圧倒的なパワーを呆然と
して見ていた。メリーベルは、それをただ風景のように
眺めている。
 少年が左手の金属環の構造的に弱いちょうつがいの部
分に手をかけ、捻って壊そうとする段階になってから、
老人はやっと身に迫る危険に気がついた。ベッドの次に
やられるのは、間違いなく老人である。
『あいつをなんとかしてくれ!』
 老人は辛うじて意味のある悲鳴を発し、メリーベルを
残して逃げ出してしまった。少年の〈血〉を入れた注射
器を持って。
 メリーベルは老人のその悲鳴を聞いて、金属環に気を
取られている少年に襲いかかった。
 少年は、不意打ちをこめかみにくらったが、微動だに
しない。
 一五〇歳の少女の手足が、動きを制限するはずの装飾
過剰の服装をものともせず、次々と繰り出される。
 あるいは避け、あるいは打ち払い、少年はその攻撃を
一つ残らず受け流し、いつのまにかメリーベルの左手首
を捕まえた。そのまま、側面の壁に向け華麗な服に包ま
れた華奢な体を投げつける。
「キャアアアア!」
 メリーベルは、それまでの攻撃の猛烈さには不似合い
な可愛らしい悲鳴をあげた。壁に向かって一直線に飛ん
で行き、したたかに打ちつけられる。
 金属製の壁は崩壊して衝撃を吸収したりはしない。左
足が嫌な音を立てて、人体の構造上ありえない場所から
真横に折れ曲がった。
床に落ちたメリーベルは、激しい衝撃で気を失ってし
まったのか、ピクリとも動かなくなる。
「ぐうおぉおおおおお」
 少年の二度目の咆吼が、世界最高級の豪華客船内に轟
き渡る。
 それは聞きようによっては、哀しみの叫びにも聞こえ
る声であった。



 ○月×日、午前二時。
 日付的には昨日。夜更かしをしている人々にとっては
今朝、日本のY港に寄港したばかりの海上の麗婦人、レ
ディ・シーラ船上では突然轟いた不気味な咆吼に、幾人
もの人々が目を醒ました。
 茫漠とした海上のことではなかったので、一気にパニ
ックになるようなことはなかったが、超豪華客船で海上
を旅する人々の浮き足立った心に、確かな不安を植え付
けるような声であった。
 警備室にも、幾本もの通報があった。船内に大型の獣
が紛れ込んでいるのではないか?
 警備員達も同様に咆吼を耳にしているので確固とした
対応ができず、突然のアクシデントに右往左往する羽目
になった。
 つい先頃ここ日本で、とあるカルトによる凶悪なテロ
が行われたこともある。結局は乗客全員に用心を心掛け
るようにとの船内放送が流されることになった。
 たまたま客船に乗り合わせた不幸な乗客は、真夜中に
叩き起こされる羽目になった。

 ほぼ同刻。
 老人は、船底付近にある後部機関室のタービン付近の
後部動力予備操作設備に居た。そこには、予備のための
動力の操作系が集まっている。二器あるうちの後部機関
だけなら、ここですべて動かすこともできる。
 彼にとっての貴重な命の綱である〈血〉の入った注射
器はいまだ手放していない。
 老人は〈血〉を手放さなければ、いずれ少年に見つけ
られることを知っていた。吸血鬼の血液に対する嗅覚の
鋭さを、老人はメリーベルから学んでいるのだから。
 しかし、老人は〈血〉を手放すわけにはいかなかった。
なぜなら、老人にとってメリーベルの〈血〉はすでに効
力を失っているからであり、老人はいまだ永遠の命を夢
見ているからである。
 この老人の生に対する執着は、それ程までに強かった。
なんとしてでも〈血〉だけは守り抜かねばならない。
 手元にある血液だけでも優に一年は保つ。
 その間に、別の血液提供者を探し出せばよいのだ。一
年もあれば代わりの吸血鬼を探し出す自信が老人にはあ
った。彼には、それだけの財力と、表立たない影響力が
ある。
 問題は少年を打倒する方法だけだ。
 老人は、策を立てた。
 そのために、まず後部ボイラーを点火する。

        *   *   *

 全ての準備は整った。
 老人の手には、逆刺の鈎付きの鎖が握られている。鎖
のもう一端は、タービンエンジンの超高速回転を利用可
能な速度まで引き下げるための歯車のうちの最後の一つ
に咬み込まれるようにしてある。
 そして、老人の体には、鎖が巻き付けてあり、その歯
車を回すためのレバーに結び付けてある。そのレバーか
ら、離れすぎてしまわないようにである。
 老人は、逆刺の鈎を少年に突き刺し、巨大な歯車に巻
き込んでしまおうともくろんでいる。いくら少年でも、
鋼鉄の歯車には刃向かえまいと、考えたのだ。
 そのために〈血〉を使うことをも惜しまなかった。
 多くの犠牲を伴った数々の実験を経て、怪物にならず
に体力の充実だけ図ることができる〈血〉の量を、老人
は調べあげている。
 そのぎりぎりの量を、老人は自分に注射した。
 老人は少年の出現を待つ。
 あと老人に必要なのは、少年の出現と、運だけである。
 老人は自分の強運には自信があった。メリーベルと従
兄弟どうしで生まれたのも、彼がメリーベルの血液の有
効な活用法を見いだしたのも、また今までにこれだけの
財を為すことができたのも、すべて彼の強運がなければ
成功しなかったことだと言って良い。
 かつ、かつ、かつ。
 鋭敏になった老人の耳に、一つの足音が届いた。金属
製の階段が、何者かの通る音を響かせている。
足音は、確実に近づいている。
 老人は、鈎の付いた鎖を持つ手に力を込めた。
 かつ、かつ。
 正面の階段を登ってくる少年の姿を老人の目は捉えた。
 同時に、少年の赤く光る目も老人を捉えている。
 だん。
 階段途中の不安定な足場から、少年は跳んだ。尋常で
ない高さである。
 あの勢いなら、上の足場にぶつかる。
 老人は、少年の跳躍を見てそう判断した。
 その、落下点が狙い目だ。
 そもそもジャンプという行為は、あまりにも無防備だ。
なぜなら、空中では進路の変更はできない。そして、動
作が止まる着地点は予測可能なのである。
 幸運はヤツの判断力が、かけらもなくなってしまった
ことだ。
 老人は、自分の強運を神に感謝した。
 が、少年は物理学上ありえない行動を取ったのである。
 空中で反転して上段の通路の裏側、つまりこの通路の
天井に当たる部分を蹴った。そして老人の懐に、難なく
着地する。
 少年は着地した低い姿勢のまま、右腕で老人の右脇腹
を殴った。殴られたその場所からは、血がにじみ出して
くる。
 老人が内ポケットに入れた血液入りの注射器を割り壊
したのだ。
 老人は、殴られた衝撃で半回転する。
 痛みがない。
 老人が、まず思ったのはそのことだった。
 負傷による戦力の低下は、痛みによるところが大きい。
それがないのだ。吸血鬼の血液は、老人から痛覚を消滅
させていた。
 老人は反撃を加えるために、勢いに乗ってもう半回転
した。結果として一回転して、少年の方に向き直る。
 そして、姿勢を改めようとしている少年を、手に持っ
た逆刺の鈎で刺し貫こうとしたが、老人の腕は途中で止
まった。
 先ほどの回転で老人の体には、その手に持った鈎につ
いている鎖が絡み付いているのである。
 このままでは、私も巻き込まれる。
 老人の一瞬の躊躇を、少年は見逃さなかった。
ばきっ。
 剣呑な武器の握られている老人の手首を、少年は左足
で蹴り上げた。老人は手にしていた鈎を、もぎ取られて
しまった。
 そして一瞬の間もなく、少年の右足が老人の顎をみご
とに蹴り上げる。
 両足を浮かせた少年は、後転宙返りの要領でその場に
着地した。
 顎を蹴り上げられた老人は、真後ろに吹き飛んだ。し
かし、老人のたどった軌跡は放物線を描いてはいない。
 なぜなら、老人が自分とレバーを結んだもう一本の鎖
が、飛んで行く老人を引き留めたからである。
 がっしゃ。がががが。
 どこにどのような力がかかったのか、老人を結び留め
た鎖に引きずられる形で、レバーが動いた。スイッチが
入る。
 当然、ギアが動き出した。
 じゃらじゃら。
 不吉な音を立てて、老人に絡み付いた鎖が床を滑って
行く。
 老人は必死に鎖を外そうとするが、絡まった二本の鎖
はなかなかほどけようとしない。
 ギアに咬まされた鎖が、そろそろ伸びきろうとしてい
る。
「たっっ、助けてくれ。私はまだ死にたくない」
 老人の嘆願に、答えは帰ってこない。
 いつのまにか、少年は姿を消していた。



 海上の麗婦人と言われたレディ・シーラは、その白亜
の船体をなめらかに動き出させた。
 船尾の方向へと。
 まっすぐ先に進めば、Y公園のすぐ脇の陸地にぶつか
ってしまうのだが、麗しきシーラは優美な曲線を描いて、
そのような愚を犯すまいとする。
 レディ・シーラが弧を描いている理由は、後部タービ
ンエンジンで動かすはずの二本のスクリューのうちの一
本が、挟まれた異物のために支障をきたしているからで
ある。

 乗組員や乗客達に、何の予告もないままに走り始めて
しまったレディ・シーラの甲板には、先ほど起こされて
しまった運の悪い乗客達が続々と上がってくる。
 そのままの曲線を描き続けたレディ・シーラはY公園
をぎりぎりでかすめ、Y公園に半永久的に係留されてい
る、引退した客船の横腹に体当たりを喰らわせた。
しばらくの間、二隻の客船の間で力比べが行われた。
結局はその力比べに、現役の客船が勝利し、引退した客
船を半ば引きずる形で断ち割った。
 真ん中から真っ二つにされてしまった引退客船は、割
れ口から轟音を立てて大量の水を飲み込み、悠然と進む
レディ・シーラの両脇で、ゆっくりとY港に沈んで行く。
 レディ・シーラは、その後も依然として優美な調子で
着々と歩を進め、すぐ近くの埠頭に座礁した。
 乗客や乗員のほとんどが目を醒ましていたことや、レ
ディ・シーラの速度が遅かったことなどが幸いして、乗
員乗客名簿にある者の死者はゼロに抑えられた。
 しかし、後部タービン付近には、誰とも知れない者の
下半身だけが鎖に絡まれて落ちていた。
 上半身は、レディ・シーラ暴走の原因と思われる鎖に
絡まれ、タービンの歯車の一つに巻き込まれて、グチャ
グチャに潰れており、身元を確かめることができなかっ
た。

        *   *   *

 レディ・シーラが先ほどまで係留されていたO桟橋の
駐車場で、少年は海上の麗婦人がたどった末路を、じっ
と眺めていた。
 その瞳には深紅の光は失われており、今まで破ったこ
とのない禁忌を犯したことに対する後悔の影だけがあっ
た。
 そこへ、片足を引きずった小さな影が現れた。
 メリーベルである。
「まだやるのか、メリーベル。おまえの従兄弟は俺が殺
した。俺はもういい。好きにしてくれ」
 どうせ通じないだろうと思いながらも、少年はメリー
ベルに呼びかけた。
 今言った言葉に嘘は無い。少年は、メリーベルに殺さ
れるつもりでいた。
 しかし、メリーベルは日本の言葉で少年に答えた。
「どうも、せえへんよ。これで、うちも言うこと聞かん
で済むのやから……」
 短い沈黙の後、少年が口を開いた。
「……。日本語、判るんだ?」
「そやね。うちら一時神戸に居ったから。せやけど、分
からんふりしとったんや」
 二人の間に、再び沈黙が訪れる。
 メリーベルは、折れた足を引きずって、少年の方に来
ようとする。
「行く当ては、あるのか?」
 半分ほどの距離まで近づいたメリーベルに、少年が問
いかけた。
 少女に見える一五〇歳の吸血鬼は立ち止まって、可愛
らしく首を横に振る。
 少年は、決断をしなければいけなかった。
 メリーベルを信用するか、しないか。
 激しい後悔に苛まれている少年は、嘘でも信用したい
気持ちになっていた。
 それに、今の質問をした時点で、すでに答えは決まっ
ていたとも言える。
「ま、しょーがないか」
 少年は何かを振り切るようにそう言い、近寄ってメリー
ベルを背負った。
「やめてえな。恥ずかしいやないの」
 少年の背中に上げられたメリーベルは、そう言って抵
抗しようとする。
「まぁ、いいじゃん。気にするなって。それより、血ぃ
吸ったりするなよ」
「……。別に、好きで吸ってたわけやない」
 少年の軽口にメリーベルが拗ねて見せ、二人の会話は
ここで終わった。メリーベルは、少年の背中に体重を預
ける。
 少年はメリーベルを背負ったまま、走り出した。
 桟橋の入り口には、レディ・シーラ暴走の通報を受け
た警察官達が到着したところだ。
 これから、警官達の手から巧く逃れなければいけない
のである。
長かった少年の一日は、まだ、終わらない。