『流れよ涙、と警官は言った』
Presented
By
Kyou


 関東地方では昨夜から大きく張り出してきた高気圧に押される形で、移動してき

た低気圧が前線を形成し今日は一日中雨になる模様です。この雨は明日の朝まで降

り続けると思われます。

 さて、最高気温です―



 雨が降っていた。

 僕は雨が大嫌いだった。雨の匂いも、どんよりした雲も、空から落ちてくる水滴

すらも嫌いだった。

 雨の日は何をする気も起こらなかった。だから、梅雨の季節などは僕の倦怠感は

ピークに達し、五月病とは較べものにならない程の無気力の塊になってしまう。ど

うして世の中の人間が雨の日、晴れの日を問わず活動していられるのか不思議でな

らなかった。とはいえ雨だからといって家に籠もりきりというわけにもいかない。

親の目もあるし、世間体というものもある。僕は仕方なく傘を手に取り、ふらふら

と外に出た。

 傘を開くのはひどく億劫だったが、濡れるよりはましだ。 どこに行こうと思っ

たわけではなく、ただ足の赴くままに歩いていた。もうほとんど惰性と言っていい。

大体行きたい所があれば何も考えずにそこに行くし、行く当てが無いからこうして

いる。

 雨は次第に強くなってきていた。胸の奥の方で厭な気分が比例して増してくる。

いまさら建前を無視して家に戻ろうとも思わなかった。しかし雨の中ずっと立ち尽

くすわけにもいかず、僕は機械的に脚を動かしていた。何も考えなかった。何も考

えられなかった。何か考えたら気が狂ってしまいそうな気がした。

 ただひとつ、学校はサボることに決めていた。



 最近よく幻覚を見る。ふと気が抜けた瞬間にそれは僕に襲いかかる。少し前まで

はまだぼんやりしていたのに、この所は段々とはっきりとした像を結ぶようになっ

ていた。

 幻覚はその時々で色々なモノになった。それは顔の無い人形だったり、目だけの

怪物だったりした。ただ、いつも決まって周りがコバルトブルーの砂にまみれてい

たからすぐに幻覚とわかった。ある時は何も出てこないで、足元のマンホールから

青白く光るその砂が吹き出してくるような幻覚を見たこともあった。さすがにその

時は危なかったと思う。しかし、どうしても誰かに相談しようとは思えなかった。

なぜかはよくわからない。意地になっているわけでも無いし、他人の目を気にして

どうこうという気もない。

 自分でも不思議だった。



 今どの辺りを歩いているのだろう。

 知らないうちに僕は電車に乗り、知らないうちにどこかの駅で降りていた。ふと

気がついてみるとまた傘をさして歩いていた。さっき歩道橋の脇を通り過ぎた時、

何か文字を見たような気もするが、何と書かれていたかなんて覚えていないし、今

どこかなんてどうでもいいような気がした。 僕は歩き続けた。

 色々な建物を通り過ぎ、沢山の人の脇をすりぬけ、何度かぶつかり、その度に厭

な顔をされ、小声で呟くように謝った。申し訳程度の緑を眺めながら、自分は今何

をしているのだろうと思い、出会う人は皆疲れ、俯いて歩いている様にえて、彼ら

は一体何を考えているのだろうと思った途端、ビルの窓に移った自分の姿もそれと

同じことに気がつく。疲れている。何に? 数え切れないほどの何かにだ。僕も、

彼らも。雨は一向に止む気配が無い。

 遠くの方で雷が鳴るような音がした。

 派手な水しぶきを上げて、僕の横を白い自動車が走り抜けていった。遠ざかる自

動車を見送りながらしばらくぼうっと歩いていると、雨を含んで重たくなったぬる

い風が僕の頬をねっとりと撫でていった。僕はぞっとして、一度軽く身震いをした。

しかし頬に残ったおかしな感覚は、コールタールのようにしつこくて消し去ること

ができなかった。諦めたように傘を握り直し、僕は足を速めた。そうすればこの感

触を忘れられるような気がしたからだった。

 目の前に広がる空は、どこまでも黒くどんよりとして、ちっぽけな僕を嘲笑うか

のように、勢いを弱める事なく雨を降らせ続けていた。

 こんちくしょう、そう言ってみたところで雨には聞こえない。空は僕を無視して

平然としている。せいぜい思う存分雨を降らせていればいいさ、悔し紛れにそう思

った。こんちくしょう、もう一度心の中で呟くと、心持ち雨が強くなったような気

がして僕は空を睨みつけた。

 馬鹿にされているみたいで、何だか面白くなかった。そうやって空を睨みつけて

いると、四十くらいのオバサンがあからさまに厭そうな顔をしながら僕の横を足早

に通り過ぎていった。怯えたように目を合わそうとしないのに、そのくせ指の隙間

から異物を見るような視線。彼女の目はそんな感じだった。ずっと見ていたわけで

はないが、僕はちらちらと自分の方に視線が漂ってくるのを感じた。

 何もそのオバサンだけではない。周りにいた人間すべてがそういう顔をして僕の

顔を見ていた。別段おかしなことでは無かった。彼らはいつもそうだ。いつも遠巻

きにして安心している。自分だってそうなるかもしれないとは思わない。思うのは

怖いのだ。

 ふとショーウィンドウの向こうに猫背で俯いた男の姿が見えた。僕と同じ顔をし

たその男は無表情にこっちを見ていた。

 ああ、僕はそんなに怖い顔をしていたのか。

 そう思って僕は小さく笑った。そうしたら突然大笑いしたくなる衝動に駆られて、

そいつを理性で無理矢理抑え込むのにひどく苦労した。ただでさえ擦り切れそうな

理性は、もう、かろうじて僕を現実世界に引き止めておくくらいの力しか残ってい

なかった。

 そんな静かに七転八倒する自分の姿はひどく滑稽だった。 何でそんな無理をし

ているんだろう。僕は何に遠慮をしているんだろう。わからない。それよりも今、

一体僕は何を思っているんだ。そもそも僕は何だ?

 ふと俯くと足元の雑草が風で揺れていた。いつの間にか頬のあの厭な感触が無く

なっていたことに気がついて、僕はゆらゆらと揺れる名も無い雑草にそっと微笑み

かけた。しかし、返事は何も無かった。

 また風が吹いた。

 今度は何も残らなかった。厭な感触も、何も。



 雨の中僕は歩き続けた。そして知らない街に出た。

 知らない街には僕の知らない人がいて、僕を知らない人がいる。そして彼らには

知らない彼らがいて、彼らを知らない彼らがいる。誰もがお互いを知らない。それ

が街のルールらしい。街では僕は僕ではなくなり、彼らは彼らでなくなってしまう。

そしてみんなただの動く肉の塊として勘定されるようになる。僕も彼らもみんな肉

の塊。タンパク質。そう出会う人々にいちいち指さして教えたくなる。あなたもそ

うです。

 何かがおかしい。

 最近自分が変なのが実感としてわかる。何かが違う。このままじゃいけないと思

う。何がいけない。イケナイモノハカエナケレバ。でも手遅れだった。僕は既に支


配されている。もう変えることはできない。僕には安穏とした平和な日常を過ごす

ことが許されなくなっている。悪魔の格好をした神様はそういう腐った人間には救

いの手を差し伸べてはくれない。それは僕を地獄へ落とす悪魔と大差は無い。 大

体、かりそめを生きる僕らにとって、真実とはおよそ不幸をもたらすものだ。いつ

か誰かに聞かされたような気もするけれど、そんなこと僕はずっと前から知ってい

たのだ。知らなくていいことなんか小さい頃から僕の周りには山程あったけれど、

それ以上に知らない方がいいことのほうが多かった。だからだろうか大人たちはそ

れらをひたすらに隠し続け、かえって僕はそれらが本当はとても素敵なものなんじ

ゃないかと思っていた。僕は彼らに色々な事を訊いた。結末はわかっていたのに僕

は信じていた。しかし、彼らは思う以上に僕が期待するようなことを何一つ教えて

くれなかったし、時には怒りさえもした。そもそも僕の欲しいカードを彼らは持っ

ていなかったのだからそれは当然の事だった。でも、小さかった僕にはそんなこと

はわからない。

 だから僕は一人で答えを探そうとした。

 そうやって、いつまでたっても答えは見つからず、諦めだけが増していたことに

気がつくと、僕はいつしか答えを探すのも億劫になって、そんなものさと言うのが

口癖になっていた。同時に僕は自分の滑稽さに傷ついた。疲れたわけではなくただ

単に飽きただけ。それから自分でも知らないうちに僕はあまり笑わない人間になっ

ていた。

 突然目の前に現れたコバルトブルー。そんな折、そいつは不意にやってきて、ゆ

っくりと僕を侵食していった。

 それも、悪くはない。



 人間と呼ばれるモノが蠢き、熱を発する。

 熱は空気中に舞い、街全体を包み込んでいく。生暖かい。さっきの風と同じ感じ

だ。違うのは、今度のはどうやっても拭いきれないということだけ。吐き気がする。

 慣れ切った人間はこれを何とも思わない。知らない人間はそもそも感じることが

できない。これに気づき、耐えられない人間は、息を止めて今すぐにでも街から飛

び出さなければならない。消えてしまう。そうやって人が人でなくなっていく。僕

が僕でなくなっていく。

 それでも僕はこうして街に足を運ぶ。一度捕らわれてしまうと逃げられない。ち

がう、僕が離れられないのだ。身の回りのものすべてを軽蔑しているのに、どこか

で群れることにしがみついている。本当は一人でいたいのに。シガラミなんて欲し

くないのに。そう思えば思うほど、かえって群れることに対して執着を捨て切れな

くなっていた。

 救いを求めるように周りをぐるりと見渡してみる。重くなった空気はますます

人々の色彩を奪っていく。息苦しい。人も、緑も、風も、何もかもすべて。人込み

に紛れて、僕の意識が少しずつ形を崩して流れ出しそうになる。数え切れない程の

人間が残像を残して蠢いているのを見ていると、世界が歪み、目が廻りそうになっ

た。いけない、ここは人の数が多すぎる。

 うっと呻くと、次の瞬間ストロボのようにチカチカと視界が明滅し始め、何も見

えなくなってきた。動悸が荒くなり、息ができない。全身の筋肉が緊張してくる。

 大きく見開いたら最後、目を閉じることができなくなった。額からじっとりとし

た脂汗が噴き出てくる。堪らなく気持ち悪い。強ばった腕で僕は口元を押さえた。

吐きそうだ。明滅は徐々に激しくなってくる。眩しい。眩しすぎて目が機能しない。

唐突なホワイトアウト。意識が飛ぶ。

 足が竦んでしまうくらい、こわい。

 僕は僕だ、悲痛な叫びを残して、魂とでも言うべき僕の精神領域は瞬間的に宙に

浮いた。



 僕は真っ青な顔をして道の真ん中に立ち尽くしていた。

 段々と右手の力が抜けてきて、ザッという音を立てて傘が落ちた。

 雨が体に纏わり付いてくる。服が次第に重くなり、余計歩きにくくなってくる。

遠巻きに僕を見る人々は避けるように歩き去って、誰も声をかけようとはしない。

 表情を堅く結んだ僕の目は焦点が合っていなくて、何も見ていない。視界に飛び

込んでくるものはすべてぼやけている。音も、匂いも感じない。風が通り抜けても、

雨粒が頬に当たっても、全くわからなかった。



 僕はこちら側には存在していなかった。



 現実の僕はアスファルトで舗装された道をおぼつかない足取りで歩いていた。髪

がしっとりと濡れて額に張り付いている。鼻筋を伝ってきた水滴がズボンの上に落

ちた。汗と混じった雨が目の入り込んできて痛い。皮膚感覚はとっくに知覚できな

くなっているのに、痛覚だけがいやにはっきりと残っている。お陰でどうにか意識

は身体に縛り付けられているらしい。皮肉なものだが、ぼんやりと僕は安心してい

た。雨はまた少しづつその勢いを増してきたようだ。 傘を片手に彼らは私を恐れ、

邪魔に思っていたろうが、決して近づこうとはしない。不干渉。僕に触れないよう

にして色とりどりの傘が移動していくのは、河の流れが突き出た岩にぶつかって分

かれ、また合流するのに似ていた。そのことを気にかけるだけの余裕も働きかけも

ない。ただ僕はふわふわとしていた。とても気持ちがいい。このまま戻らないのも

いいかもしれないな。重力に縛られないのはとても魅惑的だった。



 雨粒がじかに目の中に入って反射的に僕は目をつぶった。 痛い。目の奥に走る

ような痛みがした後、波が引くように浮遊感は薄れ、急速に僕の意識は現実の僕の

身体の中に収まっていった。僕は無意識のうちに抵抗していたが、その引力は有無

を言わせなかった。微塵の抵抗も無力だった。 理不尽だ。僕は大事にしていたも

のを取り上げられてしまったような腹立たしさを覚えた。驚いたことに、いっそあ

のまま消えてしまっても構わなかったのに、とさえ思った。そこで完全に僕は僕に

戻った。



 気がつくと僕はびしょ濡れのまま立ち尽くしていた。

 ふう、と僕は息をはいた。額にたまった脂汗は雨があらかた流していったようだ。

ベトベトはしていないものの、身体がぼんやり熱くて、重い。不快感はないが、全

身をけだるい疲労感が包んでいる。とりわけ頭痛が酷い。

 少しすると視覚から順に感覚が戻ってきた。感覚が一つずつ大脳とつながってい

く。

 ぼんやりと口の中が痛い。

 どこか切ってしまったらしい。うっすらと血の味がする。 感覚が戻ってくると

頭痛も少しだけ薄れていった。

 いつの間にか傘が無くなっていた。さっきどこかに落としてきたのだろう。雨は

まだ降っている。まだ止む気配はない。これ以上濡れるのも何だし、探しに戻って

もよかったが、身体中の関節がぎしぎしと悲鳴を上げていて、わざわざ人の流れに

逆らってまで戻るのも面倒だった。大体そんなたいしていい傘じゃない。近くでビ

ニール傘の露店販売をしていたからそれで間に合わせた。僕はいかにも安い青のビ

ニール傘を選んだ。その場でビチビチといやな音を立てて傘を開く。毎度どうも、

と言う男の声に送られて、僕はまた歩きだした。



 疲れた。

 足が痛い。もうずいぶんと歩いてきた様な気がする。

 ここはどこだ。よくわからない。

 今、何時頃だろう。時間の感覚が跳んでいる。もう暗くなってもいい頃なのだろ

うか。なんだか雲が厚過ぎて今日は一日中午後だった様な感じだ。僕は時計をして

こなかったことを少し後悔した。家を出る時は時間なんてどうでもよかったから、

時計なんて何とも思わなかったが、わからなくなってしまうとやけに気にかかって

くる。そろそろ帰ろうか。

 帰るのか、また。帰ったところで何がある。

 いや、帰るのだ。ここは人が多過ぎる。



 今は少しだけ前が見える気がする。

 時々感じる浮遊感の後はいつも何というかこんな感じだった。感情を抑えて周り

に溶け込もうとすると、時々、出口を失った感情が暴走してしまう。さっきのはそ

れに身体が対応しきれなくなって、発作の様に襲ってくるのだった。

 しかし現実に帰ってくると、酔っ払ってひとしきり吐いた後みたいに、やけに頭

がすっきりとする時がある。大して長い時間こうしていられるわけではないけれど、

何時よりも頭が冴えるこの瞬間は一種快感とも呼べた。この浮遊感は僕にとって麻

薬の様なものだった。それは僕自身、あまり褒められたことではないだろうとは思

っていた。そもそも刹那の快感にすがって生きるのは僕の望むことでは無かった。

少し自重しなければ。でも、やめられない。これぐらいないと僕は生きる気さえ無

くしてしまいそうだった。集団には嫌悪までするのに、ここまで僕が街にこだわる

理由もこれだった。

 わかっていると余計苦しかった。

 僕はハッ、と吐き捨てるように自虐的に笑った。



 僕は街に溶け込もうとしていた。ただ、僕はいびつな形でしか彼らに適応するこ

とはできない。どこか浮いてしまっているような気がする。結局のところ不器用な

のだ。少なくともそう思う。社会不適合者ということか。

 誰も僕のことに構う人はいない。誰も僕を気にする人はいない。誰かを気にしよ

うとする人はいない。誰かに気にされないようにしてただみんな俯いている。だか

ら街で僕は自由を持てた。誰も何も気にしない、そして僕も気にしない、つまりイ

コールゼロの自由。別に一人でも寂しくはない。それは強がりでも何でもない。本

当のことだ。

「そんなもんさ」

 僕は目を正面から逸らして声に出して言った。

 何とも言いようのない空しさだけが残る。このままじゃいけない。何度もそう思

った。このままじゃいけない。

 僕は目を上げた。前に傾けたビニール傘は世界をクリアブルーに染め抜いていた。

オズの魔法使いのエメラルドの国を彷彿とさせる光景に、瞬きするくらいほんの僅

かな時間この世のすべてのものが一斉に静止したような気がした。僕はどきりとし

て慌てて傘を上げた。

 青の世界から逃れるように視線を逸らすと、道路を隔てた向こう側で、一人の女

の子と目が合った。

 見たこともない子だった。でも、どこかで見たことがあるような気もする子だっ

た。湿った風が吹く。彼女の肩くらいまである栗色の髪がゆらりと揺れた。遠くか

ら見ると、少女は随分と儚げに映った。一瞬でも目を離したら消えてしまいそうだ

った。不思議なことに、車道を挟んでいるのにもかかわらず、僕には彼女の姿はと

ても鮮明に見えた。微かに彼女は笑いかけたようだった。それは僕に向けられたも

のだった。根拠はないのに僕は確信していた。彼女はあらかじめ僕のことを知って

いるみたいにもう一度はっきりと笑い、三十メートルくらい先の方にある歩道橋を

指差した。あそこに行けということなのだろう。ためらいもせず僕は頷くと、憑か

れたように緩慢な足取りで歩道橋に向かって歩き始めた。



 信号がすぐ近くにあるからかどうかは知らないが、この歩道橋は使う人がほとん

どいないようだった。車道を覗くと、雨だというのに沢山の車がかなりのスピード

で走っていた。辺りはタイヤが水を切る音で溢れていた。

 僕も使わないから知らなかったが、歩道橋というのは街の中ではまるで異空間だ

った。そこだけ街ではない所。何かと何かの接点。

 歩道橋の中程に少女は立っていた。目の前に立っているのに、気配とか存在感と

いうものが一切感じられない。得体の知れないこの少女に僕は薄気味悪さを覚えた。

「君は誰だ」

 少女は笑うばかりで何も答えない。もう一度訊いた。

「君は誰だ」

 答えは無かった。口元に笑顔を浮かべたまま少女は僕の方に向かって一歩足を出

した。僕は一歩身を引いた。恐れている、この小さな少女を。

「どうして」

 少女は初めて口を開いた。綺麗で澄んだ声だった。それでいて心臓を鷲掴みにす

るような声だった。

「どうして自分から一人になろうとするの」

「違う、僕はうまく馴染めないだけだ。彼らのようには器用に生きていけない。僕

は僕のままでいたいんだ。街に飲み込まれたくない。一人になろうとしているわけ

じゃ無い」 バケツの水を思い切りぶっかけられたような気がした。びっくりする

くらい冷たくて大人びた声だった。ぐさりとくる。少女の姿との差に、僕に自分が

矮小な生き物だと思わせる何かがあった。

「彼らは彼らであることを削ってまで街にしがみつこうとしている。僕はそうまで

したくは無い」

「本当は誰だってそうしたがっているのかもしれない」

「そうかな」

「自分だけが特別だと思っていない」

「そんなつもりはないよ」

「そう」

 そう言って彼女は沈黙した。僕も何も言わなかった。風と自動車の音が僕と彼女

を無視するように街を駆け抜けていく。僕は周りをすべてよそよそしく感じた。

「ねえ、気づいてる?」

 ともすれば小さすぎてかき消されてしまいそうな声だった。少女は愉しんでいる

のか悲しんでいるのか哀れんでいるのかよくわからない顔で言った。いくら小さく

てもその声を僕が聞き逃すことはない。僕と彼女は直結しているようだ。少女の声

はさっきよりも熱を帯びていた。それに合わせるように僕の中で少女の存在感は増

していった。

「ずっと一人でいられるほど、あなたは強い人じゃない」 それだけを言い捨てて

少女はすうっと消えていった。

 余りにも突然の始まりで、唐突すぎる終わり方だった。

 気がつくと、少女が立っていた後には一掴みの青白い砂が残っていた。これは幻

覚だったのか。僕は俄には納得できない。幻覚だと思うには、現実感があり過ぎた。

あれには夢を夢と思わせない何かが存在していた。

 僕は何も言うことができなかった。何かをする気も起きなかった。ぼうっとした

目でしばらくの間黙ったまま歩道橋の上から車や人を見下ろしていた。いや、眺め

ているというほうが正しかった。

 何度も少女のことばを反芻する。

 ねえ、気づいてる。君はそんなに強い人じゃない。

 一度だけ同じことを言われたことがあった。三年前に別れた彼女もそう言ってい

た。そういえばあの少女も、彼女と同じくらい綺麗な目をしていた。瞳の大きな娘

で、何でも物事を素直に、ズケズケと言う人だった。手加減はなかったが優しい娘

だった。あのことばわたしか別れ際に聞いたものだった。僕はその時も黙ってしま

ったような気がする。ただ彼女の場合、その後に自分の殻にばかり閉じこもる大馬

鹿野郎と言われた。でも彼女はある意味正しい。

 僕は砂をつまむと手の上で転がした。冷たい色をした砂は、氷のような感触がす

るのかなと思っていたら、何の感触も残さず、すうっと砂は消えていった。でも、

間違いなく夢ではない。僕にとっては事実だ。少女も、砂も。あれは、本当は僕な

のか。

 寂しいと感じた。

 無性に誰かと話がしたかった。

 近くの公衆電話で、高校の時の友達に電話した。何か急に声が聞きたくなっちゃ

てさあ、そう言うと電話の向こうで大きな笑い声が聞こえた。それからしばらく他

愛のない世間話で盛り上がって、じゃあと言って電話を切った。

 涙が出た。僕一人じゃないような気がして何だか嬉しかった。でも、心のどこか

で何かが寂しいと言っていた。嘘つき笑顔で作るかりそめの時間。



 雨は止まない。

 まあ、そんなものさ。

「どこかに、忘れ物しちゃったかな」

 僕はそう呟くと、何事もなかったように、また歩きだした。

  ―了―