Precious Blood 前編
作・ひで


 わたしには、気になる人がいる。
 始まりは、2年前のランドマークだった。
 一人、ショッピングモールを何とは無しに歩いていて、彼を見かけた。
 そこでの彼は、美しい野生の黒豹のようだった。
 気侭で、しなやかで、勇敢。
 彼の名は、六藤亮(むとう あきら)。
 二年後の、初冬。
 彼の姿は、あの頃とほとんど変わらない。

「こら、りょ〜こ。なに、ひたってんのよ」
 後ろの席の香織が、シャーペンの先で背中をつっ突きながら、小声で鋭く
割り込んでくる。
「べつに、そういう訳じゃないんだけど」
 前の方では日本史の矢島先生が、何やら授業かなんかをしているので、う
かつに振り向くこともできず、右斜め下やや後ろにうつ向き、わたしも小声
で言い返す。
「ウソつけ、コラ」
 香織はドスの効いた声で小さくそう言うと、何やらシャーペンで書き出し
た。矢島先生は板書を始めたけど、ノートを取ってる訳じゃないだろう。
 わたしが真面目に黒板を写していると、今度は香織が机の下からつっ突い
てきた。
椅子の隙間から手を伸ばすと、案の定紙切れを渡された。

   》むと〜くんって、やっぱこの時期がいちばん似あうよね。《
   》公園を歩いていて、木枯らしに吹かれて、ふとコートのえ《
   》りを立てる六藤、とか。きゃ〜 《

右下には、衿を立てた六藤君(らしき人物)が「愛してるよ。りょ〜子」
とか言っているイラストが描かれている。
 あ〜あ〜、勝手にトレンチコートなんて着せられちゃって。六藤君も、あ
の若さで気の毒なことだ。
 だいたい六藤君は顔が幼いんだから、コートというよりもセーターにマフ
ラー……。いやいやいや。こんな事を考えてる場合じゃなくて。
 わたしは、香織から来た紙の裏に「まあ、そうかもね」とだけ書いて、先
生が後ろを向いている隙を狙って机の下から香織に返した。
 これで返事も帰ってこないだろう。
 わたしは一高校生として、授業だけはしっかり受ける主義なのだ。

 確かに六藤君は、《格好良い》と言うより《美しい》という顔立ちだ。色
も白いし、線も細い。
 だけど、ああいう線の細さというのは、特に男の子の場合、大人になるに
つれてなくなっていくものだと思う。
 実は中学2年の頃、わたしと六藤君は同じクラスだった。その頃には、美
しくなくとも儚げな少年というのは、多くはないがまぁ何人かは居た。
 現在高校1年生になって周りを見回すと、男の子達はどことなくみんな男
らしい、というかアゴとか首筋とかから弱々しさが消えている。
 六藤君はあの頃と同じで、華奢なままだ。
 それに、わたし自身の考えとしては、美しい男というのは気持ち悪い気が
する。
 いやいやいや。この際そんなことはどうでもいい。

          *     *     *           

「ど〜こ見てんだよ」
 わたしの主義主張とは裏腹に、矢島先生の授業はいつのまにか終わってし
まったらしく、香織が机の横に立って、ぼ〜っと考えごとをしていたわたし
の右肩に突っ込みを入れる。
「あ、ああ。香織ちゃんか。え、あの。うなじ」
「う、うなぢ? 随分マニアック名とこ見てるじゃん」
「マニアックってあんた。体の部分にメジャーとかマイナーとかがあるのか」
「確かに、項というのは通好みだと思うけど」
「りょ〜こちゃんて、いいとこに目つけてるよね。今は制服に隠れてるけど、
夏服のころに見れたあっくんの鎖骨なんて鼻血もんだったわよね〜」
 綾さんと、美佳がわたしの机に寄ってきた。
 六藤君は地味な生活態度なのであるが、その大変優れた外見のために、彼
のファンと称する女子が結構居る。
 ここに集まってきているのは、どちらかというと恋愛感情とはあまり関係
なく、美しいものを見て楽しもうという目的の、自称《六藤亮・友の会》で
ある。どういう理由でそうなるのかは知らないが、ファンクラブではどちら
かというと恋愛感情的に真剣なイメージがあるので、純粋に観戦(鑑賞の間
違いじゃないんだろうか?)目的ということから、綾さんがこのように名付
けた。
「鎖骨とは、これはまたまた通好みなところを」
 綾さんが、美佳の言葉に変に感心している。
「鎖骨は、ちょっと……」
うなじより鎖骨の方がよっぽどマニアックだという気がする。うなじは言っ
てみればより一般的なマイナーさだと思うんだが。いやいやいや、それより
も何よりも、鎖骨では世間並に逞しくなっているかどうかを判別できない。
「え〜、やっぱむと〜くんの一番いいところは、顔だよ」
 香織が、案外まともなことをいう。しかし、《顔が良い》という言葉を口
に出すのには、なんとなく勇気が要ると思うのだが、平気で言ってしまって
いる。
「そうね、特に耳なんか最高よね」
「でっしょ〜、斜め後ろとかから見たら、もう、たまらないわよね。ピアス
つけたくなっちゃうよ」
「ダメダメ。ピアスなんて開けたら、六藤くんの耳の良さが帳消しだわ」
「そうかな? 似合うと思うんだけどな」
「い〜や。六藤くんの場合、全体的に素朴な感じでまとまってるんだから、
素材の良さを生かさなくっちゃ」
 綾さんが、料理評論家のような言いぐさで六藤君の耳について語る。
「なまみみ?」
「そう、生耳」
 美佳が怪しい造語をし、綾さんが何のためらいもなくそれに同意する。そ
して、生耳という、あまりにも怪しい語感に、一同の中で爆笑が卷き起こる。
こんな会話を聞いていると、ファンクラブでも友の会でも基本的にやって
いることは大して変わらないと思う。
 わたしは、どちらかというと彼の観戦(?)が目的なのではなく観察をし
ているので、本人としては多少スタンスが異なっているつもりだ。
 でも、やってることはあんまり変わらないので、仲間として見込まれてし
まったわけだ。
 その上、観察という作業柄、わたしは六藤君の方を向いている機会がやけ
に多い。
 そんなわけで、《友の会》のメンバーの中でも、六藤君に対して《本気》
であると受け止められている。
 いやはやなんとも、誤解というものは恐ろしいものだ。

          *     *     *           

 今日の六藤君は、どこかいつもと違う。
 ……と思う。
「りょ〜こさぁ、髪の毛切る気ないの?」
 仲良く弁当を食い、わたしが今日何度目になるかは判らないが六藤君の方
をボーッと見ていると、唐突に香織が言い出した。
「え? べぇつにぃ〜。あんま凝った髪型すると、めんどくさいし」
「それにしても、それはあまりにも……」
 わたしの髪型は、長めのおかっぱ頭という感じになっている。軽〜い天パ
ーなので、くしを入れるぐらいでなんとか形になる。まあ、別段可愛らしく
も、独創的でもない髪型だが、時間がからないので、とりあえず楽で良い。
 多少ねぐせが付いたところで、結んじゃえばいいだけの話しだし。
「りょ〜こはさぁ、顔なんか卵型でアゴの輪郭とか結構良いんだから、短く
した方が可愛くなると思うよ。髪の量とか、結構多いみたいだから、あんま
長いとうっと〜し〜でしょ」
「ん〜。別にそんなわけではないんだけど」
 わたしはそれより、こまめに髪の手入れをしないといけないという方が鬱
陶しい。
「それよりさぁ、今日の六藤君はどこか違うと思わない?」
 わたしが、思ったままのことを口に出してみる。
「え〜、そうかなあ? いつもと同じだと思うけど〜」
 美佳が疑問をはさむ。
「いつもと同じで、麗しいわぁ」
 綾さんが、断言する。
 麗しい? そうかぁ? わたしは、六藤君に似合うのはもっと別の形容詞
じゃないかと思う。
 だいたい、六藤君がやっていることは普段も今も、高校生男子としてはご
く普通のことだけだ。
 今なんて、友達と弁当の奪い合いとかしてじゃれ合っているので、麗しい
というよりは可愛らしいという感じだ。今朝、空き缶を蹴っていた小学生と、
印象としてあんまり変わらない。
 麗しいというのは、なんかもっとこう……。
 いやいやいや。それはさておき、どこがどうとは言えないけど、いつもと
は何かが違う。
 ……気がする。
 これは、二年間六藤君を観察し続けた女の勘だ。はっきり言って、今日の
六藤君は、何かが違う。
 ……はずだ。
あの日から丸二年以上、わたしは六藤君を観察し続けてきたが、彼は一度
としてぼろを出さなかった。今までの六藤君は、ごく普通の中高生であり続
けてきた。あの日見た六藤君にあった、眩しいような精彩はどこにも感じら
れなかった。
 でも、今日は違う。
 具体的にどこがどうとか言うわけでも、あの日の輝きが全て戻っていると
いう訳でもないが、何かを感じる。
 うん。今日の帰り、六藤君を尾行してみよう。
 香織の「ねぇりょ〜こ、髪の毛切ろうよ」という声を背景に、わたしはそ
う決意した。


   2.

 夕方になるのが、早いな。
 Y市をホームタウンとするプロ野球団のホームグラウンドである、Yスタ
ジアムのあるY公園の中を歩きながら、わたしはそう思った。
 学校が終わって、一時間ほどでもう夕方である。あと一時間もすれば、間
違いなく真っ暗になってしまうだろう。
 木枯らしが吹きすさび、Y公園の小砂利混じりの砂が卷き上がって結構歩
きにくい。
 小砂利を避けているうちに六藤君を見失ってしまったらたまらない。少し
抵抗を感じたが、わたしは《力》を使って顔の周りに小砂利が飛んでこない
ようにした。
 わたしの力には、経験的に二通りの使い道がある。
 ひとつは、自分を中心にだいたい二mぐらいのまでの距離のもの一個を動
かすこと。
 もうひとつは、自分に向かってくるものを避けさせること。
 ただしその力は強くなくて、それぞれだいたい自分の腕力と同じぐらいの
ものまでが限度だ。
 そんなこんなの制限が大きすぎて、この力はあんまり使えない。両手がふ
さがってるときに、ちょっと便利かな、という程度のものである。
 そもそも、人前でむやみに使うわけにも行かないので、普段はこんな力が
あることなんて、ほとんど忘れてしまっている。
 もっとも、わたしが六藤君に興味を持ったのは自分のこの力のせいだ、と
も思う。
 あの日、六藤君は一五mぐらいの高さの所から飛び降りて、平然としてい
た。
 わたしの他にもこんな人が居たんだ、という気がした。仲間ができたみた
いで、嬉しかったのだ。
 六藤君のことを他の人に言っていないのも、その辺のことが関係している。
 まぁ、言っても誰も信じてくれないだろうという理由もあったのだが、そ
れよりも言うと六藤君が困るに違いないと思ったからだ。
 まあ、一方的なものだが、同士愛みたいなものだろうか。
 いやいやいや、愛とは言ってもそれほど重いものじゃなくて……。

 なんでだ?
 六藤亮 は、Yスタジアムのある公園の中を歩きながら首を捻った。
 どうやら、同級生の和倉遼子(わくら りょうこ)に後をつけられている
らしい。
 亮は、常々遼子が自分の方を見つめていることが多いことに、気がついて
はいた。
 それだけなら、特に問題は無い(というか、別の問題になっている)のだ
が、亮が遼子の視線に気付いた日が問題だった。
 それは、二年前のあの日の翌日からなのである。
 もしかしたら、見られたのかも知れない。あるいは、延命の効果さえある
超強力な肉体の賦活剤として、彼の《血》を狙う誰かの差し金なのかも、な
ど様々なことを考えた。
 しかし、遼子の方から何かアクションを起こしてくることがなかったので、
放っておくことにした。
 超人的な身体能力を持った吸血鬼であるという以外には、単なる学生でし
かない亮にしてみれば、捕まえたところでどうしようにもなかったからだ。
 今日になって、遼子が突然動きを示した。
 これは何を意味するのか、亮には判断を下すことができない。
 どうすればいい?
 亮は自らに問いかけた。
 遼子が全然関係のない人間である可能性も無いわけではない。尾行などと
いう怪しい行動を採るのにも、何か他の理由があるのかも知れなかった。
 もし誰かの差し金なら、それを探り出す絶好の機会であると言えば、言え
る。
 熟考の結果、とりあえず亮は遼子に声を掛けてみることにした。

          *     *     *           

「和倉さん。こんな所でどうしたの?」
 う。同士愛なんて事を考えてるうちに、六藤君に見つかってしまった。
「あ……、あれ? 六藤君? 六藤君こそどうしたの?」
 しらを切ってみたが、どうだろう。わざとらしかったかも知れない。
「ああ、僕? 僕はこれから中華街に行く用事があるんだ。で、砂が飛んで
くるのを避けて振り向いたら、和倉さんが居たから」
「あ、そう。偶然、わたしも中華街に用があって来たんだ」
「へ〜。なんかあるの?」
 う、困った。口からでまかせを言ったら、追求されてしまった。
「……。あ……の、烏竜茶。そう、烏竜茶が切れたから、買って来てってお
母さんに頼まれちゃって。それより六藤君は何の用なの?」
「う……ん。僕はね、中華街に知り合いが居るんで、これから行く所なんだ」
 ここで、どういう訳か六藤君の顔に露骨に後悔の色が浮かんだ。
「じゃあ、せっかくだから、そこまで一緒に行こうか」
 前の言葉と、ほとんど被るように六藤君が慌てて付け足す。
「うん」
 六藤君の焦りが、何を意味するのか良く判らないが、尾行なんていうこと
をして後ろめたい気持ちがあったので、わたしはほぼ自動的に同意した。

 まずいことを言った。
 亮の後悔はそこにあった。
 正体の判らない遼子相手に、つい本当のことを言ってしまったのだ。
 亮は今日、中華街に人を訪ねて行く予定だった。
 生みの親、つまり自分の遺伝上の両親の行方を知っているかも知れない人
が、そこにいるという話なのだ。伝上の両親の親友だった亮の育ての親が、
対面の手引きをしてくれたのである。
 亮には生みの親たちに会いたいという気持ちはさらさら無い。無いのだが、
明らかに通常人とは違う自分の力の出所を確かめておく必要があるように、
感じられるのだ。生みの両親の足跡を追うのは、あくまでもそのための手段
にすぎないというつもりでいる。
 ともあれ、遼子を連れてその現場に行くわけには行かない。
 だからといって、後をつけられても困る。
 そして、単なる高校生でしかない亮には、(もし誰かの差し金であるなら
ば)可能性として単なる高校生などではないかも知れない遼子の追跡をはぐ
らかすための技術など無い。
 遼子の買い物に適当に付き合い、そのあと探す振りだけして、見つからな
かったことにすればいい。また、訪ねるのを諦めるための伏線として、でき
るだけ楽しそうに振る舞う必要がある。
 亮は、そのように方針を定めた。



   3.

 う……、うう、後ろめたすぎる。
 わたしは、六藤君を尾行するなんて事を考えてしまったことを、すでに後
悔していた。
 烏竜茶は、とっくに買ってしまっている。
 その後、当然の成り行きとして六藤君の訪ね先を探すのに付き合っている
のだが、これがなかなか見つからない。
 わたしなんかがついてきてしまったことで、六藤君の気が散ってしまって
いるようなのだ。
「あ、なんだこれ。おもしれ〜」
 六藤君が雑貨屋のショウウインドウに、また何かを見つけたらしい。
「え? なに、なに?」
 わたしが六藤君の指さした先を見ると、そこにはフクスケのようなお面、
というか顔だけのかぶりものがあった。もっともフクスケはちょんまげを結っ
ているのだが、そのお面の髪型はちょっと違う。
「いや〜、なにこれ。かわい〜」
「ね、面白いだろ。なんかさ、髪型がいいよね」
 そのお面の髪型は、中途半端な坊主頭に赤いリボンで縛った三つ編みが乗っ
ているというもので、福々しい微笑みを浮かべているお面の顔に、妙に似合っ
ている。
「いわゆる、弁髪ってやつらしいね」
「べんぱつ?」
 あらら、どうやら余計なことを言ってしまったらしい。
「うん。あのさ、中国に清って国があったじゃない? その国の人達の髪型」
「へ〜、そうなんだ」
「多分だけど……」
「そんなこと、よく知ってるね」
「あ、うん。でも、この前読んだ歴史ものの小説にそんなことが書いてあっ
たってだけで、ほんとに見たわけじゃないから、確かかどうか判らないよ」
「まぁ、でも、嘘ってわけでもないんでしょ」
「う〜ん。多分だけど……」
 そこまでは、わたしには判らない。
「ちょっと、この店に入ってみようか?」
「うん」
 と、こんなわけで、六藤君の気が散っていてくれると、わたしも結構楽し
かったりする。
 いやいやいや、それでいいわけがない。
 なにしろ、わたしは六藤君を騙しているのだ。
 そのあたりのことが、わたしの六藤君に対する後ろめたい気持ちに、どん
どん拍車をかけているようだ。
 後をつけていたことを白状してしまえば、もしかしたら楽になれるのかも
知れない。
 でも、やっぱり、言えないなぁ。

          *     *     *           

 冬至近くのやけに早い夕暮れ時が、そろそろ終わろうとしている。
 ここY市の日本屈指の規模を誇る中華街は、学校帰りの学生や異国情緒を
楽しむ観光客達によって、まだまだ賑わいを見せている。
 とある建物の中から、手近な外国に喜び浮かれる雑踏を見下ろす、一対の
目があった。
 異形、と言っていいだろう。
 その目の持ち主の体躯は多すぎる筋肉で形作られていた。そのため、すで
に正常な体格は失われ、危うく人間の形を保っているというのにすぎない。
 そして、体中を衣類そのほかで隙間なく覆いつくし、どす黒い光を放つ目
の他は、一片の皮膚さえも光りにさらそうとはしていない。
「やット、見ツケタ」
 スキーマスクの中の、口があるとおぼしき所から、しわがれた低い声が小
さく洩れた。
 その場には他の何者も居なかったが、もし誰かがその声を聞きつけたなら、
現世にさまよい出た死者の呻きを聞いたかのような戦慄に捕らわれることに
なったであろう。
 その声に秘められた怨恨の深淵に。
 そして、その声質の異常さに……
 その者の目が捉えたのは、雑貨屋に入ろうとしている一組の高校生の男女
だった。
 そして、その者が捜し求めていた相手の姿は、二年前その者が今の姿になっ
た時から、全く変わってはいない。
 まるで、まったく成長していないかのように……


   4.

 わたしと六藤君は、その雑貨屋の二階にいた。
 その雑貨屋は、一本裏の細い寂れたような通りに入ったところにあり。規
模の割に、お客は入っていないようだった。
 一階には、カンフーシューズや羽扇子、人民帽、ビーズで飾られた財布、
キーホルダー、ペナント、地名入り提灯、木刀、プラスチック製で矢の先が
吸盤になっている弓矢など、割と一般的なおみやげ品が、ところ狭しと
並んでいた。
 中にはちょっとこれはどうかな? と、疑問を挟みたくなるモノもあるに
はあったけど、きっと、それはそういうもんなんだろう。
 中華街でわたしがもっとも好きなところは、こういうモノを売っている店
が変に小綺麗だったりせず、店員のおばさん達も不愛想なところだ。
 たいへん正直でよろしい。そう、思う。
一階を一通りひやかした後で、奥の方にある階段を登って二階へ上がった。
 二階には、お皿や壷、掛け軸や彫刻など、若い者にはちょっと価値の分か
りにくいような物が並んでいた。
 階段脇にショウケースで隔離された空間があって、本来ならばそこに店員
が居るべきなんだろうけど、今は居ない。
 上がるときに、店員のおばさんとおばあさんは中国語でお喋りをしていて、
ちらっとこっちを向いたようだったが、それだけだった。
 きっと、二人のうちのどちらかが一緒に上がって来ることになってるんだ
ろうけど、どうせ買うわけないと思われたんだろう。
 まぁ、その通りだけど。

          *     *     *           

 それでも、見る気で見れば、そこにある物はそれなりに面白かった。
「うわっ、虎の掛け軸っ。派手すぎるっ」
「二〇万円だって。なんでこんなただのお皿が、そんなにするんだろう?」
「でっけ〜置物。どこに置くんだ、これ?」
「あ、五〇〇円。これなら買えると思うけど、こんな単なる石の棒なんて、
買ってもしかたないよね」
「すげ〜。こんなに小さいのに、ちゃんと七福神の形になってるもんなぁ。
やっぱ中国は、違うな」
「なにこれ? 文鎮かな? こんなに妙に凝った形だと、かえって使いにく
いんじゃないだろうか?」
 などと、あまり有意義ではないであろうやり方で一通り楽しみ、入り口付
近に戻ってきてから、わたしはさっきから気になっていたことを六藤君に訪
ねた。
「ねえ、六藤君。知り合いの所に行かなくてもいいの?」
「別に、いいんだ。知り合いがこの辺でお店をやってるっていうんで、ちょっ
と訪ねてみようかと思っただけだから、急ぐ必要ないし」
 六藤君は、学制服の上に着込んでいるモスグリーンのダウンジャケットの
ポケットに手を突っ込んで、そう答えた。口ぶりを聞いてると、別にいいっ
ていう感じには聞こえない。うつむき加減だったので表情までは見えないけ
ど、きっとほんとは良くないんだろう。
「あ、それとも和倉さんは、そろそろ帰る時間なの?」
「え? 別にそう言うわけじゃないけど……」
 まぁ八時に帰れば、親にも文句は言われないだろう。
「だったら、もう少し……」
 何かを言いかけたところで、六藤君の表情がさっと固くなった。何か、耳
を澄ませているようだ。
 ……。
 六藤君は、足音を立てないように忍び歩きで階段の降り口から少し離れた
ところに移動して、壁に体を寄せるように手真似でわたしを呼び寄せる。
「偶然にしては、少しできすぎじゃないかな?」
「……?」
 同じく足音を立てないように慎重な足どりで近づいたわたしに、六藤君が
小声でそう言って、厳しい顔つきでわたしを見つめる。
 わたしには、なんのことだかさっぱりわけが判らない。あまりのわけのわ
からなさに混乱してしまい、絶句してしまった。
 もしこれがマンガだったら、わたしの顔にはクエスチョンマークが描かれ
ていたに違いない。
 困惑してしまってどうしようもなかったので、わたしはとりあえず六藤君
を見つめ返すことしかできなかった。
 ほんの一瞬、わたし達は見つめあう形になった。
 そのほんの一瞬で、六藤君は何かを判断したらしい。軽くため息をついて
階段側に顔を向けた。
「疑って、悪かったな」
軽く目線だけを動かしてわたしの方を見て、小声でぶっきらぼうに言った。
 未知の何かに気を配る張りつめた緊張感が、六藤君の中にあざやかな色彩
を放って満たされて行く。
 ああ、この人だ。二年前からわたしが探していた六藤君が、今ここに居る。
 そう思った瞬間、何者かが奇声を発しながら階段口から姿を現した。

          *     *     *           

 人影は、三つだった。
 それぞれ黒のカンフールックに身を包み、頭にはさっき見たフクスケもど
きのお面を被っている。どこかで固定してあるらしく、お面が動いて視界が
遮られるということはないようだ。
 そして、その三人組の手には幅広の刀が握られていた。その刀は、香港映
画なんかで悪役がよく持っている物で、いわゆる青竜刀というやつだと思う。
「嘘だろ、おい」
 六藤君は、信じられないという風情でそう言って、頭に手を当てた。
 当然ながらわたしも信じられない。
 どうして突然こんなモノがわたし達の目の前に現れるのか、ちっとも理解
できなかった。
「そこのお前」
 フクスケもどきのうちの一人が、六藤君を指さして言う。六藤君はそれに
は答えず、黙っている。
「……我々について来い。そうすれば危害は加えない」
 そのフクスケもどきは、六藤君を指さしたままで言葉をつないだ。
「……。嫌だと言ったら、どうなるんだ?」
 短い沈黙の後、ゆっくりと一歩進み出ながら、嘲弄混じりの声で六藤君が
返答した。
 それに反応して、フクスケもどき達の体に緊張が走る。
やった〜。六藤君、かっこいいぞ〜。
あまりにも唐突な状況で、わたしには何が進行しているのかまったく判ら
ない。どうやら、対立関係が形作られているようだ、ということだけがかろ
うじて判る。
「その時は……」
 フクスケもどきの言葉に、ためが入った。
「……、力ずくでもついて来て貰う!」
 その台詞を言い終わったのが合図になって、三人のフクスケもどきが一斉
に六藤君に襲いかかる。
 三方向から襲いかかってくる青竜刀を、ほとんど難なく六藤君がかわした。
体の動きに完全にはついてゆけず、一瞬だけ空中に取り残された肩掛け鞄も、
優雅な空中浮揚を楽しみながら刀を避けた。
 わたしには、どうやって六藤君が相手の攻撃をよけたのか、皆目見当がつ
かない。
 しかも、青竜刀うちの一本はわたしから三〇センチぐらいのところを通っ
た。武器という物が持つ、凶々しい圧力によって、その武器の威力の程がわ
たしにも判った。
 当たったら、死ぬぞ。これは。
 わたしはとっさにそう判断して、青くなりながらさっき一歩進み出た六藤
君の好判断に感謝した。あれがなかったら、わたしも青竜刀の範囲の中に巻
き込まれて、最初の一撃で死んでただろう。
 いったい、何が起こっているのか?
 混乱の中で、わたしは改めて自問した。
 学校帰りに・中華街の雑貨店の二階で・フクスケもどきの暴漢が・青竜刀
で襲いかかってきた。
 「何時何処で誰が何をした」風に答えを出してみると、こんな感じになる
だろうか?
 あまりのわけのわからなさに、一瞬吹き出しそうになったが、かろうじて
それだけは堪える。
 怖いのは、パニックになってしまうことなのだ。いまここで冷静な判断力
を失うような事にだけは、どうしてもなりたくない。
 笑ってしまったら、きっとわたしの中の何かが外れてしまって、そこから
立ち直れなくなってしまうだろう。
 だいたい、なんでこんな奴が目の前に居るんだろう。
 今の御時勢、コンビニにフルフェイスのヘルメットをかぶっての御入店も
御遠慮願うことになっている。それが、こんないかにも怪しい格好をした人
間が易々と入ってきているなんて。
 入ろうとしたとき、店の人間は止めようとはしなかったんだろうか?
 それとも、コンビニでもフルフェイスのヘルメットは駄目でも、お面だっ
たらいいとか……
 ううう。
 ダメだ、ダメだ。笑うのだけは絶対にダメだ。
 わたしは、六藤君が命がけで戦っているすぐ横で、必死になって笑いを堪
えるというあまりにも馬鹿々々しい忍耐を強いられる羽目になった。



   5.

 六藤君と三人のフクスケもどき達は、刻々と場所を変えながら立ち回って
いる。
 わたしも戦いを避けるようにじりじりと動いて、最初の場所から少しずつ
部屋の奥の方へと移動した。
 三人を相手にして、六藤君は防戦一方になってしまっている。
 フクスケもどき達が順番に繰り出してくる青竜刀をかわすので精いっぱい
らしく、どうも反撃する隙を見いだせないでいるようだ。
 わたしに取り付いた笑いの発作もそろそろ治まってきた。
 なにしろ、高価な物が次々と壊されてゆくのだ。もったいなさすぎて、笑っ
ているゆとりなんてない。
 六藤君は、商品の飾ってあるガラスケースを上手く使って、フクスケもど
き達の攻撃を避ける。すると、六藤君に当たらなかった刃は当然ガラスケー
スに当たるわけで、ついでに中に入っていた物が壊されてしまうと言う寸法
だ。
あああ。二〇万円のお皿が……
 まあ、フクスケもどき達も別に破壊を目的に刀を振るっているわけじゃな
い。だから、刀に直接殴られて壊れるのは大きな物が多い。大きな物という
のは、いきおい高値がついているものなので……
 ううっ、何だかよく判らない動物の形をした置物の首が飛んだ。かわいそ
うに……。
 無論、ガラスケースが壊れれば、そこに展示されていたものは下に落ちる。
もっとも、小さなものはそのもの自体の質量がないので、少し落下したぐら
いじゃ壊れない。散らばるガラスの破片にまみれて、未だ健在な品々も無い
ことはない。しかし、乱闘をしている本人達は下に落ちている物に気を配る
気も、またそうする余裕もないわけで……
 とほほ。せっかく可愛かった焼き物の七福神が踏みつぶされてしまった。
でもまぁ、これは六藤君が踏んでしまったので、不可抗力かな。

 乱闘が続けば続くほど、破壊活動は進んでゆく。
 ショウケースのガラス板は、不可逆的な変化により次々とガラス片となっ
てゆく。また、位置エネルギーを放棄した数々のガラス片と数々の品物が床
一面に広がり、このフロア=系は乱雑さを増してゆく。
 すでにこのフロアーのエントロピーは、かなり増大してしまっているのだ。
 しかし、不思議とわたしの周辺ではエントロピーは、それほど生成されて
いない。目の前の背丈より大きなショウケースのガラスが一枚とその中の棚
が不可逆的な変化とそれに伴う位置エネルギーの放棄をし、少し視界が良く
なっている程度だ。
 きっと、六藤君が気を使ってくれているのだろう。
 ありがとう六藤君。
 と、思う間もなく、六藤君が壁に追い込まれた。
 が、わたしがヤバイと思う以前に、するりと簡単にすり抜ける。フクスケ
もどきの青竜刀で、壁に掛かっていた虎の掛け軸が引き裂かれた。
 あ〜あ。あれだって、安い物じゃないだろうに……
 余計な所ばかり見ていたおかげで、わたしは随分余裕を取り戻した。
 だからといって、動きが早すぎるので加勢をしようにもできっこ無いのだ
が、見ているうちに妙なことに気がついた。
 フクスケもどき達は、二人以上いっぺんに刀を出すことをしていない。必
ず、誰か一人だけしか切りつけないのだ。
 そう思って観察していると、どうやらフクスケもどき達はわざとそうして
いるらしいということが判った。
 一緒に刀を繰り出そうとすると、どちらか一方が少し溜める。もっとも、
フクスケもどき達も六藤君に楽をさせてあげようという親切心で、そんなこ
とをしているわけではないだろう。
 六藤君は、一瞬の隙も無いフクスケもどき達の攻撃をよけるために、ひっ
きりなしに動き回らなければいけなくなってしまっているのだ。
 持久戦に持ち込むつもりだろうか?
 そうなれば三対一だ。普段は見せない超人的な能力を差し引いても、六藤
君の方が早く疲れることになるかもしれない。
 六藤君は、それを知ってか知らずか、順番に繰り出される刀を律儀に全て
よけていく。ダウンジャケットも肩掛け鞄も、六藤君の動きを邪魔はしてい
ないようだ。
 アドバイスをするべきなのかな?
 それとも気を散らさせるべきではないのかな?
 別の世界を見るような妙な冷静さで、そんなことを考えてるうちに、六藤
君と目が合った。
 どうやら六藤君には作戦があるらしい。
 目が合ったと同時に、口の端だけ曲げるというやり方で、不敵に微笑んだ。
 か……
 カッコ良すぎる。
 不意打ちにあったような衝撃を受けて、わたしは腰が砕けてしまい、横の
机に置いてある手ごろな大きさの壷に後ろ手をついた。
 やっぱ、六藤君は麗しいじゃないよな〜。
 枠だけのガラスケースの向こうで、フクスケもどき達と、六藤君の乱戦の
風景が見えている。でも、そこに意味を見いだせなくなってしまった。
 どっちかって言うと、凛々しいとか、敏捷なって方が似合ってる。
 次々と繰り出されるフクスケもどき達の斬撃を、きわどい間合いで六藤君
がよける。さっきから、延々と続いているその動きが、次第に激しい舞のよ
うに見えてきた。
 六藤君の動きは、それだけ的確で、無駄がないことが、改めて判る。
 綺麗だ、と思った。麗しいではなく、綺麗。
 しなやかで、なめらかな六藤君の動きは、綺麗と表現するのがぴったりな
気がする。テレビで見るような、野生動物の美しさ。それに、よく似ている。
 溢れ出る生命力の輝きというか、自然の与えた何者もが持つ生来の美しさ
というか。
 それに比べると、フクスケもどき達の動きは限りなく不自然で、不細工だ。
人工的なカチカチとした動きは、まるでロボットのようでさえある。
 わたしがすっかりそれに見とれていると、一対三の舞の風景に大きな変化
が起こった。
 六藤君が、回転しながら足を振り上げた。
 ガラスの破片のまき散らされた床から、幾条もの銀色の光が舞い上がり、
飛散する。
 六藤君を囲んでいたフクスケもどき達は、その銀の光条を足に受け、たち
まちひざまづく。
 必殺技だぁ。やっぱ、かっこいい。
 光条の行方を見守る六藤君の目が、わたしの上に留まった。六藤君の表情
が、一秒の一〇〇分の一にも満たないほどのわずかな時間だけ凍り付いて、
一気に青ざめる。
 また、目が合っちゃった。
 思わず、一瞬照れてしまったが、その意味に気がついて、はっと我に帰っ
た。
 六藤君の足が蹴り上げたガラス片の内のいくつかが、冷たい散弾となって
わたしに向かって飛んできているのだ。

          *     *     *           

 がっしゃ〜ん。
 目の前の巨大なショウケースに残されていた板ガラスが、派手な音を立て
ながら割れ、砕け落ちた。同時に、わたしの後ろにただひとつ無傷で残って
いたガラスケースも、バラバラと砕け散る。
 わたしの周りに、ガラスの破片が豪雨となって降り注いできた。
「きゃ〜」
 大して役にも立たない悲鳴を上げながら、壷と鞄を持ったまま頭を抱えて、
しゃがみ込んだ。
 ぶわっ。
 わたしの体の周りになにがしかの力が満ち溢れ、それに伴って強い風が卷
き起こる。
 がちゃがちゃとガラスが床に落ち、砕け散る音が集中的に鳴り響く。わた
しの後ろのガラスケースの、そのまた後ろのガラス窓も割れてしまったらし
く、遠くの方でガラスが砕け散る音が聞こえた。
 きゃ〜、という悲鳴が路上で上がる。
「……っ! 大丈夫か?」
 叫ぶように、六藤君がわたしの安否を気遣う。
 わたしの体は、どこにも痛みを感じていない。立ち上がって体中ををチェッ
クしてみるが、どこも傷ついていないようだ。
「大丈夫! 心配しないで!」
 わたしは、六藤君に叫び返す。
 大丈夫。気付かれなかったみたいだ。
 わたしは心の中で、そう思う。
 同時に、フクスケもどき達が立ち上がった。足をやられたぐらいでは、フ
クスケもどき達の戦意は消失しなかったようだ。
 これじゃ大丈夫も、拍子抜けだ。
 フクスケもどき達の執拗さに、半ば呆れながらわたしはそう思った。
 黒い服にどす黒いしみを広がらせながら、フクスケもどき達は必死になっ
て六藤君に立ち向かう。
 その上、今さらとも思うが、外の路地に騒ぎが起こってきている。
 やばいよ。見つかったら大変だ。
 いやいやいや。それよりも何よりも大変なのは、六藤君の顔から余裕が消
えた事だ。
 フクスケもどき達の攻撃は、怪我をしたことで還って激しくなった。さっ
きまでやっていた耐久作戦を、止めにしたのだ。
 それはそうだろう。流血しながら戦っているフクスケもどき達の方が、六
藤君より先に体力が切れてしまうのは必至だと言える。
 手負いのフクスケもどき達による、全力の攻撃を相手にせねばならなくなっ
たおかげで、六藤君にはより大きな集中力が要求されてくる。
 六藤君のとりあえずの作戦だったガラス撒き散らし攻撃も、封じられてし
まった。
「くっ」
 六藤君の顔に、焦りの色が浮かぶ。
「ええい、仕方ない!」
 六藤君が叫んだ。
 突如、その動きに剣呑なモノが宿る。
 一気に攻撃に転じた。
 がすっ。
 不意打ち気味の後ろ蹴りで、フクスケもどきの一人をいきなり吹き飛ばす。
そいつは、壁に叩きつけられて、くたっと萎れるように倒れ込む。
 それを見て、フクスケもどき達の動きが変わった。
 青竜刀を滅茶苦茶に振り回すようになる。
 そうすれば、武器を持たない六藤君は下手に攻撃できなくなってしまう。
無理に攻撃すれば、手や足を切り落とされる危険があるのだ。
 二人のフクスケもどき達の刀に追いたてられ、派手に移動しながら、六藤
君は攻撃の機会を窺う。
ばしっ。
 一瞬の隙をついて六藤君の足払いが、残る二人のフクスケもどきの一人に
決まる。
 そのフクスケもどきは派手に床の上をスライドして、自分達のまき散らし
たガラス片で、体中に切り傷を作る。
 ううっ、あれは痛い。
 わたしの体に寒気が走った。でも、同情する気はまったく無い。なにしろ、
相手は六藤君を殺そうとしているのだ。
 壁に叩きつけられたフクスケもどきが、意識を取り戻した。わたしからそ
いつまでの距離は、一〇メートルと言うところか。
 床を滑ったフクスケもどきは、もう戦闘不能だろうが、あいつはまだ戦え
る。
 最後の一人のフクスケもどきに集中している六藤君は、当然そいつの戦線
復帰には気がつかない。
 わたしなんかがそれに気がついたのは、偉大な岡目八目のおかげだろう。
 見ていると、そのフクスケもどきは、音を立てないように慎重に刀を握り
直した。
 六藤君が近づいてきたら、切りつける気だ。
 わたしにはそれが判った。間が悪くも、六藤君はそいつの方へとステップ
して行く。
「後ろ〜!」
 わたしは、ありったけの大声でそう叫んで、手に持っていた壷を盲滅法に
投げる。
 当然、壷はなんでもない方に飛んで行くのだが、わたしはありったけの集
中力を駆使して、壷が当たるように念じた。投げるときには気付かなかった
が、壷は重かった。下手をすると、ぶつけるどころか、届かないかも知れな
い。
 ちりちりちりちり。
 床にバラ撒かれたいくつものガラス片が、わたしの足元で涼しげな音を上
げる。どうやら、わたしの周りに猛烈な風が巻き起こっているようだ。
 すると、でたらめな方向に投げ出されたはずの壷は、常識ではありえない
ようなカーブを描いて、壁際のフクスケもどきの頭に当たった。
 ごいん。と、重い音を立てて、壷が割れる。
 壷を当てられたフクスケもどきは、せっかく握り直した青竜刀を再び手放
し、指先を痙攣させる。
 じゃん、と、ガラス片達が一斉に音を起てて、鳴り止んだ。わたしの周り
に吹いていた風も、同時に止まった。
 は……、ははは。
 わたしが、やっつけたらしい。


   6.

 風?
 亮の頭に、短い疑問符がよぎった。
 ぶん。
 一瞬前まで亮の体があったところを、最後のフクスケもどきの青竜刀が、
唸りを上げて通る。
いったい、何があったんだ?
 亮の頭に再び疑問が浮かぶ。
 フクスケもどきの凶刃を避けながら遼子の方へ視線を向けると、遼子は恥
入るような素振りを見せ、亮に微笑み混じりの視線を返す。
 あの風は、和倉さんが起こしたのか?
 亮は遼子の仕草を、そう解釈した。
 見られてはいけない能力を見られたから、バツが悪そうな仕草をし、照れ
笑いを浮かべているのだと。
 ならば、和倉遼子は運が良い。
なぜなら、俺は彼女を告発しないからだ。
フクスケもどきが振るう必殺の刃を軽々と避けながら、亮の考えは脇へと
逸れる。表には出ていないが確かに存在する圧倒的な実力差が、油断をする
ことは許されないとは言え、それだけの余裕を亮に持たせているのだ。
 窓の外の騒ぎが、確実に大きくなってきている。
 先程からの亮の焦りの中心は、そこにあった。
 早くケリをつけなければ。
 この場に警察の介入を許してしまえば、亮自身の超人的能力の存在が公に
なってしまう。
 かと言って、遼子に対して全力を出し切った姿を見せるのは、どうしても
避けたい。
 亮が遼子の超常能力を口外しなかったとしても、遼子は亮の超人的能力を
口外しないとは限らないからだ。
 亮は遼子に対して、まさしく囚人のジレンマに陥っていると言っても良い。
 ゲーム理論上、囚人のジレンマのゲームでは、融和的作戦を採りつつ場合
に応じて相手に復讐するのがもっとも効果的であるとされている。
 ただしその有効性は、複数を相手に致命的でないゲームを繰り返し行うと
いう条件の元でしか発揮されない。
 この場合、ゲームは一度切りしかない。しかも、負けたら致命的である。
 危険は犯せない。
ならば遼子に見せる能力は、《凄い人間》としてシラを切り通せるぐらい
に抑えておくべきなのだ。亮は遼子を敵ではないと見極めたが、これから先
も味方であり続けるとは断定できない。
 亮にとっては、未だ情報量が少なすぎて、なにか判断を下せるまでに状況
が熟していないのだ。
 残念なことに亮は、遼子の二年間の沈黙の事実とその動機を、知らない。

          *     *     *           

 また、六藤君と目が合っちゃった。
いやいやいや、そんなお呑気な事で感動している場合ではない。
 六藤君が、最後のフクスケもどきに手を出せないでいる。
 やっぱり最後に残ったのは、強敵なんだろうか?
六藤く〜ん。がんばって〜。
 わたしは心の中で必死に応援した。わたしにできる事と言ったら、それぐ
らいの事しかない。
 さっきの壷が当たったのは、おそらく超能力の働きだったんだろうが、はっ
きり言ってマグレだ。
 いままでにわたしの力があんなに遠くまで届いたことはないし、この先あ
るとも限らない。
 少なくとも、手助けのためにいきなり他の物を飛ばすわけにも行かないだ
ろう。そのこと自体が、六藤君の邪魔になってしまうかも知れないから。
 ざわざわざわ。
窓の外で、騒ぎが大きくなってきている。
「きゃ〜! あれは〜っ!」
 野次馬達の声に耳を澄ますと、間もなく女の人の硬質な悲鳴が耳に入って
きた。
 その悲鳴に触発されてか、窓の外の騒ぎが一層大きいものになる。雰囲気
を察すると、興味の対象が別の所に移ったようでもある。
 外の人達に顔を見られるわけには行かないから、窓から顔を出して覗く事
まではできない。でも、そっちの方を見るだけならできる。どうせ、何も見
えないとは、思うけど。
 わたしは、六藤君達の戦いから一瞬だけ目を離して、ちらりと窓の方を向
いた。
 街灯に照らされた、暖色系の原色で鮮やかに彩られた町並みが見える。狭
い路地にはそれほど大きくはないものの、人だかりができてしまっている。
 あらら。まずいよ。どうやって逃げようか。
 ちらっと、そんなことが頭に浮かんだ。

          *     *     *           

 ぶわっ。
 何か大きな物が空気を勢いよく押し退けるような音が聞こえた。それと同
時に、窓の外の視界が、黒い何かで遮られてしまう。
 何?
 疑問を持つことができたのは、一瞬だった。
 窓の外に突然発生した(ように見える)、その黒い何かは、窓を通して室
内に侵食してきた。
 それによって、窓の外への視界が回復した。
 つまり、室内に黒い塊が入ってきたのだ。
 その黒い塊が、もぞもぞと蠢いた。
 《それ》は、辛うじて人の形をしているように見える。筋肉らしきものが
発達しすぎていて、人間らしいプロポーションを大幅に損ねてしまっている
のだ。
 プロレスラーを極端にデフォルメしたマンガを、忠実に立体化したらこう
いう形になるのだろうか?
 可愛らしくもなんともないが、ぬいぐるみのような非現実感がありありと
漂う。
「こゾウ。オトナシク、俺ニツイテ来イ」
 黒い塊が、六藤君に向かって声をかける。
「…………!」
 フクスケもどきの一人の攻撃を未だに避け続けている六藤君の顔が、《そ
れ》を見てこわばった。
「生きて……、いたのか」   
六藤君が、押し殺したような声を辛うじて洩らした。その六藤君の苦悩に
歪む顔面に、最後のフクスケもどきが鋭い突きを入れる。
 ああ、六藤君がやられる〜。
 と、思ったのも束の間、首を少しだけ動かして、六藤君はその刃を避けた。
「ソウダ、死ンデイナイ。ダガ、戻ラナカッタ。オ前ハ知ッテイルハズダ、
ドウスレバ戻レルノカヲ。俺ニソレヲ、教エロ」
 《それ》の声は日本語を喋ってはいるのだが、明らかにどこか不自然だ。
 喋り声に喉から洩れる空気の音が重なって、何か発声器官の異なる動物が
人間の言葉を無理に喋らされているかのようだ。
 あまりの不自然さが、聞く者に不快感をもたらす。
 六藤君が答えないでいると、唐突に《それ》の目が私の方を向く。
 スキーマスクに隠されて、ほとんど見えないはずの目が、どす黒い色に光っ
たように見えた。
 あ。私の方、見てる。
 そういえば、無視され続けてたんで、私は彼らから見えないような気がし
てたんだけど、良く考えてみればそんなことがあるわけが無い。
 単に、眼中に無かっただけだった。
《それ》は、私に近づいてきた。
 私は超能力を総動員して《それ》を近づけまいとする。
 しかし、わたしの周りに卷き起こった風は、さっき壷を投げたときほどに
はならない。
「いや〜っ。来るな〜っ!」
 必死になって超能力を振り絞ろうとしても、風の勢いは一定のままだ。今
日の分の超能力は、さっきので品切れになってしまったのかもしれない。
 必死の抵抗も虚しく、わたしは拉致されてしまった。殴ろうが何をしよう
が《それ》はびくともせず、軽々とわたしを持ち上げ、荷物か何かのように
脇に抱えた。
「コイツハ、預カッテオク。無事ニ返シテモライタケレバ、俺ニツイテコイ」
 《それ》の小脇に抱えられてしまいながらも、わたしは果敢に抵抗した。
手足を闇雲に振るわせながら、超能力を使って《それ》の顎の辺りをぐいぐ
い押す。
 でも、やっぱりなんの効果も無い。
 わたしのささやかな抵抗なんか全く気にせずに、《それ》は割れてしまっ
たガラス窓から外へと飛び出した。
 無我夢中で体を縮めて鞄を盾にしたおかげで、窓ガラスの割れ残りで手足
に傷が付く事はなかったが、風に舞っていた膝丈のスカートが鈎裂けてしまっ
た。
 あう〜、制服が破けちゃったよう。明日は、学校に何を着ていけばいいん
だ。
 明日まで果たして無事でいられるのかも判らないのに、いささか暴走気味
の日常感覚は、わたしはそんなことを考えさせた。
 《それ》はわたしを抱えたままジュースの自動販売機を踏み台にして、大
きくジャンプをした。
 当然の事ながら、窓の中の乱闘の様子が見えなくなる。
 《それ》は、そのまま斜め向かいのビルの三階の、開け放たれた窓へと向
かう。
 わたしを抱えた《それ》が雑貨屋の窓から飛び出したために、路上の野次
馬達が更に大きなざわめきを上げた。
 しかし、あまりにも常軌を逸した移動をしたため、《それ》とわたしの方
を確実に目で追えている人は居ない。
 上昇していく最中に、一瞬だけ窓の中の様子が見えた。 
 六藤君が、フクスケもどきの最後の一人を、振り向きざまの鞄の勢いで殴
り倒している。六藤君はあっちを向いてしまっているので、今度は目が合う
ことはなかった。
 あ〜あ。残念。
 余計な落胆をすると同時に、野次馬達に自分の顔を見られたらまずいこと
に気がついて、手に持った鞄で野次馬の方から顔を隠した。
 遠ざかる窓の中から、吹き飛ばされたフクスケもどきが吐き出された。フ
クスケもどきはナイロン製のひさしに落ちて、店の前に滑り落ちる。
「何処に行った!」
 一足遅れて、フクスケもどきのお面を被った六藤君が、怒号と共に窓の外
に顔を出した。
 せっかくの美貌をお面で隠してしまうのは、いかにも勿体無い気がする。
でも、六藤君だって顔を見られるわけには行かないんだ。贅沢を言ってる暇
がなかったんだろう。
 六藤君は、お面をかぶったままできょろきょろと下の路地を見回してから、
一気に飛び降りる。
 完全に窓の中に入ってしまった《それ》とわたしの姿は、六藤君には見え
ていなかったようだ。
「むと……、ぐえ」
 わたしは大きな声を出して、注意を引きつけようとしたが、わたしを掴む
《それ》の手に、更なる力が加わった。
 体を締め付ける抗い難い圧力のせいで、わたしは声を上げるどころではな
くなってしまう。
 まあ、でも、あの場から逃げる心配だけは、しなくても良くなったな。
 《それ》に抱えられたまま奥の部屋に入り、完全に外が見えなくなってか
ら、わたしはそれだけ思った。
 そのあと、数瞬 経ってから、わたしはやっと理解した。
 六藤君は、わたしと《それ》を見失ってしまったのだ……
 どうしよう。
 遅れてきた恐怖と混乱が、静かにそしてゆっくりと、わたしの中に浸透し
ていった。