Precious Blood 後編
作・ひで



   プロローグ

 派手な装飾と彩やかな朱にいろどられた町の中を、一〇人ほどの大学生の
一団が、人混みに揉まれながらも楽しげに歩いている。
 もうすでに、空はすっかり暗い。
 毒々しい程までにきらびやかな中華街の町並みが、随所に存在する明かり
に照らし出されて、妖しい艶やかさを醸し出している。
「えーと、どっち行けばいいんだっけ?」
 一団の中の一人が、あちこち見回しながら頼りなげな口調で呟いた。
「えー、Tさん地元だから中華街ならオッケーって言ってたのにー」
「いや、あの……、うわっ、何だ、あいつ」
「ダメですよ、話を逸らそうとしたって。それより、何処なんですか、目的
地は」
「えー、でも、お面かぶった高校生が走ってるんだぜ」
「どうでもいいじゃないですか。それより、目印とか無いんですか?」
「んー。中華街小路っていう道があるはずなんだけど……。あーあ、行っち
ゃった」
 高校生らしい少年が、お面をかぶったままで人混みの中を駆け抜けていっ
た方を、多少名残惜しげに見ながら、Tは多少ながら心の隅に既視感に似た
ものを感じた。
 再び進み始めた一団の中から「遅れますよー」と、声をかけられ、Tは慌
てて現実に駆け戻って行く。
 軽く謝罪を口にしながら、集団の中に戻ったときには、Tの頭からは今の
感覚はすっかり立ち去っていってしまっていた。



   1.

 何処だ。何処に行った。
 お面の少年、すなわち六藤亮は、いまだ人出の多い中華街の中をあてども
無く駆けずり回りながら、《それ》と《それ》に捕らえられた和倉遼子を探
している。
 そもそも、亮にはあの二人を追いかける積極的な理由は何もないのだ。。
 遼子は亮を勝手に追跡して、その余波でトラブルに巻き込まれたのだから、
その責めは彼女自身が負わなければいけないはずだ。
 それに、あの場ではとりあえず信頼をしたが、遼子が何者なのかについて
はまだ判らない。
 このまま見捨ててしまうべきなのか……。
 いや、違う。
 遼子には、命の借りがあるのだ。あの時の壁際の男の動きには、亮は気付
いていなかった。刀で切られてどうなるのかは判らないが、無事では済まな
かったことだけは確かだろう。
 遼子が何者かであったとしても、見捨ててしまうのでは、命の恩人に対し
てあまりにも酷い報いだ。あるいは、遼子は何者でもないかもしれないので
ある……。
 迷いながらも、亮は捜索の手をゆるめない。
 もし、遼子を助けるのならば、早い方がいいに決まっているからだ。
 シュレーディンガーの猫は箱を開けてみるまで無事かどうかは判らないが、
猫を殺したくないなら早いうちに箱を開けた方が良いに決まっている。あと
になって、さっさと箱を開けなかったことを後悔したくはない。
 このような態度自体が、すでに亮の意思を映し出しているようなものだ。
 しかし、亮はそのことに気付かないでいる。

 中華街は狭い。
 これだけかけずり回って、何処にもそれらしい騒ぎは起こっていなかった。
 もし、《それ》が現れたら、なにがしかの騒ぎが起こっているはずだ。
 つまり、《それ》は窓から出た後、中華街を歩いてはいないということに
なるのだろうか?
「やつは、建物の、中なのか?」
 いくら狭いとはいえ、建物は少なくない。
 それを全部調べ上げるのは、不可能に近い。
 ならばどうすればいい。
 亮の頭に何かが閃 きかけたが、明確な形を取る前に消えた。
 くそっ、どうすればいいんだ。
 何も思いつかないのならば仕方がない、亮にできることは、徹底的な捜索
があるのみだった。

        *        *        *

 さ、……寒い。
 正真正明、心の底から寒いのである。
 なぜなら、ビルの屋上にいるから。
 ただでさえ冬の夜空の下は息も凍るほどだというのに、港から来る海風と
ビルを吹き抜けて上に向かう風とが混じり合って、骨身にしみる極寒の冷気
を味あわせてくれる。
 寒いからと言っても、屋内に入っていくことさえできない。
 ロープで後ろ手に縛られてしまっている上に、パイプにくくり付けられて
しまっているからだ。その上、わたしのそばには、《それ》が居る。
 これはちょっと、どうにもならない。
 まあまあ、わたしの超能力でロープはなんとかなるとしても、《それ》か
ら逃げるのは無理だろうと思う。
 もしくは、助けを求めるために大きな声を出したところで、《それ》に力
づくで黙らされてしまうのがオチだろう。
 更に、ここは八階建てぐらいの大きなビルの上だから、大きな声を出した
ところで誰かに気付いてもらえるような気もしない。
 今の状態で自力脱出を考える事は、夢と同じぐらいの意味しかないと思う。
 いやいやいや、とりあえず、当面の問題は寒いことだ。
 どういう理由でだったか忘れてしまったけど、今朝コートを着ないで学校
に出てしまったのが敗因だ。
 屋上の吹きっさらしで監禁されると判っていたら、きっと何かを着てたろ
うに。
 その上、せっかくのスカートにも穴が開いてしまっている。
 まあまあ、人様にお見せするほどのものでもないけど、太股が見えてしま
うのは仕方がない(嫌だけど)としよう。
 でも、そのせいで寒いのは許せない。
 だいたい、なんで制服はスカートなんだろう。男子の穿いてる長ズボンが、
冬になるとどれだけ羨ましく感じられることか。
 これは絶対、差別だと思う。
 女子の中にも、ただでさえ短いスカートを、更に短くしている奴までいる。
 見てるこっちの方が寒いから、やめろっつーの。上半身にコートを着よう
がセーター着ようが、下半身すかすかだったら、意味半減だと思うんだけど。
 いやいやいや。こんな事こそどうでもいい。
 とりあえず、わたしは待遇改善を要求するために、《それ》に声をかけて
みることにした。
「寒いよ。なんとかならないの」
 《それ》は、あらぬ方を見ていたのだが、わたしの声に反応してこっちを
向いた。
「なランナ」
 《それ》の吐き出す声は、やはり不気味な音だ。
 風が鳴る音。嵐の夜に吹きすさぶ、眠れなくなるような不安をかきたてる
音、それによく似ている。
 わたしは、こみ上げてくる根元的な恐怖を押し殺しながら、必死で言いつ
のった。
「だって、こんな所に居ても仕方がないでしょう。六藤君は、私たちのこと
見失ったみたいだし。場所の指定もしていないのに」
「大丈夫ダ。ココニ来レルノハ、俺カ小僧ダケダ」
 だからといって、来るとは限らない。
 さっきから、何回かこんなやりとりをした。
 だいたい、六藤君に対してわたしの身柄が人質として成立するのかという
時点で、もう怪しい。
 その上、手がかりがないのである。
 わたしには来るとは思えない。
 やっぱり、機会を待って自力で脱出するしかないようだ。
 でも、寒さを何とかしないと、待ってるうちに凍え死ぬような気がする……


   2.

「こんな所に座り込まないで下さいよ」
 中華街の一角にある小さな児童公園で、若いサラリーマンが連れのもう一
人を揺さぶっている姿が、何故か亮の目に止まった。
「そう、慌てるなよ。人生に焦らなくちゃいけない時なんて、そうそうある
もんじゃないぜ」
 今の俺は、まさに焦るべき時だ。
 亮の頭にそんな考えがよぎった。
「なに言ってるんですか。もう冬だっていうのに、背広一枚きりでこんな所
で寝込んだら凍死しますよ」
「寝やしないよ。《それ》より見ろよ、あの月。美しいじゃないか。太陽の
光が月面に反射して、俺達の上に降り注いでるんだ。考えてみれば雄大な景
色さ。人間のちっぽけさを……」
 男の言葉はまだ続いていたようだったが、早足で通り過ぎたため、亮の耳
にはそこまでしか届かなかった。
「月か……」
 酔っぱらいの戯言などに感銘を受けたわけでもないが、やみくもに走り回
って熱くなりすぎた頭を冷やすために、亮は月を見上げた。
 路上の亮からは、ビルの屋上にのっかっているような形で月が見える。
 ……!
 亮の頭に、閃光が走った。
 屋上だ。
 屋根の上ならば、誰にも見つからずに移動できる。しかも、ビルの中を縫
って移動するよりも格段に早い。
 遅すぎたかも知れない。
 いや、あれは俺についてこいと言っていた。
 だったら、待ってるかもしれない。
 亮は、手近のビルの非常階段に駆け寄った。
 顔を覆うかぶり面を脱ぎ捨て、一気に階段を上って行く。
 《それ》と和倉遼子が、逃げ去ってしまっていないことを祈りながら。

        *        *        *

 月が、綺麗だな。
 わたしは、すっかり暗くなってしまっている夜空を見上げながら、後ろ手
のロープを解く努力をしている。
 縛られてしまっているので、手は使えないけど、わたしには有効な武器が
ある。
 超能力だ。
 力は強くないから引きちぎるなんて芸当は無理だけど、何処を緩めればい
いのかを指先の触覚で確認しながら、力を加える。
 さしあたっての時間はあるから、気は楽だ。
 ゆっくりやればいい。
 作業をしながら、できるだけ月のことを考えるようにした。
 向こうに見えるマリンタワーとベイブリッジの光も、それなりに美しいけ
ど、やっぱり月の放つ青白くて黄色い光の神秘的な輝きには一歩も二歩も及
ばない。
 星はほとんど見えない。曇っているからではない。周りが、明るすぎるか
らだ。
 実際、空は良く晴れている。
 一片の曇りもないと言ってもいいほどだ。
 夜晴れたときの次の朝は、寒いことになっている。学校の地学の時間に習
った、放射冷却というやつだ。
 今も寒いけど、明日の朝はもっと寒くなるのか。
 ……
 ああ、せっかく忘れようとしていたのに、また寒いのを思い出してしまっ
た。
 ロープはまだ解けない。きっと、寒いのがいけないんだろう。
 空の馬鹿ヤロー!
 晴れた夜空なんて、大嫌いだ。


  3.

 屋上に上がった亮が見た景色は、限られた彼の経験にはないものだった。
 それぞれの建物の高さが均一でないため、ぼこぼこと平坦でない地面(?)
が一面に広がり、街路を彩る明るい光と、賑やかな喧噪がビルの谷間に反響
した不気味な唸り声が、地を分ける裂け目から上がってくる。
 空に浮かぶ満月と、更に高いビルのネオンサインから降り注ぐ淡い光が、
不安のない程度に足元を照らしてくれている。
 地獄≠ニいうものがもし在るならば、こんな景色なのかもしれない。そ
う、思わせるような凶々しい雰囲気が、その景色にはあった。
「星も、満足に見えないんだな」
 急ぐ時であるべきなのに、亮の頭にはこんな思いがわずかに浮かんだ。
 街の享楽の上に在り続けている、この意外な地獄の風景が、亮に瞬間とは
いえこんな事を考えさせたのかも知れない。
「高いところに、向かうか……」
《それ》と遼子を探すためには、見晴らしの良い場所に行く必要がある。
 まわりを取り囲むのは、ホテルやオフィスビルばかりなので、中華街とい
うところは、ビルの屋上平面で考えると盆地になっている。
 大通りに面していない、七階建てぐらいのビルがある。一階あたりの床面
積はそう広くないようだが、ここら辺りではそのビルが一番高い。
 亮はそのビルに、目を付けた。
「場所的には、関帝廟の裏ぐらいか?」
 いま居るはずの場所と辺りの様子から、亮はビルの場所の目星を付けた。
 だんっ。
 亮は、無造作にジャンプした。
 同じ高さの隣のビルの屋上には、それでも余裕で到達できる。
 そこから少しづつ加速をして、ビルの屋上を飛び石代わりにそのビルへと
近づいて行く。
 ビルとビルの間には、だいたい人一人が通れる程度の隙間があるし、それ
ぞれのビルで高さも違う。
 亮はその上を手摺やエアコンの室外器を踏み台にしながら、いとも簡単に
進んで行く。
 薄暗い闇を飛び回る緑色の影。
 街の上部に人知れず存在する地獄に、それは似つかわしい色取りを添える
事になった。

        *        *        *

「ムッ」
 《それ》が、ふゅるふゅる言う音とともに、唸り声を上げた。
 何度聞いても嫌な音だ、この世のモノとは思えない、非現実的な凄味があ
る。
 《それ》はマリンタワーの方に、何かを見つけたようだ。
 やおら屋上の欄干に上って、私に何の断りもなく姿を消す。
 このビルは、どうやら付近では一番高いらしくて、座った姿勢で縛り付け
られてる私には、欄干の部分が邪魔で他のビルの様子はわからない。
 六藤君が助けに来てくれたんだ。
 瞬間、そんな考えが浮かんだが、あわててそれを打ち消す。
 いやいやいや、それではちょっと虫が良すぎるってもんだ。
 まぁ、六藤君がわたしのことを助けに来てくれたにしてもそうでないにし
ても、とりあえずあれがこの場にいないことは、わたしにとってのチャンス
だ。
 さっさとロープをほどいて、この場から逃げ出さなくては。
 ……と、簡単に言ってみても、それが難しいんだよなぁ。
 一人で愚痴っていても虚しいだけなので、わたしはロープを解く努力を再
開した。



   4.

 亮が目的のビルにたどりつくためには、大きな裂け目を跳び越えなければ
いけない。
 地面の側から見れば、その裂け目とは、一車線半程度の道である。
 取り立てて幅の広い道ではないが、他の所はビルとビルの隙間は人一人が
やっと通れるようなモノばかりなので、それなりに障害として意識される。
 彼の超人的な運動能力からすれば、その程度の跳躍はまるでたやすく行え
るのだが、踏切のタイミングなどには、やはりの集中を要した。
 亮の注意が前方からそれたのは、ほんの半瞬にも満たない時間だった。
その半瞬後、亮が踏み切り終わって前方に注意を戻したときには、市街地
の中途半端な暗闇の中に暗黒色に身を固めた人影が現れていた。
 《それ》は、亮の行く手を遮るように、道路に面した欄干の上に立ってい
る。
「……っく!」
 相手の存在の確認による安堵と、不意を撃たれた狼狽から、舌打ちともう
めき声とも取れるような音を、亮の喉は鳴らした。
 もう跳んでしまっているので、いまさら進路変更はできない。体格差があ
るので、圧倒的に不利な接近戦に持ち込まれることになるが、いまさらどう
しようもない。
亮は、とりあえず転落を回避するために、《それ》にしがみつこうとした。
 が、《それ》は亮にしがみつくことを許さなかった。
 亮が目前に迫ると、《それ》は欄干上で体をかわした。
 そして、ジャンプする亮の後を追って来る肩掛けカバンの紐を掴んだ。
 進路上の障害が自ら去り、安全な着地を目前にした亮に急制動がかかる。
 《それ》は、片手一本で、亮の体重とスピードを支えきっただけでなく、
その紐をオーバースローの要領で振り回した。カバンの紐は亮の体重と遠心
力に耐えきれなくなり、ちぎれてしまい、亮の身体は放り出された。
 屋上の、無い側へと。

        *        *        *

「あー、いい月だな」
 Tは、空を見上げながら言った。
 一通り食事をした後、会計を他の者に任せて、一足先に路上に出てきてい
るのだ。
 彼の言うとおり、今日の月は綺麗だった。
 空気が澄んでいるのか、輪郭まではっきりと見える、蒼みがかった満月だ。
 Tは狭い空に浮かぶ月を見上げながら、大きく息を吸い込み、伸びをした。
 四川風の辛目の食事と、わずかのアルコールで暖まった身体に、冬場の冷
たい空気が沁み通るようで心地よい。
月を見上げるTの視線を、何かが横切った。
 Tが瞬きをして見直すと、それは小柄な人影であった。
 人影は、道路(の上空)を横切り、向かいのビルの壁面に叩き付けられた。
そこで少しだけ跳ね返り、壁づたいに落下する。
 そして、Tが出て来た食堂の軒先にあるナイロン製の大きな庇 の上へと落
下してくる。
 無論そんな物が、いくら小柄だとはいえ人間の体重と落下に伴う運動エネ
ルギーを支えきれるわけがない。
「あ、ぶなっ……」
 Tは言語未満のうめき声を口から漏らし、庇を突き抜け来る人影の方に手
を伸ばそうとする。
 しかし、時すでに遅く、Tのさしのべた腕は間に合わなかった。
 アスファルトに人体がぶつかる、湿った大音声が響いた。
「あちゃあ」
 まるでマンガのような独り言を口にして、Tは天を仰いだ。半径一.五m
以内に人間が落ちてくるのは、Tのそう長くない人生ですでに二度目だ。
 なんで俺だけこんな目に遭うんだろう。
 せんないことを考えているとは思いながらも、Tの頭にはこのようなフレー
ズが浮かんだ。
 あーあ……
「よお、兄ちゃん。久しぶり」
 ため息を付くTの足元から、Tに呼びかける声がした。
「は?」
 Tは、落ちてきた人物の方に視線を向けた。
 そこには、二年前、彼の背後に落ちてきたのと同じ顔があったのだ。
「……君か。また、どうして上から落ちてきたん……」
 Tは、安堵のため息を漏らしながら、亮に話しかけた。しかし、気の急い
ている亮は「まあね。でも、急いでるから、また今度」などと言い捨て、手
近のビルの屋外の階段へと駆け出した。
「Tさん! 凄い音がしましたけど、何があったんですか?」
Tの連れ達が、会計を済ませて店員と一緒に店から出てきた。
「いや、上から少年が落ちてきたんだけど……」


   5.

 ほどけた。やっとほどけた。
そう、私を縛り付けていたロープがやっとほどけたのだ。
 とりあえず、わたしはビルの端の方に駆けつけた。あれが見ていた方に、
だ。
 寒い、というのはこの際に最も気になることではなくなった。(解けたん
だから、死にそうだと思ってから暖を取りに行けばいい)
 一番気になるのは、何が起こっているのか、ということだ。
 ついさっき、大きな音が聞こえた。
 交通事故の音かと思ったけど、それにしては音が大きかったような気がす
るし、音もそれとは違うように聞こえた(って、交通事故の音を聞いたこと
はないけど)
 考えられる線としては、……この際やっぱり六藤君だろう。
 なんか、大変な希望的観測だって気もするが、ここは一つ乙女の勘という
ことで、他の可能性には、わたしの頭の中からお引きとり願うことにする。
わたしが顔を出すと、目下に《それ》が見えた。長細いビルの上に立って
いる。
 やばい、と思って咄嗟に身を隠そうと思ったが、目の端に映ったモノのた
めにその動きも鈍った。
 隣のビルから飛び移る、緑色の影。
 そう、六藤君だ。
六藤君は《それ》と一定の距離を置いて対峙した。とりあえず、いきなり
殴り合いを始めると言うことはないようだ。
 そりゃそうか、マンガじゃないんだし……
 六藤君と《それ》は、どうやら何かを話し始めたようだ。
 わたしからは二〇メートルぐらい離れているので断片的にしか聞き取れな
いのが残念だ。まあでも、そんな贅沢を言ってる場合ではないのか……
 ここは、耳を皿のようにして聞くのが前向きな対応というモノだ。
 六藤君が何て言ってるかも気にかかるし……
 いやいやいや、わたしとしてはなんでこんな事になっているかが気にかか
るのだ。
 でも、ここにいるって事はやっぱ六藤君はわたしのことを助けに来てくれ
る気があるって事だと考えられないこともない。
 というわけで、屋上の壁から頭だけを出して、耳をパラボラアンテナにし
て聞き耳を立てようと思ったその矢先、わたしの耳に怒鳴り声が飛び込んで
きた。
「彼女を、どこへやった!」
 む……六藤君の声だぁ。
 助けに来てくれたんだぁ。
 ずるずるずる、ぺた。
 力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
あまりの幸福感で、目の前がバラ色に染まり切ってしまう。
 わざわざ助けに来てくれるなんて、六藤君たらどうして? から始まって、
思いきりわたしだけに都合のいい妄想がバラ色の視界の中に見え隠れする。
 マンガだったら、きっとわたしの目はハートマークになってた事だろう。
 いやいやいや、ここは妄想に浸っている場合じゃない。第一、男女平等の
この世の中では、さらわれて王子様に助け出されるのを漫然と待つ様な女は、
男女差別が無くならない要因の一つであるはずだ。
ここはしっかり盗み聞きして、六藤君をサポートする役に回らなければ。
 と言うわけで、ふたたび壁の上から頭だけ出して、聞き耳を立て始めた。
 まあ、主義主張はともかくとして、王子様に助けて貰うのはそれはそれで
猛烈に嬉しいなぁ、などと思いながらだが。

        *        *        *

「彼女を、どこへやった!」
 亮は、自分の声が予想外に大きかったことに、自ら驚きを感じていた。
が、それは目下の重要事項ではない。目の前の敵、《それ》と渡り合うこ
とだけに心を向けなければ……
 亮は、そう自戒する。
「あノ娘ノ居場所ガ知りタケレば、オれノ体ヲ元ニモドせ」
 《それ》の声からは、感情を聞き取ることはできない。
 しかし、《それ》が感じているのは、荒れ狂うような激しい怒りである。
 いまや、《それ》は声の調子で微妙な感情を表すことができるほどの、人
間らしさを持ってはいないのだ。
 そして、その事実が《それ》を更なる怒りへと掻き立てる。
「……、俺は、知らない」
「嘘ヲツくナ! オ前ハ知ッテイルハずダ!」
 亮が事実を語ろうとも、《それ》は聞き入れる様子がない。しかしそれも、
ある意味では、当然のことだろう。
 《それ》を今のようなモノにした当事者は、すでにこの世を去ってしまっ
ている。そして、亮の他に手がかりはないのだ。
「本当に、知らないんだ」
「ウルサイ! 嘘ヲツくな!」
 《それ》はそう叫んで、亮へと猛烈な突撃をかける。
 衝突の瞬間、亮はふわりと身を沈めた。
 そして、《それ》の足下をすくい上げ、全身のバネを使って体を伸び上が
らせた。
 《それ》の体が、宙へと浮かぶ。
 猛突進の勢いと、亮が上へすくい上げたその力によって、《それ》の体は
放物線を描きながら、建物の屋上から遠ざかって行く。
 ぐわしゃん!
 瓦の割れる派手な音が、辺りに響きわたる。
 和倉さんを探さなくては。
 亮は、後ろを確かめることもせずに、短い助走をして、隣のビルへと跳び
移る。
 跳躍の最中、ちらっと視線を移すと、大穴の空いた関帝廟の瓦屋根が見え
た。屋根の穴からおぼろげに見える光から推定すると、どうもちょうど廟の
核心部分に落ちたようだ。
 まずい事したかな。
 亮は、頭に浮かんだその考えを振り払って、目的地のビルを見定めた。
 そして、そのビルは、遼子が居るところでもある。

        *        *        *

 きゃー、きゃー。
 六藤君がこっちに向かってくる。
 きゃー、どうしよう。
 わたしは心の中で、思わずそう叫んでしまった。
 ほとんどサル化して、きゃーきゃー叫んでいても事態が変わるわけではな
く(変わって欲しいわけでは、断じてないが)、六藤君は、どんどんこっち
へと迫ってくる。
 やっぱり、あれからわたしの場所を聞き出してこっちに来てるんだろうか。
 ……すごい嬉しい。
 ヤバい、吹きっさらしになってたから、髪の毛がぐちゃぐちゃだ。
 いやいやいや、それどころじゃない。スカートが切れてて、太股が見えて
るんだ。こんなトコ、見られたくない。
 様々な事柄が頭をよぎるが、六藤君は刻々と近づいてくる。
 わたしはなぜか後ずさって、最初に縛り付けられていた場所に大急ぎで戻
った。

        *        *        *

 目的地の屋上で、何かが動いた。
 先ほどの教訓を生かし、前方注意を怠らずにいた亮に、警戒信号が鳴り響
く。
 あそこには、何がある?
 とっさに、亮の頭には、そんな疑問が浮かんだ。
 しかし、亮の連続的な跳躍には、すでに勢いが付きすぎていた。
 いまさらの方向転換は、体勢を崩しての落下にさえつながりかねない。
 行くしかないのか。
 反射的にそう判断して、亮は最後の跳躍をした。

「……和倉……、さん?」
 コンクリート製の欄干に華麗に降り立った六藤君が、わたしの方を見てい
ぶかしげに声をかけてくる。
 壁に張り付いたわたしは、スカートを手で押さえながら、無言でこくこく
頷いた。
 つもりだったが、首の振りが大きすぎたので、どちらかというとガクガク
という風に見えたかもしれない。
「よかった。ここに居たんだ」
「う……、ん」
 月明かりに照らされた六藤君の顔が何も表情を動かさないので、真意を測
りかねて上目遣いで頷 いた。
「……何か、されなかった?」
「ううん。ちょっと、縛り付けられてただけ。でも、自力で抜け出せたし」
 今度は首を横に振って、頭を掻きながら「へへ」と、軽く笑ってみせる。
 六藤君の視線が、わたしのスカートの辺りに注がれた。そして、赤くなり
ながら、絶句する。
 あ、スカートか。
 何も、赤くなるほどのモンじゃなかろうに。
 見られるのはヤだったが、見られてしまったら、別になんてことはない。
考えてみれば、ショートパンツでも穿いていれば、当たり前で見えてしまう
部分だ。(ま、実生活では、あまり穿くモンじゃないが……)
 そんなことを思いはしたが、六藤君が気の毒なので、とりあえず破れた部
分を隠して、再び顔を上げると、こっちを見つめる六藤君の後ろに、夜空よ
りも一層暗い大きな塊が見えた。
「後ろ!」
 わたしが叫び声をあげると、六藤君は後ろを確認するまでもなく直ちに察
して、斜め前方に跳びよけた。
 どぐわ。
 と、異常な音を立てて、六藤君がさっきまで居た欄干が、崩壊する。
 その破壊を巻き起こしたのは、もちろん《それ》だった。


   6.

「さア、小僧。おシエロ」
 ふゅるふゅるいう、不愉快な音を同時に発しながら、《それ》が六藤君に
向かって喋る。
「知らない、と言ってるだろう!」
 六藤君は叫び声で答えを返す。
何を、だろう?
 《それ》は、六藤君の答を聞き、わたしの方へと目を向ける。
 スキーマスクに隠れていて顔は見えないはずなのだが、わたしはその時《それ》の顔に
邪な笑みが浮かんだように見えた。
「ほホウ。小娘。タイしタ物ダ。自力デ抜ケ出しタノカ」
 《それ》はそう言ってから、足下の礫塊を一つ拾い上げた。
「さア、小僧。おシエロ。さモナイトコノ小娘が、死ヌゾ」
 さっきまで欄干の一部だった物が、わたしの方に向かって凄いスピードで
飛んで来る。
 がいん!
 その礫塊は、わたしに、当たらなかった。
 その代わりに、凄い音を立ててわたしのすぐわきのドアと壁の境目に当た
り、壁の一部と共に粉々になって砕け落ちた。
 金属製のドアがへし曲がり、ちょうつがいが歪む。
「次ハ、当タるカモしレンナ」
 そう言って、《それ》は新たにもう一つ瓦礫の一部を拾い上げた。
「……知らないんだ。本当だ。だから……、頼むから、彼女には何もしない
でくれ」
 彼女だって……。へへへ。
 わたしがよけいな感懐を抱いていると、《それ》は、再び礫塊を投げつけ
た。
 わたしに向けて。
 がん。
 今度は、さっきと反対わきの、わたしの頭のすぐ横に命中した。
 悲鳴を上げる余裕さえなかった。
 わたしの周りに、ほんの少しだけ風が起こったが、その軌道を変えた形跡
はない。
 重すぎて、速すぎるのだ。
 わたしの微々たる力では、どうにもならない。
 わたしは、くたくたとその場に座り込んでしまう。涙も、出てきてしまっ
た。
 怖いし、自分が情けない。
 でも、泣き出すのだけはどうにか耐えて、《それ》を睨み返す。
 それが、わたしにできる精いっぱいの抵抗だ。
「さア、言エ。オ前ノ血≠消し去る方法を。オ前のこの呪われたキュ……」
「やめろ!」
 《それ》の言葉に、六藤君の怒号が割り込む。
 そのせいで、《それ》の言葉が途中で遮られてしまう。
 《それ》の頭が、少しだけ動く。
 六藤君の顔に、露骨な後悔の色が浮かんだ。
「ほホウ。おモシロイナ、小娘ニ聞カレタクナイのカ」
 《それ》の声に含まれている、空気の音がさらに多くなって、ただでさえ
聞き取りにくい声が、もっと聞き難くなった。
 もしかしたら、笑っているのかもしれない。
 その、あまりに異質な感情表現に、わたしは吐き気さえする思いになった。
「小娘、オしエテヤロウ。コノ小僧ハナ……」
 《それ》の言葉に、一瞬ためが入る。
 六藤君の表情が、さらに険しくなった。
 が、今度は《それ》の言葉を邪魔しなかった。
「コノ小僧ハナ……、吸血鬼ナノダ」


   7.

 《それ》が、勝ち誇ったように宣言する。
 六藤君は、完全に打ちのめされた様子で、わたしの顔色をうかがう。
 が、わたしにしてみれば、「あらそうだったのね」てなモンである。
 だいたいそれを言うなら、わたしだって超能力者だ。それに、《それ》だ
って、もはや人間とは言えないだろう。
 奇しくも、この場所には正常な人間が一人も居ないわけだ。だったら、今
の異常な状況も何となく理解できる。
 まあ、吸血鬼というタンビーな世界がお似合いになる存在だってのは、新
たな発見ではあるが。
いまさらながら、この場に似合わない自分の考えに、ちょっとした笑いが
漏れた。
 わたしの表情を見て、《それ》が一瞬ひるんだ。
 意外、だったのかもしれない。
 六藤君は、《それ》にできた一瞬の隙を見逃さなかった。
 ダッシュして、《それ》に突撃する。
「和倉さん。逃げて!」
 走り出すと同時に、わたしに向かってそう叫んだ。
 《それ》は、手に持っていた礫塊を、反射的に六藤君に放った。
 六藤君は飛んできた礫塊を、身を縮めただけで、こともなげに避ける。さ
すがにこの辺は、わたしとは違う。
 そして、《それ》の体にまともにぶち当たった。
 しかし、《それ》がダメージを受けた様子はない。体の大きさが違いすぎ
るのだ。
 わたしは、六藤君の指示に従って、その場を離れようとする。
 が、ひしゃげてしまったドアは、開かなくなっていた。これでは逃げられ
ない。出入口はここだけなのだ。
 《それ》は、自らの懐 へ入り込んできた六藤君を捕まえ、横面を殴りつ
けた。
 殴られた六藤君は、その反動で吹き飛ばされ、コンクリート製の壁に激突
した。
 並の人間ならば、その殴打だけで簡単に死に至っただろうが、さすがは不
死身の吸血鬼だけあって、六藤君は立ち上がった。
 殴られた部分がへこみ、口から盛大に血が流れている。
 せっかくの美形が台無しだ。
 いやいやいや、この際美形はどうでもいい。重要なのは、腫れてるんじゃ
なくて、へこんでるのが不気味だって事で……。
 いやいやいや、これもどうでもいい。ホントに重要なのは、六藤君が殴ら
れたってところだ。
 立ち上がったはいいモノの、足許はどこかおぼつかない。
 さっきベソをかきかけたのは何処へやら、六藤君を傷つけた《それ》に、
わたしはホンキで怒りを憶えた。
 まるで、緊迫した場面に合わせたかのように、ビルの谷間を吹き抜ける風
が、「ひゅおおおおおん」と、不気味に唸った。

        *        *        *

 《それ》と、六藤君との戦いは、壮絶なモノだった。戦いは、明らかに六
藤君のペースで運んでいる。
 つかみ合いになれば明らかに不利なはずの六藤君は、《それ》がつかみか
かってくるのをするすると避け、合間あいまにパンチだのキックだのを炸裂
させる。
 しかし、《それ》の分厚い肉の鎧に阻まれて、有効なダメージを与えるこ
とができない。
 ときたま、《それ》の攻撃が何かの拍子で六藤君に当たってしまい、その
度に六藤君の体は吹き飛ばされる。
 六藤君のペースなのだが、不利なのも六藤君なのだ。いわゆる、ジリ貧と
いう奴だ。
 もう何度目になるか分からない六藤君の攻撃の後に、《それ》のたった何
回目かの一撃が命中した。
 そして、また六藤君の体が吹き飛ばされた。
 六藤君の体は床を滑って行き、緑色のダウンジャケットが擦り切れ、細か
い羽毛がバラバラとこぼれた。
 先ほどの唸りを上げるほどの風はどこへやら、今はほとんど無風と言って
いい状態だ。

 まき散らされた羽毛が、その場にとどまり続けている。
 そして《それ》は、今度は六藤君に掴み掛かりに、行かなかった。
 代わりに、足下の瓦礫を六藤君に向かって蹴り付ける。
 意外な攻撃に、六藤君の顔がひきつった。
 すんでの所で、《それ》を避ける。
 六藤君は、その反動を利用して、一気に立ち上がった。
 どこかに引っかかっていたのか、ダウンジャケットの破れ目はさらに広が
り、まき散らされる羽毛の量も大幅に増えた。
 《それ》は、立ち上がった六藤君に対して、さらに瓦礫を蹴り付けた。
 しかも、いくつも一遍に。
 さっきの六藤君(まだ、二時間も前の事じゃないのに、かなり昔のことの
ような気がする)の、真似だ。
 わたしはとっさにそう思ったが、そんな非難を浴びせてみても、どうにか
なるモノではない。
 六藤君は、飛び来るその瓦礫の破片を、必死で避ける。
 しかし、《それ》の攻撃はそこで終わりではない。
 《それ》自身が、その瓦礫の散弾の後を追って、六藤君に迫って行くのだ。
 瓦礫を避けきった六藤君に、体勢を立て直す隙を与えずに、最後の一撃を
加えようというつもりなんだろう。
 おそらくは、致命的な一撃を……
間の悪いことに、足下に飛んできた瓦礫の一つを避けきれずに、六藤君は
転倒してしまった。
 ぶわっ。
 絶体絶命のピンチに際して、わたしの周りに例の風が巻き起こった。
 しかし、いまさら遅すぎる。
 それに、力が弱すぎる。
 わたしのそんな考えとは別に、わたしの周りに吹き狂う風は、あっという
間に大きくなった。
 風は、六藤君の周囲にまで及んで、散らばっていた羽毛を一気に巻き上げ
る。
 そして羽毛でできた白い霧が、六藤君の姿を隠した。
「いいぞ! 和倉!」
 六藤君が歓声を上げる。
 そして、羽毛の霧の中へと突撃していった《それ》が、上へと放り投げら
れたのだった。


   8.

 闇に浮き上がる白濁した渦巻きから、濃紺の夜空に向かって、暗黒色の
《それ》が打ち上げられた。
 何が起こったは、考えるまでもない。
 目隠しを利用して、亮が投げ上げたのだ。
 転倒という形で運動エネルギーを放棄した亮は、それなりの努力でどちら
の方向へとも動けたのに対し、《それ》は前進していたことで自らの動きに
制約を課していた。
 また、静寂をも利用できた亮に対して、《それ》は激しい足音をも伴って
いた。
 また、羽毛の霧の中心であった亮に対して、《それ》は外から霧へと突っ
込んでいかなければならなかった。
 つまり、《それ》が亮を見失ってしまったのに対し、亮は《それ》を見失
わずにすんだ。
 そして、再び、投げ上げたのだ。
 今まで、《それ》の最大の利点であった《それ》自身の体重が、今度は重
大な弱点へと変わる。
 落下時に食らう衝撃は、質量に比例し、着地面に反比例するのだ。
 人間の体は立体だから、体積の増加に対して表面積の増加は(一概には言
えないとはいえ)立方分の平方である。
 つまり、体が大きく重いほど、落下によって受けるダメージは大きいとい
うことなのだ。
 しかし、亮の目論見には大きな誤算があった。
 《それ》を投げる方向が、上すぎたのだ。
 亮は《それ》を、ビルの屋上から完全に投げ出したつもりでいた。
 このまま行っても、確かに落下点はビルの外になるだろう。
 しかし、手を伸ばせばとどく範囲である。
 《それ》は、放物線の頂点を過ぎ、落ち始め、そしてそのことに気が付い
た。
 《それ》が、ビルの方へと手を伸ばそうとした、その時。
「もう、いやー!」
 遼子の、悲鳴にも似た叫び声が響いた。
 先ほど以上の、猛烈な風が吹き荒れる。
 落ちつきかけた羽毛が、またしても風に吹きつけられ、再び巻き上がる。
 しかし、《それ》の周囲は、風が及んでいないかのようだ。宙に舞うダウ
ンジャケットの白い羽毛が、《それ》の周辺には届かず、一歩手前で停滞す
る。
 また、もし風がとどいたとしても、《それ》の持つ余りにも大きな質量を
充分にビルから遠ざけるには、遼子の起こした風のみでは、あまりにも力及
ばない。
 《それ》は一人、他の誰にも理解されないやり方でほくそ笑み、さらに手
を伸ばそうとする。
 しかし、できなかった。
空中に、見えない壁が忽然とあらわれたように、《それ》の指先は何者か
に阻まれて進むことができない。
 その壁は、風の巻き上げる羽毛がそこからは近づかないと言う場所だった。
 《それ》の持つ、非常識なまでの膂力を渾身に振り絞っても、壁を貫くこ
とはできなかった。
 《それ》に残された道は、一つだけしかない。
 地上へと、落ちる道しか……

        *        *        *

「もう、大丈夫、なの?」
 《それ》の落ちて行く姿を見きわめてから、わたしは六藤君にそう問いか
けた。
 考えてみれば、変なセリフのような気もするが、他に思いつかないので、
しょうがない。
「それは……、わからない」
 六藤君は、わたしの言葉を理解してくれたらしく、適切な答えを返してく
れる。
「あれは、さっきも落下したけど、無事だった。今度は、さっきよりも高い
ところからだけど……」
 そう言って、六藤君はひときわ大きな瓦礫を拾い上げた。
 トドメをさすために、なんだろう。
 それを持ち上げる六藤君の顔は暗い。
 勝利に対する喜び、のようなモノは、とうてい感じられない。
 それは、わたしも同様だ。
 どこか悲しいような気持ちで、六藤君の行動を見守る。
 屋上の端まで行った六藤君が下を見下ろして、瓦礫を横に落とした。
「どうしたの?」
「もう、必要ないんだ……」
 目を伏せて、六藤君が言った。
 わたしも確認をするために、六藤君の隣へと歩いて行く。
 呆然としているのか、六藤君は何も言わない。
 六藤君のわきまで来て、わたしは視線を地上へと下ろす。
「見ない方がいい!」
 わたしの動きに気が付いて、俯いたままの六藤君が射すような声で言った。
 が、もう遅い。
 わたしは見てしまった。
 ビルの谷間の暗闇に、ひときわ暗い部分があることを。
 《それ》は弓なりに体を反らせ、電信柱に串刺しになっていたのだ。



   9.

 ビルの屋上からは、六藤君に抱きかかえられて下りてきた。横向きに抱か
れたわたしが六藤君の首に手を回すという恰好、いわゆる「お姫さまだっこ」
だった。
 多感な少女時代を過ごしたことがある人間ならば、憧れないわけはないと
いう、あの伝説のだっこである。
 なんとなくわたしも憧れていないわけではなかったが、その時は嬉しくな
かった。
 色々あったことの後味が悪すぎて、感覚が麻痺していたのだ。ああ、もっ
たいない。
 これから一生、ないかも知れないのに……
 まあ、いいや。後で思い出して、一人の時にでも喜べば。
「和倉……、さん。ごめんね、なんか」
「え? 六藤君が、謝ることじゃないよ……」
「そう? 怒ってないんだ。……よかった」
 わたしのスカートが切れてしまっているので、人通りの少ない繁華街の裏
道をとぼとぼと歩きながら、駅に向かっている。
 わたしも六藤君もなにか気まずい雰囲気で、口数も少なくなってしまう。
「六藤君て、……吸血鬼だったんだね」
 なにか話していたくて、わたしはついこんな事を言ってしまった。
「うん、そうなんだ。……怖い?」
「ぜーんぜん。だって、わたしも超能力者だもん。人のことは、言えないよ」
「ああ……、やっぱ、そうなんだ」
「うん。それにね、わたし。ホントは六藤君のこと、ちょっと知ってたんだ。
二年前から」
「え……?」
 わたしの言葉で、六藤君は驚いたようだった。少し目を見開いて、わたし
の顔をじっと見る。
 な……、なんか恥ずかしい。
 このままじゃ、顔が赤くなってしまう。なんか喋らないと。
「でもね、聞けなかったんだ。わたしも後ろぐらいトコあるから、そういう
の人から聞かれたくないだろう……」
 ここまで言ったところで、六藤君が突然笑い出した。お腹を抱えるように
して笑っている。
 げ、笑うか?
「笑わないでよぅ。せっかく、人が正直に言ってるのに」
「違う違う。和倉さんが言ったことがおかしかったんじゃないんだ。ちょっ
と、自分のことがね……。そっか、和倉さん知ってたんだ。そうか、そうか」
 六藤君は、下を向いて、一人でにやにやし始める。
「えー? なんでなんで? なにがおかしかったの?」
「いや、ホント、なんでもないんだ。そっか、長年の謎が解けたって感じだ
よ。二年前って事は……、ランドマーク?」
「うん、そうだけど」
「なんだー。じゃあ、あのとき助けてくれればよかったのに」
「だって、六藤君、さっさと行っちゃうし」
 わたしと六藤君の間にあった緊張感が、少しだけ解けた。
 よかった。こんな事でも笑って話せるんだ。
 いつかは、今日のことも笑って話せる日が来るかも知れない。
 このことが嬉しくて、わたしも笑った。
 このとき、六藤君の肩に黒い手が置かれるのが、横目に見えた。

「小僧。……今度コ、ソ……、逃ガ、さンゾ」
 その声は、《それ》のモノだった。
 空気音が混ざった異様なその声に、さらに湿ったような音が混じっている。
とぎれとぎれに聞こえるのは、きっと腹に空いた大穴のせいなんだろう。
 背後に感じる、その圧倒的な存在感のせいで、わたしは振り向くことさえ
もできない。
 六藤君の肩に置かれた手には、ものすごい力がかかっているのが感じだけ
でわかる。同じだけの力がわたしにかけられたら、きっと潰されてしまうだ
ろう。
「血<_。貴様ノ血<茶コセ。ソレさエアレバ……」
 上の方で、なにか布の音が聞こえた。
 そして、わたしと六藤君の肩の間に、丸い塊のようなモノが割り込んでく
る。
 《それ》の、頭だろう。
 わたしは、息を飲み込んで、かろうじて向けていた横目を、前に戻してし
まった。
 ぶちっと、何かを噛みきるような音がして、ごくごくと《それ》の喉が鳴
る。
 六藤君は、何も言わないし、動かない。
 肩の上にあった丸いモノが後ろに下がって、最後にごくんと言う音が聞こ
えた。
「……あウ、ウッ! ひゅるるるグ。ガ」
 《それ》の口から出る声が、さらに異様さを増す。もうすでに、声と言う
よりは、音にしか聞こえない。
 それとともに、背後にあった圧力が、一気にその力を失った。
 わたしは反射的に、後ろを向こうとした。
「ダメだ!」
 六藤君がそう叫んで、わたしの後頭部を鷲掴みにした。そして、わたしの
頭は六藤君の胸に押さえつけられた。
 ああ、これはこれで幸せかも……。
 わたしは、反射的にそんなことを思った。こんな緊張した瞬間に、我なが
ら何を考えてるんだか……
「もう、見ちゃダメだ」
 六藤君の声が、とてもやさしい。
 頭を持っていた手が、わたしの肩にまわされた。
「……うん」
 背後では大きく「ばしゃ」と、水風船が割れたときのような音がした。



   エピローグ

「りょーこ。おはよっ!」
 新しいスカートを穿いて、校門の坂を上がっていると、香織が声をかけて
きた。
「あ、香織ちゃん。おはよう」
「りょーこ、昨日来なかったね。なんかあったの?」
「う……、うん。別に、ないけど」
 さすがに、昨日は学校を休んでしまった。
 精神的な復帰が、できなかったのだ。
 それとは別に、スカートが無かったという理由も、あるにはあったが。
「ふーん。ま、いっか。そういえばさ、昨日……」
 香織がここまで言ったところで、坂の上に六藤君と友達が見えた。
「和倉! おはよう!」
 六藤君が、わたしに向かって手を振る。
「おはよー!」
 わたしも、手を振り返した。
「あら? 六藤くんが、遼子ちゃんを呼び捨てにしている……」
「あ・や・し・い・な」
 どこから現れたのか、綾さんと美佳が、いつのまにか居る。
「おとといまでは、声も掛け合わなかった二人が、今日は呼び捨て。ああ、
六藤くんの心は、すでに遼子ちゃんのモノなのね」
 綾さんが、劇がかった口調でそう言いながら、ハンカチを取り出して目頭
を押さえる。
「昨日さー、六藤くんも休みだったんだよねー」
「ふたり一緒にお休みなんて、いやーんな感じ」
 香織の言葉に、美佳がすぐさま合いの手を入れる。
 おい。あんたらみんな、目が笑ってるぞ。
「いや、ホントに、何でだろうね? 昨日は一日、家にいたし」
 しらばっくれてみたが、どうだろう? とにかく、昨日家に居たのは本当
だし。
「ばっくれても無駄だぞ、りょーこ。さあ、言え。言うんだ」
「きいっ。すでに六藤様のお心には、この女が住んでいるのね。くやしいっ」
「りょーこちゃんのお家に、あっくんが行ったの? りょーこちゃん家って、
共働きだっけ?」
 だから、目が笑ってるぞ、あんたら。
 三人それぞれ、わたしをからかいはじめた。
 綾さんなんて、ご丁寧にハンカチの端っこを咬んで、引っ張ったりしてい
る。しかも、目が笑ってるので説得力がない。
 こうなってくると、もう手の付けようがない。
「ほら、馬鹿なことやってると、遅刻するよ」
 わたしはそう言って、すたすた歩き始めた。
 六藤くん。わたしのこと和倉って言ってたな。おとといは、和倉さんだっ
たのに。
 いやいやいや、同志愛だよね。やっぱ。
 歩きながら、顔がどうしても笑ってしまう。