襲撃 1

  第一章




 いつの間にか声が嗄れてしまいそうなくらい喉が渇いていた。 別にカラカラだとか言
うのではなくて、喉のどこかが霜焼けで裂けているみたいに、痛い。
「一体何だって言うんだ」
 そう言うのも精一杯で、ぼくはそれきり口を噤んでしまった。
 ちっと舌打ちすると微かに余韻が残る。ぼくは空気が澱んでいることに気がついた。重
い。それに湿っぽい。下を向くと、さっき落とした舌打ちがまだ残っているような気がし
て、内心いやな気分になってくる。
 自分でばらまいたものだろうに。
 自虐的に笑うと、ぼくは足で煙草をもみ消すみたいに何度も靴を地面にこすりつけた。
それが何の意味もないことを忘れて、黙々と続けていた。
 滑稽だった。
 ふう、とため息がひとつでた。



 何か忘れているような気がした。
 ここで何かとても大事なことをしなければならなかったのに、思い出せない。何をしよ
うとしていたんだ、ぼくは。
 無理することはない。思い出せないなら、思い出すまで待つしかない。
 何故だろう、不思議と、まだ時間はあると思った。

 なんとなくぐるりと辺りを見回してみる。
 眼前に広がっていた風景は、非日常的という点を除けば、十分にまっとうなものだった。
少なくともおかしなものではない。でも無性にこわいという感じがした。はっと息を呑む
とかそういう感覚とはまた違う、それでもぞっとさせられるものがそこにあった。どこが
はっきりとおかしいとかそういうのは一切ないのに、とにかくいびつな空間だなと思った。
 ちゃんと手を伸ばせば触れる所にあるはずなのに、それらははっきりとした輪郭を数秒
ととどめていない。輪郭のひとつひとつにもやがかかってしまったように、目に入るもの
はすべて歪んで不明瞭だった。
 明瞭なものが何一つないというのはかなりの重圧を伴う。一瞬ぼくは周りにあるものす
べてにのしかかられ、押し潰されてしまうような錯覚を覚えた。喉が詰まってすごく息苦
しい。
 声を上げる間もなくそれはさざ波のように引いていった。

 頭を巡らせて真っ先に目に飛び込んできたのは、一つの看板と、一つの注意書きだった。
どちらもひどく色褪せて、ペンキも剥がれかけていたが、辛うじて読むことはできる。
 汚れた黄色い看板には緑色(それはもうすでにヘドロ色とも黒とも言っても構わなかっ
たろうが)の字でこう書いてあった。

『園内での御喫煙はご遠慮下さい』

 そして注意書きの方は白地に青い字で

『中の動物に餌をやらないで下さい』

 とあった。
 その向こうに見えたのはがらんどうの檻のようだった。

 いや、違った。

 近づいて訝しげに覗き込んでみると、コンクリートでできた枠のかなり下の方で、小さ
くニャアという鳴き声がした。
 目を凝らしてみると、中には三毛猫(のようなもの)が三匹ばかり、思い思いの格好で
ゴロリと横になって転がっていた。
 ぼくが立っている所から大体二メートルくらい下に底がある。枠は一周四十メートルく
らいの円形の壁になって猫たちをぐるりと囲んでいた。その枠の中にひっくりかえしたプ
リンみたいな形の黒い鉄の檻が立てられていた。
 猫たちは時々思い出したように億劫げに起き、十歩も歩かないでまた転がるということ
を繰り返していた。
 中に、どこかかゆいのか、しきりに床のコンクリートに背中をこすりつけているのが一
匹いた。それはとてももどかしげで、みているこちらまでかゆくなってきそうだった。
「何なんだここは」
 無意識の内に背中に手を回しながら、つい声に出してしまった。ぼくははっとして、ま
だ喋ろうとする口を手で押さえ込んだ。少し遅れて、どこかが少し裂けた感触。
 喉がまた痛くなってきた。
 ゴホンゴホンと咳をしてみたが、やはり痛いだけだった。喉飴でもあればよかったのに。

 ちょうど、盛大にかゆいかゆいをしていた猫と目が合った。
 ぼくは恨みがかった目できっと睨みつけた。そのときの形相がよほど不機嫌だったのか、
そいつはぴたりと動くのをやめた。
 実際は動きを止めたと言うよりもむしろ硬直したというのに近いように見えた。ひょっ
としたら人と目を合わすのが嫌なのかな、とちらっと思ったきり、ぼくは気にしないこと
にした。
 硬直するのが趣味なのかもしれないからだ。
 別に動物園に対人恐怖症の猫がいたっておかしくはない。
 ぼくは、もう少し彼らをみていることにした。

 猫があくびをしたりとかじゃれあったりとか摂食したりとか追いかけっこしたりとか眠
ったりするのとか排便するのとか、ゴロリと横になるのをぼうっと上の空で眺めながら、
どうやらここは動物園らしいぞということが何となく飲み込めてきた。
 実のところを言えば、ぼくを曖昧にそう結論づけさせたのは、猫それ自体よりもむしろ
たった三匹入れておくには少し大袈裟すぎる檻と、用意されたように整然と置かれている
餌と、その場にある病的な雰囲気と、毛の混じった空気のようなものと、動物の集まる匂
いに近い何かだった。
 今ぼくがいる所が動物園だということだけはわかった。
 そして同時に何もわからなくなった。
 何故ただの三毛猫なんかがこんな大仰な檻の中にいるのか。
 ひょっとしたら彼らは世界にもう数匹しかいない特別な猫なのかも知れない。でもぼく
にはどう見ても近所の路地裏でゴミ箱を倒して餌を漁り、発情期になれば気味の悪いダミ
声で鳴きながら真夜中に相手を求めてさまよっているそこらへんの野良猫と変わりがない、
あの三毛猫としか思えなかった。とすれば、やはり彼らは普通の三毛猫ということになる。
 そうではないのか。
「いや、どう見ても三毛猫だ」
 ぼくは喉が痛むのにも構わず、声に出して言った。
 そうしないとちょっと不安だったからだ。
 それでもそれを保証してくれるものは何もない。何しろここには肯定してくれる人もい
なければ、この猫が何なのか書かれた札もない(忌ま忌ましいことに作りだけは大仰なこ
の檻には文字で書かれたものは一切つけられていなかった)。
 とにかく明瞭なものはどこにもなかった。
 ぼくにも、猫にも、檻にも、この動物園(らしきもの)にも、すべて。
 足元で猫のどれかがニャアと鳴いた。



 どれくらいそこにいたのかよく覚えていない。しばらくすると彼らを見るのにも飽きて
きて、ぼくは他の檻を探しに行くことにした。ただ、その檻がどこにあるのかぼくにはわ
からなかった。探そうにも近くには特別案内板らしきものはなかった。たしかに動物園な
んだから、どこかに向かって歩いていけば檻にだってぶつかるのだろうが、さっと目を巡
らせてみたところでそれらしきものは見えない。
 よくよく見てみるとどこまでが園内で、どこからが外なのかすら区別がつかない(何と
いうか、そこには敷地の境界を示す柵らしきものが見当たらなかった)ような気がして、
ぼくは気が遠くなってきた。
 それはもう、とても曖昧すぎた。
 他の檻に行こうと思ったのは、特別何かを期待していたわけではない。猫の他にどんな
動物がいるのか興味が無いわけでもなかったし、この動物園を回ってみれば何か思い出せ
るかもしれないと思ったからだ。それは確信というほど強いものでもなく、どこか予感め
いた何かドキドキするような感覚というのに近い、「何か変」的な気分だった。でも少な
くとも、「ここ」で、「何か」を「しなくてはならない」と思っているということは、何か
ないわけがないはずだ。ということだけが確信としてぼくの中にあって、それがまたすべ
ての大義名分の元締めだった。ぼくは髪の毛をいじりながら、誰にも聞こえないように小
さくそっとため息をついた。周りに誰かいたわけではないけれど、ため息はいつでも人目
を憚ってやるべきものなのだ。
 風が吹いてきて、どこかで獣の遠吠えが聞こえた。



 とりあえず歩いてみることにした。
 やはり何かが解るかもしれないと意味もなく思っているうちに、少し歩いてみようとい
う気が湧いた。意味もなく、というのがいい。



 さっきからしばらく歩き回っているうちに、足が重くなり、動かす度にすねのあたりに
軽い痛みが走るようになっていた。
 でも我慢しようと思えばそれほど気になるものでもない。痛いと言ってもほんの少しだ
し、まだまだ平気だ。ぼくは構わずに歩き続けた。
 どのみち立ち止まっていても、気色悪くて退屈で不明瞭でいつ果てるともないこの風景
が僕を圧倒して、何かをやろうという気を萎えさせてしまうだけだ。本当は単に一人で立
ち尽くしているのが嫌だというのかもしれないが。
 この際どっちかなんて気にすることはない。

 空の檻ばかり続く園内をとぼとぼと歩き続け、ぼくはくたびれて、そばにあったベンチ
に腰かけた。
 時計はなかった。時間感覚も飛んでいた。別にどうでもいいような気もしたが、何とな
くどのくらい歩いていたのか知りたい気もした。歩いてきた道も漠然としていて、来た道
をその通りに戻れるかどうかも疑問だった。ベンチに座ってしまうと、来た方向も曖昧に
なっていた。ものを考えていると、胸の奥からどろどろした液体のようにイライラが込み
上げてきて、いまいち落ち着かなかった。どこか特定の部分ではなく、全身がこそばゆく
なってきて、うわーっとぼくはバリバリと音がしそうなくらい大仰に頭をかきむしった。
 空は相変わらずいやな色の雲がオブラートみたいに一面を覆っていて薄暗く、やわらか
いを通り越して、もはや弱々しい光がどうにか差し込むばかりだった。
 鳥も飛んでいない。
 ただ、雲しかなかった。
 ぼくはベンチに腰掛けたまま、ぼうっと何をするでもなく目を動かしていた。何もいな
かったし、何かいるとも思えなかったが、それでもぼくは何かを探しているみたいにキョ
ロキョロと目を動かし続けた。それだって、視界に入ってくるのは相変わらずの檻と木と
コンクリートの道と薄く伸びた灰色の雲ばかりで、特別の変化があるわけじゃない。何か
を見るというよりもただ眺めるというのに近いものだった。
 わりあい強い風が何度か頬を撫でていった。
 風は相変わらず重くて、生ぬるい。しかも砂が混じっていた。 三度目までは漠然と数
えて、後は吹くに任せている。来た道の向こうの方でゴミだか葉だかよくわからないもの
がかさかさと音を立てて舞っているようだった。
 遠くてよく見えない。その音だけが聞こえた。
 それから十何度目かの風が通り過ぎた後、ぼくは二、三度頬を払ってから、やれやれと
小さく呟いて立ち上がった。

 がらんどうの檻を五つ、ガリガリに痩せた犬が二匹放り込まれている檻をひとつ抜けて、
左に曲がった所でふと顔を上げると、『管理事務所』と書かれた扉が百メートルくらい先
の方に見えた。このままずっと歩き続けているよりは途方に暮れなくていいかもしれない
と思って、ぼくはのろのろと身体を向けると、重い足取りで管理事務所に歩きだした。無
意識のうちに喉に手をやってやんわりとさすっていた。

 管理事務所は草地の真ん中にポツンと立っていた。草地、と言っても芝生のように上等
なものじゃなく、ただの雑草が生えているだけだ。しかし、雑草でもそれがきれいに刈り
込んであって、整然と風に揺れていると、一種不気味なものを感じる。不気味、と言うよ
りもむしろ病的な何か。趣味の悪い画家の描いたひどくリアルな絵のようだった。
 さすがに少しどうしようか迷う。しかし他にどうしようもなかった。腹を決めて、ぼく
はえいやっと草地に足を踏み込んだ。
 一歩一歩踏み付ける度に足跡が整然とした雑草の秩序を乱していく。手入れされた芝生
(らしきもの)には、ぼくの見たこともないような草ばかりが生えていた。
「またたび……」
 ぼくが知っているのはこれくらいしかなかった。