襲撃 2


  第二章




 ぼくは今、一九九〇年の六月一三日にいて、自分の部屋でテレビを見ながら小説を読ん
でいる。
 ぼくはテレビを見るのは好きではないが小説を読むのは好きだ。好きでもないのにテレ
ビをつけているのは、テレビの音は不思議とぼくの頭を空っぽにしてくれるからだ。頭を
空にするといろいろなものが見えてくるし、余計なことを考えないですむ。雑念というほ
どのものではないが、そういったものを取っ払うと、だんだんとからだの芯がすうっと冷
たくなってくる。とても気持ちがいい。
 頭を空っぽにして、小説を読んだり物事を考えたりといった頭を使う作業をするのをぼ
くは好んだ。

 一度誰かにこの話をしたことがある。
 この話を聞くと、彼(もしくは彼女?)はわけがわからないという顔をして、ぼくの目
を検分するみたいに覗き込んだ挙げ句に呆れたような冷めたような、感情がないまぜにな
ったちぐはぐな表情を浮かべた。そういうわけのわからない表情には馴れていた。ぼくは
何も言わなかった。ただ、向かいの席の愉快な顔を眺めるともなしに見ていた。
 しばらく彼(もしくは彼女)は沈黙し、ことばを選ぶように少し遠慮がちに口を開けた。
ぼくの視線を避け(ぼくだってまともに眺めていたわけではないのに)、反応を伺うよう
な目をして彼(もしくは彼女)はテレビよりもラジオの方がまだ経済的なんじゃないかと
言った。
 ぼくはなるほどと思って、早速帰って試してみたものの、結局だめだった。ラジオのよ
うに音声だけだとどうしても雑然としてしまい、音がだんだんノイズになってくる。そう
なると空っぽになるよりも頭が一杯になってかえって辟易した。どうやらあの視界の隅に
ちらつく微妙な光加減がどうしても必要なのらしい。
 よくわからないまま、ぼくはまた、テレビをつけて小説を読むことを再開した。



 ぼくの部屋には冷蔵庫とテレビと箪笥と本棚くらいしかない。 あと電話があるがこれ
はほとんど鳴らない。ぼくもほとんど使わないからどこかにやってしまってもいいのだが、
あると便利だからという理由で電話はぼくの部屋に居座り続け、そのためにぼくは毎月せ
っせと電話料金を払っている。
 他には何もない。板張りの床にはカーペットもないし、カーテンだって備え付けの薄い
ものしかない。でもぼくにはそれで十分だった。
 六月にしては、六月一三日という日はひどく暑かった。何だか知らないがいつまでも梅
雨に入らず、だらだらと春の陽気ばかりが暑くなってきて、世の中狂っていると日に何度
もぼくに呟かせるくらい六月一三日はおかしな日だった。
 ぼくは大学へ行っていて、世間では二流大学と言われている学校の文学部の学生だった。
たいして目的があったわけでもなく、半ば浪人するのがいやで来たような所だった。
 ぼくはお世辞にも勤勉な学生をしているわけではなかった。別にバイトに明け暮れて授
業に出ないとかそういうのでもなかったが、それでも授業に出ていないことだけは確かだ。
まともに顔を出しているのは英語の授業くらいだった。
 大学に行ってもどこかに座ってぼうっとしていることの方が多かった。一人でいること
が好きだというわけではなくて、一人でいてもほとんど苦痛ではないと言った方がいいし、
その方が聞こえもよかった。ただ、そういう安直な生活態度のおかげで、気づいてみると
周りにはろくに人間がいなかった。

 いまさら勘定しなくても、ぼくの周りに人はいなかったが、それでも全くゼロというわ
けではなかった。
 限りなくゼロに近い知人の中に、植村という男がいた。彼はひょんなことで知り合った
法学部生だった。
 おかしな男だった。
 出会って初めのことばが「変な奴だ」だった。初対面でここまで言う奴も珍しいと、ぼ
くは腹を立てるよりも先に感心してしまった記憶がある。
 植村に初めて会ったのは、二限目の授業をサボって学生喫茶で誰だったかは忘れたが、
それなりに有名だったはずの作家の書いた小説を目を細めて読んでいたときだった。
「何を読んでるんだ」
 訝るのとは少し違う感じで、いきなりそう植村は訊いてきた。ぼくは一瞬、何だ? と
いう顔をしてから億劫そうに本の背を上げてみせた。植村は表情を変える様子もなく、淡々
としていた。本当は本のことなどどうでもよかったのかもしれない。
「おもしろいか」
 植村の問いに、ぼくはふと考え込んでから、
「別に、おもしろくも何ともない」
 と言った。
「じゃあ、何で読んでいるんだ」
 彼はからかうように訊いてきた。
「この本は読まなければならないらしい」
「そうなのか」
「知らない」
 ぼくは一息遅れで言った。
「誰かが言っていた」
 それを聞いて植村は少し軽蔑の混じった視線をぼくに寄越した。そして値踏みするよう
にゆっくりとぼくを眺めてから、冷たい声で言った。
「誰かが読んだ方がいいと言ったら、何でも読むのか」
「別に」
 彼の物言いは、ぼくを馬鹿にしているようで、答えるのもなんとなく癪に障った。わか
ってやっているのか、あからさまなまなざしを隠そうともしない。とにかく不躾な男だっ
た。ただ突然現れたこの男にいちいち嘘をつくのも面倒で、ぼくは正直なところを答えて
やった。いつものように適当に答えなかったのは、ぼくの方で彼を試してやろうという気
分があったからかもしれない。何となく彼に興味があったのもたしかだ。
「別にって何だ?」
「いいじゃないか、そんなこと」
「意味がないなら読まなきゃいいじゃないか」
「余計なお世話だ」
 くだらないことにいちいち口を出したがる男だった。あまりおもしろそうな奴じゃない
かも知れない。そう思うと、急に何かを期待していた気分が萎えてくる。
「あんたみたいに世間にいちいち反抗するのは面倒だし、疲れる」
 ぼくのことばに彼は笑った。本に目を戻してぼくは続けた。
「第一、反抗してれば格好いいなんて、ただの馬鹿だ」
 それだけ言ってぼくは彼を無視した。彼はぼくの態度を気にする風もなく、さも愉快そ
うに立っていた。
「気分を害したなら謝る」
 彼は口元を歪ませて言った。
「でも、そういう自分は滑稽だと思わないのか」
「いつも思ってる」
 ぼくは本を閉じて彼を見上げた。彼は作ったような笑いを口元に張り付けたまま、じっ
とぼくを見下ろしていた。
「でもやめる気もないんだ」
 ぼくは無感情にそう言って、傍らの鞄の中に本をしまった。
「変な奴だ」
 彼はそう言って一人で笑った。ぼくが笑っていないことに気がつくまでずっと笑ってい
た。楽しそうな笑いというのとは少し違う、淋しさの混じった笑いだった。さっきと違っ
て作ったような類いのものを感じさせないのは、目の前のこの男が気取っているわけでは
ないからなんだろう。笑っている植村を見ながら、ぼくは黙っていた。そういう時のぼく
は、無意識に表情を出さないようにしていた。わざわざそうしているわけではない、いわ
ば癖みたいなものだった。笑いも呆れもせず、ただ引きつっているだけのぼくの顔は、き
っと出来の悪い能面みたいな表情をしているに違いなかった。
 彼はひとしきり笑ってしまってから、ぼくが黙ったままなのに気がついて、すうっと笑
うのをやめた。ぼくはぼくで何だかへんてこな顔をしているものだから、何かを喋ろうと
いう気がない。植村は何も言えない。会話(とよんでいい代物だったかどうかは疑問だが)
は完全に途切れた。植村は浮いた空気を誤魔化すように急に手を後ろ手に回してそわそわ
し出した。そしていかにも居心地が悪いという顔で時々ぼくを伺うように視線を寄越す。
 ばつが悪そうにしている彼を見て、今度は少しぼくが笑った。
「楽しいか?」
 彼は言った。
「悪くない」
 ぼくは言った。
 何故かこの無礼な男をぼくは嫌いにはなれなかった。
 よくわからないうちに、ぼくと植村は大学でよく会うようになっていた。





 植村は変わった男だったが、別に極端におかしな奴ではなかった。時々の相手のことを
考えない振る舞いを除けば、まあ、まともだったし、顔だって端正に少し足りないくらい
だった。その、相手のことを考えない振る舞いというのがひどく異常だったが。
 聞くともなしに聞いた話では、法学部では優秀の部類に入るということだった。初めて
聞いたときは意外だった。植村には秀才というレッテルは似合っていなかった。というよ
りも彼にはむしろテロリストという方が似合っていた。植村というのは本当はそういう男
だった。悪戯小僧、と言う方が正しいかも知れないが、植村の度を超えた悪戯はほとんど
テロというのに等しい。それに彼はテロリストという方を好んだ。実際、退学にならない
のが不思議なくらいだと思う。「秀才」なんていう彼のレッテルの話を聞いたとき、たま
らずぼくは大笑いしてしまった。学内ではよほど猫をかぶっているのか、ぼくの見る目が
片寄っているのか、行動とは裏腹に不思議といやな噂のない男だった。
 なぜ彼がしがない文学部生のぼくに目をつけ、近づいてきたのかぼく自身にははかりか
ねた。
 でも、腐った出無精の男にはテロリストなんて似合わない。

 植村と会うようになって一ヶ月もした頃、ぼくは彼の彼女だという人に会わされた。会
ったのは横浜かどこかだったように思う。ビールを奢ると言われて仕方なしについていっ
た。気のない返事をしているうちに、植村に強引に誘われたのだった。ぼくは本当のとこ
ろ少し体調がよくなくて、ビールを飲むどころの騒ぎではなかったし、元々酒は苦手だっ
た。根本的に騒げない性質なのだ。それに植村と酒を飲むというのも稀だった。いつもだ
ったら断っていたような用件だ(誤解の無いようにいっておくと、それは本当は用件なん
てたいしたものではない。ぼくにとって、ぼくが行う気の乗らない能動的な働きかけはす
べて用件という名称を持っていた)。ただ、その日の彼は珍しく久しぶりに浮かれている
様子で、そのことに興味がないわけでもなかった。いつも植村は大抵に関して、怒ってい
るか、つまらなそうにしているか、無視するかのどれかを機械的にこなして物事を処理し、
勝手にストレスをためるような男だった。だから植村が浮かれているというのは稀有なこ
とだったのだ。だから、しょうがないなと思いつつ、つきあってみようという気になった
のも事実だった。何にせよぼくは暇だったし、奢ってくれるというのをわざわざ無下にす
ることもない。

 会ってみると、彼の彼女だという人は、ほっそりとしてきれいな人だった。植村には少々
釣り合わないような気もしたが、そのことでどうこうといった異論はない。見た目には多
分似合っているようには見えるだろう。やけに肌が白くて死んでいるように見えることも、
目が少し病的なくらい鋭くなるということもぼくにはどうでもよかったし、植村がそれに
気づいていないのを見ても、それはそれで彼は幸せだろうと思って何も言わなかった。第
一僕には関係のないことだ。
 少し気になったのは彼女の身体はどこか動物の匂いがすることだった。
 彼女からは動物の匂いというか、犬小屋や動物園で時々鼻をつく、飼われた動物が生活
する匂いがした。それははっきり嗅ぎ取れる類のものではなくて、もっと感覚的なものに
近い、変わった匂いだった。第一、実際には彼女からそんな匂いがするはずはないのだ。
いくら植村が鈍感な男でもそれくらい気づくはずだ。植村でなくともほかの誰かが。それ
とも単にぼくが神経質だったのか?
 彼女は終始微笑んだ顔を崩すことはなかった。ただ、ふと会話が途切れたとき、食べ物
を口に運ぶとき、時々思い出したように彼女の目は死んだ魚の目のように澱むことがある。
何にも映していないように見えるのに、奥の方にひどく鋭い何かがあって、目が合う度に
ぼくの背筋を冷たくした。それと一緒にあの匂いがするのも奇妙なことだった。だが植村
は彼女の隣にいて、その有り様に気づく様子はなかった。鈍感な男なのだ。
 それがすべての始まりだった。



 植村の彼女から電話がかかってきたのはそれから二、三日してからだった。
 急な電話だった。彼女は今日の夜会おうといった。植村のことで話があるという。少し
不自然なところがないわけではなかったが、それだけなら別に不自然な用向きではなかっ
た。彼女は彼女なりに植村に対して思うところがあるのだろうと勝手に推測することはで
きたし、まさかそれをいきなり植村に話すというのもどうかと思ったのだろうから、誰か
に話そうという気になったのかも知れない。そこまではいい。強引に納得できないことは
ない。
 そこまではよかった。でも何だか変だった。
 電話に応対しながら、そして電話を切ってからもずっと、胸の奥だか頭の中だかを、火
災探知機のあのけたたましいベルと救急車と消防車の赤色灯の音とSF映画の中で聞く緊
急出動 と非常警報の電子音をごちゃ混ぜにしたような奇妙な警告音が鳴り響いていた。
 何がおかしいのか。
@ 植村からではなく、彼女から直接ぼくの所に電話がかかってくるのは少しおかしい。
まだ一回しか会ったことのないぼくにどうして彼女が電話をかけなくてはならないのか。
第一あの日ぼくは彼女と二、三挨拶を交わしただけでほとんど口もきいていないのだ。
A 植村の話とは一体何なのか。恋人として彼に抱いている不満があるなら、やはり植村
に言うべきだし、でなければぼくになんかではなく女友達にでもすればいいことだ。ぼく
は植村と彼女の話なんて聞きたくないし、興味もない。
B これが一番大事なことなのだが、植村はぼくの家の電話番号を知らない。だからぼく
の電話番号を彼女が知っているはずはないのだ。大学で調べようと思えばできるかも知れ
ないが、ぼくはあの日タカハシとしか紹介されていない。タカハシヒロミとフルネームで
紹介されてはいない。ヒロミは洋美と書くから、「タカハシ姓で、男」で当たりをつける
とまず除外される。わかるわけがない。普通に考えると彼女がぼくに電話をかけられるは
ずがないのだ。
 いったい彼女は何者なんだろう。
 わからないことばかりだったが、ぼくは彼女に会わないわけにはいかなかった。何故ぼ
くの電話番号を知っているのか聞かなければならなかったし、何故ぼくでないと駄目なの
かを聞かなければならない。だいたい植村の話といってもそれは口実に決まっている。植
村の話をするにはぼくでは不釣り合いというものだ。きっと何か違う用事があるからこそ
ぼくを呼び出したりなんかするのだろう。わざわざ植村には言わずに内緒で(と相場が決
まっている)。
 だいたいこれはフェアではないのだ。ぼくには何も知らされていないくせに、厄介なこ
とに巻き込まれているという感覚だけがある。すべてを知っているのは彼女で、すべての
シチュエーションが彼女の下へ収束するようにできている。たとえぼくがこの約束をすっ
ぽかしたとしても、遅かれ早かれ彼女と会わなければならないことになるだろう。所詮、
何かをするという行為それ自体の発動があるタイムテーブルの上で遅れるだけで、必ずぼ
くはこれから起こる何かに巻き込まれてしまうに違いない。そのタイムテーブルにはある
行為ある行為それぞれに締め切り期限が決まっていて、絶対に期限内に行為ひとつひとつ
が完了するように設定されている。ぼくはそれに組み込まれてしまった以上、タイムテー
ブルに従わなければならない身になっていた。しかも腹の立つことに、ぼくはそれを自主
的に行わなければならないのだ。タイムテーブルはそこまで綿密に計算されている。ぼく
にはそれがわかる。これには選択の余地とかはなくて、ひたすら運命なのだ。そして、そ
のタイムテーブルの中央にいるのが、彼女だ。
 一度約束をしてしまったのだから破るわけにはいかない。ぼくは約束を破るのは嫌いだ。
気の乗らない約束は、用件として片付けるしかないのだ。
 ぼくは溜め息をつくと、やれやれと呟いた。

 待ち合わせは横浜駅のドトールコーヒーだった。
 時計を見る。七時。待ち合わせの時間まであと三十分ある。
 時間よりも早く来すぎるのはぼくの癖で、場合によっては平気で約束の一時間前に来る
こともある。だからいつも文庫を持ち歩くことにしている。どのみち外に出ることも、待
ち合わせをすることも稀なぼくにとっては、待ち合わせに遅れることはあってはならない
ことなのだ。それなら先に来て意味もなく待ち続けている方がよかった。その方がまだま
しだ。それは所詮強迫観念に過ぎない代物だったが、ぼくにはどこかそう思いこんでいる
節があった。だいたい待ち合わせなんて高校卒業して以来のことだった。
「カンがにぶっている」
 ぼくはそう呟くと、持ってきた文庫に目を落とした。偶然だか何だか知らないが、植村
とはじめて会った時に読んでいたのと同じ作家の本だった。これもタイムテーブルだった
としたら、それはひどい冗談だったし、実際ひどい話なんだろう。

 約束の時間に二、三分遅れて彼女がやってきた。彼女は駅の改札を出てぼくを認めると、
ゆっくりと歩み寄ってきて、ぼくを店内へ導いた。彼女はベージュの長いワンピースを着
て、底の高くないヒールを履いていた。あと三十歩という距離になって初めて彼女は微か
にぼくに笑いかけた。それは初めて会った時の笑顔とまったく同じものだった。ぼくは軽
く手を振って応えたが、内心もう逃げられないのだなという実感が急に湧いて、そっと溜
め息をついた。その時にはもうぼくの隣りに並んでいた彼女はぼくをちらりと一瞥したき
り何も言わなかった。見透かされているようで嫌な気分だった。
 カウンターでぼくはホットコーヒーを頼み、彼女はレモンティーを頼んだ。ぼくらはス
テレオで迫ってくるざわめきを避けるようにして、ぽかりと空いていた店の西側隅の席に
座った。夕飯時のドトールはぼくの思っていた以上に混んでいた。よく見てみるとスーツ
姿の人間が席の大半を占めていた。中途半端な時間によくこんなところへ来るものだ。
 この人混みの中では誰にも気を使わなくていいから楽だったが、騒がしいのはあまり好
きではない。反対側の隅の方で、どっと歓声がわいた。ぼくはすこし顔をしかめた。寝不
足も手伝って少し胃がむかむかしてくる。それでもぼくはしかたなく、たいして旨くもな
いコーヒーを一口啜った。
 彼女はそんなことには一切お構いなしといった風に涼しげな顔で紅茶を一口一口ゆっく
りと口にした。あれは美味いのだろうか。
 ぼくらは暫く何も言わなかった。ただ向かい合って手にしたものを飲んでいた。端から
見れはそれはおかしな光景だったろうし、実際当事者のぼくだって奇妙なものだと思って
いた。どちらも話しかけようとすらしないのだ。彼女にいたっては目の前にぼくがいるこ
とを忘れてしまっているようだった。ずっとレモンティーと格闘している。すごい集中力
だ。口に出して言おうとして、やめた。どうやっても皮肉にしか聞こえない。
 でも不思議なことにだんまりなのに息苦しいということがなかった。居づらくないとい
うのはとても稀有なことだ。
 それだけにぼくは余計いやな予感がするのだった。

「せっかく呼び出したんだから、そろそろ聞かせてもらえないかな植村には内緒の話」
 あんまり長く黙っているのも何で、面倒臭くなってきていたぼくはいい加減切り出すこ
とにした。用件、用件と心の中で呟いた。
「植村君に内緒の話?」
 少し間があって、彼女はいかにも初耳だという風に言った。ひどく演技っぽいが、どこ
までも自然な感じ。驚いた顔もよくできていた。
「そう。わざわざ植村の話をするためだけにぼくを呼んだんじゃないだろう。もともと植
村のこと何かどうでもいいんだ。君が植村の話をするために人を呼び出すような人間には
見えないしね。どうせ植村のことは口実で、ぼくに何か用があるんだろう? ぼくは腹芸
が苦手なんだ。結局最後に話してしまうんだったら、せいぜい時間の無駄を省こうじゃな
いか」
「別に、あなたに用事がないわけじゃないけど、植村君の話があるのも本当よ」
「『植村君の話があるのも本当よ』。だから、そういうのをやめようと言っているんだ。用
事があるなら、植村のことでなんて呼び出さないで、初めから言うのが筋ってものだと思
うけど。まるで植村をダシにしているみたいだ」
「それは、どうしてもあなたに来てもらわなければならなかったからよ」
「何故」
「あなたが必要だったから」
「君には植村がいるじゃないか。ぼくを巻き込む必要はない」
「植村君では駄目なの。彼では役不足なのよ」
「役不足?」
「そう」
「何に対して?」
「それはまだ言えないわ」
 二の句を継ごうとする彼女を遮ってぼくは言った。
「ちょっと待って。少し整理させてくれ。
 ぼくは君に呼び出されてここにいる。君が植村のことで話があると言ったからだ。でも
君には植村のこととは別の目的でぼくを呼び出した(このとき彼女は何か言いたそうな顔
をしていたが、特に何も言わなかった。ぼくは彼女を無視して続けた)。それは間違いの
ないことだ。植村のことは嘘ではないかもしれないが、本当はたいした問題ではない。そ
もそもぼくはそんなことには興味をもっていないから、君と植村のことを話されてもまじ
めに聞いたかどうかは疑問だけど。それはいい。それで、君はぼくを必要と言った。何か
のために。しかもそれは植村では役不足だという判断が下っている。しかし協力を求めら
ても、ぼくは何も知らされていない。君が教えてくれないからだ。君としてはぼくが協力
しないなら知られては困る。ぼくとしては教えてくれなければ協力の妥当性を考察しよう
にもできない状態だ。つまりは、どっちつかずだ。
 でもこれはフェアじゃない」
「フェアじゃない?」
「そう、フェアじゃない。バイヤー有利。
 たしかに、ぼくたちはお互いに葛藤を抱えている。その点では、考えようによってはフ
ェアなのかもしれない。でも、実際はそうじゃない。同じじゃないんだ。君とぼくでは手
持ちの情報量が圧倒的に違い過ぎる。君は現段階の情報をすべて知っている。でもぼくは
一切知らされていない」
「それのどこがフェアじゃないの」
「つまり、君には選択の余地があって、ぼくにはない。情報がないとはそういうことなん
だ。そして君がすべてを押さえている以上、ぼくは君に従うほかないだろう。否応無く、
しかも自主的に」
「どうしてわたしがすべてを押さえているとわかるの」
「簡単だ。君はぼくの家に電話をかけてきた。ぼくが出た途端にいきなり話始めた。君は
出るのがぼくだと知っていた」
「あなたが一人で暮らしていることくらい植村君から聞いたわ」
「そうかもしれない。なら、どうして君は植村も知らないぼくの電話番号を知ることがで
きたんだ。少なくとも君はぼくのパーソナルデータを知っているんだ。でなきゃ、電話を
かけられるわけがない。
 最近誰かに見られているような気がしてたのはそういうことだったんだろうね」
 ぼくは淡々とことばを発し続けた。
 残念なことに彼女の表情は劇的には変化しなかった。
 しばらくの間、また沈黙が続いた。
「気分を害したなら謝るわ」
 ぼくは笑った。この人も植村と同じことを言う。彼女は少しと惑ったような表情を浮か
べ、ぼくを見た。続けて、ぼくは言った。
「あなたの言うとおり、私はあなたのことは何でも知っているわ。あなたの言うパーソナ
ルデータとは少し違うけど、それでもあなたに関することはできる限り細大漏らさず知っ
ていると思う」
「例えば」
「あなた、七歳のときに交通事故にあって、一週間入院しているでしょう。事故は家の帰
り、黄色い自動車にぶつかった。検査してどこにも異常はなかったけど、それ以来少し黄
色い車が苦手になった」
「すごい」
 ぼくは驚いた風もなく、淡々と言った。
「その通りだ」
「ほかにも挙げましょうか」
「結構。それで、ぼくに用っていうのは何。単刀直入に言って」
「単刀直入に言って」
「そう」
「協力してくれないと困るのよ。私も、あなたも」
「ぼくも?」
 どうやらタイムテーブルは本当に存在しているらしい。
「と言うよりも、あなたの方が」
「やれやれ」
 結局それが答えになった。
「いいよ、協力しよう。ただしぼくがぼくの望まない結果に陥らなければの話だけど」
「それは大丈夫よ」
 ぼくは頷いた。彼女はぼくが納得したのだと思ったかもしれない。でも本当は、それは
タイムテーブルには逆らえないのだろうという予感がそうさせたものだった。
「実は動物園の襲撃を手伝ってほしいの」
 彼女が言ったことの意味を理解するのに四、五秒かかった。
 わかってから、それが何を意味するのか理解するのに、しばらくかかった。