襲撃 3


  第三章




 管理事務所の中は、明かりが灯っているだけで誰もいなかった。しんとして静かなもの
で、人の気配を感じなかった。時々切れかけた蛍光灯がバチバチッと音を立てるくらいで、
ほかは壁で遮断されている分、外よりも静かだった。
「すいません、誰かいませんか」
 喉が痛いのも忘れて、ぼくは言った。声は少しかすれていた。
 おかしなことに奥の給湯室のコンロには草臥れたやかんが乗っていて、チンチンと音を
立てて湯気を上げていた。でも人はいない。
 ぼくはもう一度言った。
 今度は返事があった。
「ああ、すいません。眠っちゃったよ」
 声はどこからともなくやってきた。ありふれた中年の男の声のような、これといって特
徴のない声だった。ぼくは辺りを見回してみたが、それと言って人影らしいものは見えな
い.勿論声がしたような方に目を向けても誰かがいるようには見えなかった。
「どこ見てるんだ。こっちだよ、こっち。悪いけどカウンターの方まで来てくれないかな。
どっちにしても、そこからじゃ見えないだろう」
 カウンターと言われて、初めて声はそっちの方から聞こえるなとはたと気付いた。ぼく
は見当違いの方を向いていたのだ。道理で見えないはずだ。方向感覚まで狂っているみた
いだった。
 とりあえずその場を誤魔化すように頭を軽く小突いてから、ぼくはカウンターの方に向
かった。
 カウンターの向こう側を覗き込むと、つぶれたクッションの乗った丸椅子の上に、少し
大きめの三毛猫が窮屈そうに丸くなってこちらを見上げていた。そしてその猫はぼくの顔
を暫く見つめたあと、チェシャ猫のようにニタアと笑ってみせた。ぼくが顔をしかめると、
そいつは無視するみたいに大きな欠伸をひとつして、もっそりとした動きでカウンターに
飛び乗った。
 実際カウンターにいる生き物と言ったらその猫だけで、他には管理人らしき人の姿は見
えない。人の気配すらしないのだ。わけがわからない。ぼくが首を傾げていると、目の前
で丸くなり始めた猫がもう一度ニタアと笑って、ゆっくりとぼくのことを見上げて言った。
「どんな御用でしょうか」
 猫は勝ち誇ったような表情でぼくの顔を見ていた。



 目の前で猫が喋っている現実に、不思議とぼくは驚かなかった。理由はよくわからない。
だいたいこれが本当に現実かどうかも怪しかったし、驚くにはこの動物園(らしきもの)
は十分に奇妙だった。猫が喋ってもおかしくないくらいには。それに大きく感情を動かす
にはぼくは少し疲れすぎていた。おおかたこれは納得してわかる類のことではなく、その
まま受け入れるしかないことなんだろう。
 いまは何かを深く考えるという行為をしたくなかった。
「おやあまり驚かないんですね」
 無表情にひきつったぼくの顔を見て、猫は残念そうに言った。ぼくは頬を軽く揉むよう
にして強張った筋肉をほぐしながら、あまり冷たくならないような言い方で言った。
「別に驚いてないってわけじゃないんだけどね」
「そのわりに、驚いた表情が出ない。楽しみだったのに」
「ぼくのおどろいた顔がかい?」
「ええ。正確に言うと人間の驚いた顔、ですけどね」
「まあ、たしかに免疫がなかったら驚いたかも知れないけど、さっき硬直するのが趣味の
対人恐怖症の猫を見た。そんな猫が観賞用として檻の中に入れられているんだ。だったら
喋れる猫がいたっておかしくはないさ。さすがに管理を任されてるとは思わなかったけ
ど」
「対人恐怖症? ああ、Bのことですね。彼を御覧になったんですか」
「B?」
「ええ。檻の中に三匹の三毛猫がいたでしょう。大きいのと中くらいのと小さいのの三匹。
その中ですぐに固まってしまう猫と言ったらBくらいしかいませんよ」
「そうだけど、Bと言うのは名前?」
「まあそんなモンですね。あの檻の猫は大きい順から便宜的にA、B、Cという風に呼ん
でいます。彼らのは特別な名前なんてモンは付いてないんですよ。前の管理人は名前をつ
けてたみたいだけど、名前なんてたいして役に立ちゃしませんからね。どうせあいつらに
は何もわかっちゃいないんだ、それなのにわざわざ名前で呼んでやるのもしゃくなモンで、
私はそう呼ぶことにしているんです。Bのヤツ、また派手に転がっていたでしょう。彼の
耳には耳ダニが住んでいるんですよ。あれ、結構かゆいんですよ。一回うつされたことが
ありましてね。また掃除しにいってやらないと」
 三毛猫が中年男の声で愚痴をこぼすというのもなかなかに奇妙な光景だった。不気味と
か言う以前に何だか滑稽な気がしてぼくは笑い出しそうになってしまった。さすがに真面
目くさった顔で愚痴をこぼしている猫の手前、そういうわけにもいかなかったが。
「まあ、あなたにこんなことを言っても仕方ないですね。ところで御用は何でしょう。何
か御用があってここにきたんでしょう?」
 御用、と言われて困ってしまった。何となく飛び込んだまではよかったものの、そうい
えばぼくは何の用があってここにきたんだ。「それがよくわからない。実際何でぼくがこ
こにいるのかがよくわからないんだ。気付いたらいつの間にかここにいたんだ。とても大
事な用事があったからここにいるはずなんだが、どうも思い出せない。歩ける限りうろつ
いてみたんだけどね、ここは広すぎる。その時に管理事務所の札を見て、それでここにき
たんだ。何かわかるかも知れないと思って」
「よくわかりませんね」
「そうだね」
「で、何かわかりそうですか」
「さて、どうだかね」
 ぼくはそう言うと、いつの間にか喉の痛みが治っているのに気が付いた。ひどく流暢に
喋っているじゃないか。まだ完全にと言うわけじゃないが、喋るのにはほとんど支障がな
い。あまりに突然のことだった。確かめるように何度か咳をしてみる。やはり痛くない。
「どうかしましたか」
 多分おかしな顔をしていたのだろう。猫の言葉にぼくは我に返った。ついどこでも考え
込んでしまうのがぼくの癖なのだ。猫は自分がおかしなことを言ったとでも思ったのだろ
うか、どこかおどおどしたようにぼくの目を覗き込んでいた。その姿は笑いを誘う愛嬌が
あって微笑ましかったが、何にせよ、人前で突然ぼうっとするのはあんまりいい癖じゃな
いな。真剣な顔をしている猫を見ると、ぼくは少し気恥ずかしい気分になった。
「いや、何でもない」
 それを聞くと猫は満足そうにまたニタアと笑って伸びをした。
「ならよかった」
 そう言うと、猫は興味津々といった感じでぼくの方を見つめて、次のことばを待った。
その目はキラキラして、いかにも何かをしたい、何かやらせろ、と訴えていた。
 ぼくはそういう目が苦手だった。しかし無下に目を逸らしてしまうわけにもいかない。
「ところで、前の管理者って言うのは?」
 猫はそれを聞いて、一瞬ウンザリしたような勝ち誇ったようなわけのわからない表情を
浮かべて、目を細め、次の瞬間には待ってましたと言わんばかり嬉しそうな表情を作って
いた。随分と表情豊かな猫だ。
 こう言うのを見ていると退屈はしないんだけど疲れる。



「前の管理人は、管理人という名の通り人間でした」
 猫はまずそう言ってから、ぼくに近くにある椅子に座るよう勧めた。ぼくは脇の方に畳
んであったパイプ椅子を持ってきて、カウンターの前に広げると、そこにゆっくりと腰掛
けた。猫はその一部始終を見届け、目を細めて頷くと大きな欠伸をした。よくよく人間に
指示を出すのが好きらしい。自分の指示に従っているぼくの姿は、猫にはとても好意的に
映るようだった。ぼくとしては特に文句もないから従っているだけなのだが、いちいち彼
の誤解を解くのも面倒で、放っておいた。第一水を差したら悪い。
「よく気の付く男で、動物も甲斐甲斐しく世話をしていましたよ。わたしも元はここの動
物園の猫の檻にいまして、あの男の世話になったモンです。餌をもらったり、寝床の掃除
をしてもらったり、Bからうつされた耳ダニを取ってもらったり。ああ、検査もちょくち
ょくやられたな。まあ、数年前まではね、ただの猫でしたから」
「ただの猫?」
「ええ、わたしは元々はただの猫ですよ。初めっから喋れたわけじゃない。この声はね、
もらったんですよ。管理を任されるときに」「もらった、誰に?」
「決まってるでしょう。前に管理人だったその男にですよ。だから私の声は疲れた中年み
たいな声しているんです。何と言っても疲れた中年そのものですからね。もっと綺麗な声
がよかったんですけど、贅沢は言えませんからね」
 それでもどこか猫は嬉しそうだった。
「で、その管理人だった男は何処へ行ったんだ」
「彼ですか、彼ならこの動物園にいますよ」
「ここに?」
「ええ、管理事務所の裏にある檻にいます。私はあの文字の書かれたプレートってのが嫌
いで、ここの檻についているやつは中に動物がいようがいまいが取っ払ってあるんです。
でも、この動物園の中で彼の檻にだけプレートが付いているんですよ。『霊長類ヒト科人
間』ってね。あれだけはつけておかないとわかりませんから。じゃないと見に来たお客さ
んが誤解するんです。
 何ならご覧に入れましょうか。もうすぐ餌の時間なんです」
 前の管理人が檻の中に入っていると聞いてぼくは少なからず驚いた。檻の中に人間が入
っているだって! それを聞いて少なからず腹が立ったが、その時に思いついたことばは
人間の尊厳とかそういったことばではなかった。人間の尊厳なんてことばは人間が人間に
対して使うことばであって、動物(たとえそれが口をきく猫であっても)に使うべきもの
ではない。そんなものは生ゴミと一緒に燃えるゴミの日に出してしまえばいい。だいたい
人間の尊厳なんてことばを持ち出すほどぼくは人道主義に目覚めているわけではないのだ
から。ぼくが言いたいのはもっと別のことだ。だいたい動物園なんてところは人間が動物
を見るために来るところ、と相場が決まっている。いくら口をきく猫に管理されていよう
が、その原則は変わってはいけないのだ。本来あれは人間本位に経営されているもので、
動物がどうこういう問題ではない。それに動物園に来る人間のほとんどは人間を見たくな
いから来るんじゃないか(実際はそううまくもいかない)。時折危篤にも動物が見たいな
んて人もいるが。そんな動物園に、何でまた人間が檻の中にいなくちゃいけないんだ、他
の動物と同じように。
 しかも猫に飼われているとくる。
 まったくわけのわからないことが好きな動物園だ。
 いや訂正、全部この猫の趣味か。
 でも檻に入れられた人間がどんな行動を取るのか見てみたい気もする。人間は吼えるの
だろうか。
 どうやって?
「ひとつ訊いていいかい?」
「どうぞ」
「彼は檻の中で何をしてるんだ?」
「何をしているかですか? 面白いことを訊く人ですね。今までこの話をした人は怒り出
すか、わたしを説得しようとするかのどちらかしかしませんでしたよ。何とか彼を檻から
出してやれっていうんです。でも無理な話ですよね。それがこちらの経営方針なんですか
らって、言うしかないんです。でもおもしろいですね、何だかんだと文句を付けても結局
はみんな彼を見に行くんです。それで顔をしかめるのかと思ったら、結構興味深げに見て
行くんですね。帰る時には例外なく青い顔していましたが。ああ、すいません。彼のこと
でしたね。彼なら寝っ転がるか、檻の中をうろうろしてるか、本を読んでいるか、何かを
ブツブツと呟いているかのどれかをしてますね」
「吼えないの?」
「吼える? ええ、吼えますとも。時々思い出したように吼えていますよ。高い声や低い
声で、動物みたいに―」
「行こう」
 得意げに語る猫のことばを遮るようにしてぼくは言った。猫は残念そうだったが嬉しそ
うだった。ぼくは猫と目を合わさないようにして席を立った。猫の目は絶対に狡猾な色を
しているからだ。見なくてもわかる。人間が余程嫌いなんだろう。
 猫は目を合わそうとしないぼくを見て、再びニタアと笑った。



男は檻の向こうで表紙の擦り切れた本を黙って読んでいた。表紙の題字はほとんど消え
てしまっていて読みとることはできない。それでも日本の小説ではないことは一目瞭然だ
った。
 前の管理人はぼくが思っていたよりもこぎれいな恰好をしていた。
 グレイのワーキングシャツに濃い青のジーンズ。どちらもよれよれではあったが、ちゃ
んと洗濯はされている。服を着せないと人間は死んでしまうから面倒だと猫はこぼした。
茶色に変色した髪の毛はざんばらで手入れが届いていない感じがしたものの、それでも切
ってはいるようだった。対して髭は伸び放題で随分と長くなっていて、いかつい体躯を余
計引き立たせていた。
 男は背が高くがっしりとした骨格を持ち、優しい目をしていた。中年のような声から窓
際のサラリーマンみたいな小柄な男を想像していたぼくは、思わぬギャップに少し戸惑っ
ていたが、猫にそれを気取られるのも癪で黙って表情を崩さないようにと一生懸命になっ
ていた。
「どうですか」
 猫はまだ嬉しそうな表情を満面に浮かべて、ぼくに話しかけてくる。 
「人間がいる動物園なんて世界広しといえどもここくらいなものですよ。だいたい他の動
物園は動物が多すぎるんですよ。コアラとかパンダとかスマトラ虎とか孔雀とかオランウ
ータンとか数え切れないくらい。その点うちはちょっとおかしな動物ばかり集めています。
見たでしょう、Bとかのことですよ。まだ集め始めて長くないんでこれくらいしかいませ
んけどね。そのうち一杯になりますよ。なんてたって檻だけは余っているんです。そのた
めに今までいた動物たちを追い出したんですから」
「そのわりに全然お客が来ないようだけど」
「それは見解の相違ってヤツです」
 都合のいい見解の相違もあったもんだ。そう言おうとしてやめた。
 やっぱり皮肉にしか聞こえない。

「先に管理事務所に戻っていてくれないかな」とぼくは言った。
「何でまた」
「少しこの人を見ていたいんだ。一人で」一人で、というところを強調して言った。
「それはまあ、構いませんが、しかしねえ」
 猫は渋った。だいたい魂胆は見えている。ぼくの青くなる顔を見たいのだろう。自分の
解説を交えて(身振り手振り付き)。そしていかに人間が愚かで残酷であるかをとうとう
と語ってみせるのだ。きっとそれがこの猫が管理人なんてつまらない仕事をしている理由
だろう。だけどぼくはそれにつきあってやるほど暇ではない(ホントは暇なのだが)。し
かし余所でやってくれとも言うわけにはいかなかった。ぼくが本来訊くべきことを思い出
すまでは、猫との友好関係を良好なものにしておかなくてはならない。
「あとでちゃんと戻るよ。まだ用は済んでないんだから。とにかく先に戻っていてくれ。
悪戯するつもりもないし、客に対するサービスも動物園職員としてのつとめだよ」
 動物園職員というのが効いたのか、猫はそれ以上何も言わず、くれぐれも餌を与えない
ようにと言い残して、意気揚々といった風情で管理事務所に戻っていった。



 前に管理人だった男は、猫がいなくなるのを見計らったように読んでいた本から目を上
げた。およそ無愛想な目つきでぼくのことをじっくりと検分する。その間ぼくは彼ににっ
こり笑ったり手を振ってみたりすることを考えたが、それはどうも大間違いをしているよ
うな気がしてやめておいた。失礼だ。まるで彼が人間じゃないみたいな扱い方じゃないか。
そしてとりあえず握手をしようと檻の間と間に差し込もうとした手を引っ込めた。彼が誤
解するといけないと思って。何しろそれは飼っているインコの鳥籠に指を入れる飼い主の
行為そのものの様に見えるだろうからだ。
 彼はしばらくぼくを胡散臭そうに見つめたあと、軽く微笑ってみせた。その微笑は本当
に微かで、余程目を凝らしていないと気付かなかったろうが、たしかに彼は微笑っていた。
おかしな時のおかしな微笑だった(少なくともそれを友好関係の徴と取る人間はまずいな
いだろう。もしいたとしたら、そいつは余程の嘘つきか、余程の馬鹿に違いない。それく
らい奇妙な、まさしくそれは奇妙な微笑だったのだ)。まったく何なんだ。ぼくがその微
笑の意味をはかりかねて思考の底へ落ちていこうとした時、彼は読んでいた頁を確認する
みたいにさっと本に目を戻し、それを閉じて壊れ物にするように傍らにそっと置いた。
 そしてもう一度(今度ははっきりと)にやっと笑い、彼は吼えた。



 身体全体を使って、声を腹から絞り出すような吼え方だった。



 空気が震え、彼の咆哮は園内に拡がっていった。
 それでも他の獣ほど遠くへは伝播しない声だった。人間は四つ足を捨てて、理性を選択
したときから、美しい獣の遠吠えを失ってしまったのだろう。猿だってもっと遠くに声を
飛ばせる。それが人間の限界だった。もう人間は野性に帰れないのだろう。
 正しい咆哮の仕方。多分僕たちは真っ先にそのやり方を忘れてしまうのだ。だからこそ
かえってサンプルとしての動物園が必要なのかも知れない。ぼくは思った。また、意味の
ないことだ。
 それでも彼の咆哮は素敵だと思った。
 ぼくは遠吠えの仕方なんて忘れてしまったし、そんなに大きい声も出せない。せっかく
治りかけた喉をもう一度潰してしまうのもいやだった。恥ずかしくはない。誰も見ていな
い。でもやりたくない。
 ふと彼と目が合った。血走った目は哀しく澱んでいた。
 ぼくも、彼に付き従うように、吼えた。



 くそくらえだ。



 ぼくと彼は長い咆哮を済ませたあと、檻越しに背中を合わせて座っていた。ぼくは馴れ
ないことにぐったりと疲れ、何をする気も失せていた。
「管理事務所にも戻らないと……」
 誰に言うともなしに呟いた。声が掠れている。喉もまた少し痛くなってきている。吼え
たせいだ。でも不思議と後悔はない。あるのは何かをやったという感慨だけ。それすらも
ないと言えばない。当然のことを当然のようにやっただけ。ぼくは当たり前の行為をした
だけなのだ。
『昔は人間も吼えた』
 厳かな声だった。重々しい英語が背中越しに聞こえる。振り向くまでもなく彼だった。
ぼくはそのままの姿勢で彼のことばを聞いた。
『この檻に入れられてから、私は動物のように振る舞うことを要求された。動物といって
も、人間という名の動物だ。しかし私はどうやったらそれが人間という動物らしい振る舞
い方なのかわからなかった。しかし、あいつはそれを許さなかった。見せ物である以上き
ちんと客にサービスをしろと何度も言った』
「あいつというのはあの口をきく猫のことですか?」
 言ってからしまったと思った。英語で話しかけられているにも関わらず、つい日本語が
口に出た。ぼくは慌てて英語で言い直した。 彼は笑った。
『ああ、日本語で話してくれて結構だ。私は今は日本語を話すことができないが、日本語
を聞いて理解することはできる。元々日本語を話していたんだから当然のことだがね』
 彼は寂しそうな、恨みがましいような口調で言った。
「それはあの猫が喋るのと関係があることですか」
『関係あるも何も、あの猫が私から日本語を喋ることばを奪った張本人なのだから、言っ
てみれば当事者なんだ。いや、張本猫というべきか。
 元々あいつはことばがわかる猫だったんだよ』



 あいつは元々人間のことばが理解できた。私が何かを言えばそれを理解して行動した。
時には私の言動の裏を読んで行動することさえしたんだ。頭のいい猫なんだ。
 どういうわけかこの動物園はどこかおかしな動物が多くてね、アル中の駱駝とかヤク中
の兎とか色情狂の馬なんてのもいた。本しか食べない山羊もいたが、こいつはすぐに死ん
でしまった。あんまり活字本ばかり食べるものだから、毒が身体に溜まり過ぎたんだろう
ね。
 そういえば君はドイツ語が話せるかい? 私は本当は英語よりもドイツ語の方が得意な
んだが。(ぼくはドイツ語はてんで駄目だと言った。でも英語ならある程度わかります。)
 そうかい? 私の英語は変に日本語訛りなんだ。ジャパニーズイングリッシュというや
つ。あまり好きじゃないんだが、それならしょうがないね。(あなたの英語はわかりやす
い。何と言ってもぼくは日本人ですからね。大層な英語を聞く機会に恵まれていないから、
それくらいの方がいいです、とぼくは言った。)
 まあいいや。ところでどこまで話したかな。そうだ、私が何で日本語が話せなくなった
かというところから話せばいいのか。
 あいつがことばがわかるというのはもう話したね。それである日、あいつは私にことば
を教えて欲しいと言ったんだ。日本語ではなくて、ニャアと言っただけだけどね、何とな
くそう言っているのがわかった。長年こういう仕事をやってると色々なことがわかってく
るものだよ。猫のことばにしてもそうだ。完璧ではないけど、少しはわかる。それに元々
私は動物と心を交わすことができたんだ。心というか、何だかよくわからないんだけどね。
わかるんだよ。おかしな話だろう。でも本当なんだ。何となく目を見ているとなにが言い
たいのかがわかってくる、そんなチカラだ。だから小さい時からこういう仕事に憧れもし
たし、それが高じてこうして管理人なんてものをやっていた。動物が大好きで、動物と暮
らしていければいいとさえ思っていたよ。
 それでまあ、別にあいつが望むのならそれもいいと思って、私はことばを教えてやるこ
とにした。しばらくしてからことばだけじゃなく色々なことを教えてやろうと思って、檻
から出して管理事務所の方で共同生活まがいのことを始めたんだ。猫と共同生活というの
も変な話だが、あれは本当に共同生活と言ってもよかったな。少なくとも私が飼っている
という感じじゃなかった。私は空いた時間を見付けて本を読んでやったりしたんだ。手始
めにそこら辺に転がっていた雑誌とかから始めたな。新聞、小説、何でも読んでやった。
シェークスピアさえ読んでやったよ。
 次第に私たちは昼間は動物園に出勤して、夜に何かを読んでやるという生活に移ってい
った。でもさすがに私も疲れて眠ってしまうこともあって、毎日そうしてやるわけにもい
かなくて時々すっぽかしてしまうこともあった。初めの頃はあいつも文句たらたら、昼は
ずっと不機嫌だった。しかし段々とあいつは文句を言うことがなくなてきたんだ。あんな
に楽しみにして、一日中不機嫌になっていたのに。私も気になってはいたんだけど、この
仕事もそんなに暇というわけでもなくてね、忙しさにかまけて忘れてしまっていたんだ。
どうしてあいつが文句を言わなくなったのか君にわかるかい?
 簡単さ。私が眠っている間、あいつはずっとテレビを見ていたんだ。あいつはすごい勢
いで色々なことを吸収していった。もう十年くらい前のことだ。
 それで、いつだったかもう覚えてないが、いきなりあいつが人間のことばを話したいと
言い出した。ことばはもうたくさん覚えた。あとは自分で使ってみたい、ってね。
 しかしそれは土台無理な話だった。生物学的にも生理学的にも猫の声帯は人間の言葉を
話せるようにはできていない。猫には人間のことばは話せない。そう言ってやったが、あ
いつは聞く耳持たなかった。私は人間のことばを話す、そう言い張った。
 それで、お終いだった。
 私はもうあいつにことばを教えることもしなかったし、あいつも私からことばを教わろ
うとはしなかった。それきりあいつは姿を消してしまった。
 私の調子がおかしくなったのはその頃からだった。
 いくら話そうとしても、喉が痛くて声が出せないんだ。かろうじて呻き声が出る、とい
った程度だった。そうなったらもう手がつけられない。管理事務所に迷子の子どもを捜し
ている親とかが来ても応対することもできないし、電話に出ても話すことすらできない始
末だからね。私は気が狂いそうだったよ。でも、そうばかりもしていられない。何とかし
なければならなかった。私はどうでもよくても、その手の業務が滞ってしまうと、動物た
ちが生きていけないんだよ。掃除なんかはできても、動物園に餌の備蓄なんてほとんどな
いんだ。あったとしてもほんの僅かで、とても動物たちが生き延びていくには足りない。
かといって誰かに頼むこともできなかった。生憎と動物とばかり暮らしていて、人間の友
人なんていなかったし、いたとしてもこの年では誰かに頼むにも、その誰かも忙しい、そ
れではとても頼めんよ。第一声が出ないんじゃどうしようもない。
 そんな時身体付きが一回り大きくなったあいつが戻ってきたんだ。
「何かお手伝いできることはありませんか」
 面食らっている私に、得意げにそう言ってみせたよ。
 その時、私は本当に気が狂ってしまうかと思った。
 あいつの口から出てきたのは、私の声そのものだったんだよ。
 あいつは言った。
「ある人に頼んで、こうして話せるようになりました。やってみればできないことはない。
猫の私にも人間の言葉が話せるんだ。あなたは私に嘘をついた。ある人が言ったんです、
猫も人間のことばが話せる。実際そうなりました。でも私が口をきけるようになるには、
誰かから声をもらわなければならなかったんです。あなたにことばを教わったことは感謝
していますよ。でもあなたは嘘つきだった。
 嘘つきは何も喋らない方がいい、嘘を言えない方がいい。だからあなたの声を貰いまし
た」
 何度もあいつのことを絞め殺してやろうと思ったよ。でも駄目だった。私が捕まえるに
はあいつはすばしっこかったし、頭が良くて私が考えるような罠にはかからない。
 気が付いてみれば、私にはもうあいつを捕まえる気力さえなくなっていたよ。
(五分間の沈黙)
 ああ、ありがとう、大丈夫だ。ちょっと興奮するとこうだ。私ももう年なのかな(そう
いって彼は力無く笑った)。
 それからというもの、一般の業務はあいつが一手に引き受けることになった。管理事務
所でのインフォメーション、業者とのやり取り、餌を所定の時間に与え、ちゃんと水も交
換する。動物たちを洗ってやり、検査も忘れない。掃除もするようになった。
 つまり、もう私の居場所はなくなったってことだ。
 あとはあいつの言われるまま、大きな生ゴミとなった私は、ここに入れられて、人間と
はほど遠い『人間』という動物を演じるしかなくなったってわけだ。
 ことばを奪われたのに、何で今の私に英語やドイツ語が話せるかって? そんなことは
私にもわからないよ。ここに入ってしばらくしてから気付いたんだ。日本語はからきし話
せないが、他の言語なら話せることにね。幸いなことに私はインテリの家の生まれでね、
大学に行って動物心理学とかをやる傍らに、色々な言語もやった。特にドイツ語と英語を。
だからこうして君とコミュニケーションできるわけだが、ことばがまだ使えるとわかった
ときは心底助かったと思った。それで、色々考えてみたんだ。わかりうる範囲の可能性を
かき集めて。多分あいつは私の日本語を話すためのことばを奪ったんだ。何しろあいつに
は日本語しか教えていなかったから、多分あいつはこの世には日本語しかないと信じてい
たんだろう。本当のところはよくわからないが、きっとそういうこと何じゃないかな。と
りあえずそう結論付けて、納得することにしたんだ。あんまり考えると頭がどうにかなっ
てしまいそうだったんだよ。それが功を奏してか、幸か不幸か私はまだこうして狂わずに
済んでいるというわけさ。
 ここから出たいかって? そうだな、もうどうでもよくはなってきているんだ。もう随
分とここにいる気がするし、今さら外に出るのも億劫に感じてきている。そりゃ本音を言
えば出たいと思っているんだろうが、どうなんだろう。よくわからないな。出ても行く当
てもないし、何となく、私がここから出られるのはこの動物園がなくなってしまう時なん
じゃないかって気がしてならないんだ。それまでは私はここにずっといなくてはならない。
これじゃまるで出たくないみたいに聞こえるな。でも何だかんだといって私はこの中から
出たいと思っているんだろうな、そんな気がする。もう今さらとなっては外に世界に出る
のも怖いが、それでもやはり今の私の状況は人間が生きていくべき状況ではない。
 だが、君にそんなことを言って、私はここから出られるのか?
 いまの私は動物園の動物だ。見せ物だ。資本なんだ。管理者はあの猫だ。仮に君が動物
園の檻の中で外に出たがっているゴリラを見付けたら、逃がしてやるか? できないだろ
う。それは君にそんな権利はないからだ。君は管理者ではなく第三者だからな。第三者が
やったらそれは犯罪というものだよ。少なくとも今の社会はそうなっている。だから君に
はできない。私は君を弾劾しているつもりは全くないよ。それが正当で、まったく当然の
ことだからね。
 これは私の愚痴だ。今までわざわざ聞いてくれる人間もいなくてね、どうしても誰かに
話したかったんだ。最近じゃ客足も格段に減ってきているし。だいたい犬や猫や馬や駱駝
くらいしかいないような動物園に一体誰が来ると言うんだ。せめてあいつに経営の基礎く
らい教えておけばよかった。今更言ってもしょうがないな。年を取ると愚痴っぽくなって
いかんな。
 つきあわせて悪かったね、ありがとう。
 彼はそう言うと淋しそうに笑ってみせた。
 いえそんな、ぼくがそう言おうとしたとき、どこかでドーンと大きな音がした。次いで
管理事務所の向こう側でもくもくと煙が上がった。