襲撃 4


  第四章




『爆発だ!』
 彼は立ち上がって、叫んだ。
 彼の言う通り、それは爆発としか言い様のないものだった。
 間違いない。
 すかさずぼくも立ち上がった。



「大変だ、爆発だ」
 ぼくは慌てて管理事務所に駆け込んで、大声で猫に言った。声はまだかすれていたが、
構うものか。
 猫は真っ青な顔をしてぼくを見つめ返してきた。どうしていいかわからない、といった
表情を浮かべている。そりゃそうだろう。普通こんなことが動物園で起こることなんてな
いのだから。しかし何かのガスが爆発したという可能性もある。
 慌てているためか、人間のことばではなく猫本来のニャーニャーという鳴き声を辺りに
撒き散らして猫は右往左往していた。余程爆発なんて縁がない生活をしてきたのだろう。
その点からすればぼくも一緒だが。しかし今ここでオロオロしてても何の解決にもならな
い。とにかく行ってみるしかないな。
「とりあえず、現場に行こう。爆発の原因を突き止めなくちゃならない。何かの事故なの
か、意図のあるものなのか。それに動物も心配だ。第一あんたは管理人じゃないか、動物
のことを放っておいていいのかよ!」
 猫はすぐに歩き回るのをやめた。表情も多少緊張はしているものの、さっきまでのよう
な不遜な顔に戻っていた。猫はその場で軽く髭を繕い、全身を震わせてから、心を落ち着
かせるように、一語一語切るようにゆっくりと言った。
「すいません、行きましょう。あの、感じからすると、そんなに、遠くじゃ、ない」
 そう言って猫は駆け出した。
 到底追いつけるとは思わなかったが、見失ったら煙を目標に走ればいい。疲れてるんだ
けどなあ、と苦笑している暇はなかった。
 もう時間はないのだ。
 急に不安感がこみ上げてくる。ぼくはそいつを追い払おうと二、三度頭を振って、すで
に随分と先を行っている猫の後を追いかけていった。

「こりゃひどい」
 ぼくが件の檻にたどり着く頃には辺りにはムッとした匂いがたちこめていた。焼けた空
気の匂いと、微かに何かの毛の焼ける臭い。それから、それに混じって何か余り嗅いだこ
とのない臭いがする。
どこかで嗅いだことがある。
元々大した爆発ではなかったのか、もう燃えるものがないのか、火はほとんど小さくなっ
ていて、それだけは幸いだった。奥まったところの地面が黒く焦げついているのが痛々し
い。
「この檻は、何か動物が?」
 先についていた猫が鼻をひくつかせて、何かを探していた。
「いえ、三ヶ月くらい前に余所に引き取ってもらいました。ここにいたのはナマケモノで
す。神経症の。引き取ってもらったっきりろくに掃除もしていなかったんで、毛の焼ける
やな臭いがしてますけど、大丈夫です」
「それは、よかった」
 空気はまだ熱くて、汗ばむくらいの熱が残っていた。ぼくは額の汗を拭って、実際に爆
発した辺りに向かって歩いていった。
「何かのガスが爆発したとかそういう感じじゃない」
 猫は言った。猫自身は確信なさげだったが、こういう時の動物の嗅覚は信頼してもいい
だろう。猫は肩で息をしているぼくを尻目に機敏に辺りを歩き回っていた。
「何でしょうね、この、嗅いでると頭がぼうっとしてくるような焦げた臭い。弱いからあ
なたにかぎ取れるかどうかわからないけど」
 ぼくは鼻をひくつかせてみた。たしかにさっきからおかしな臭いがする。何かの焦げる
ような、どこかで嗅いだことがある臭い。何だこれは。いや、そうだ花火の時だ。これを
嗅いだことがある。
「火薬だ!」
 ぼくは叫んだ。
 つまりこれは爆破で、誰かが意図してやったのだ。
 ぼくは爆発が起こった檻の裏側に急いだ。

「何だろうこの臭い」
 猫の呟きはぼくには聞こえなかった。

 裏のコンクリートの壁のところに、爆弾(と言っていいだろう)で空いた穴があった。
よく調節されているのか、他に影響が出ないように、穴だけが空いている。ぼくが屈めば
通れないこともないような大きさの穴だ。これくらいの大きさがあれば大抵の動物は檻か
ら出てくることができる。無差別に爆弾を仕掛けて爆破するというのが目的ではないらし
い。テロにしては少し様子が変だった。
「適量の火薬を使い、他に影響が出ないように穴だけ開ける。動物が抜けられるような穴
を開けるのが目的」
 ぼくは復唱するように言った。
 そしてぼくは妙なことに気が付いた。
「ぼくはこの手口を知っている」
 忘れていたものが、一気に吹き出してきた。



「動物園を襲撃するって」
「そうよ。襲撃するのはここ」
 といって彼女は、ぼくが見たこともない分厚い都内観光ガイドを出して、その地図の左
端、つまり都の西の外れにある動物園を指差した。聞いたこともないような動物園だった。
「何でまた動物園を襲撃なんか」
「それがよく私にもわからないの。ただ決められた日に動物園を襲撃しなくてはいけない
の。それだけがわかるの。ああ、やらなくちゃって。それはもう運命みたいなものね」
 まったく、わけのわからない動機でぼくもつきあわされるものだ。やらなくちゃいけな
いから。たしかに行動を起こすには立派な理由だ。ただし、他人を巻き込まない程度にお
いて。しかもいきなり運命と来た。まったく、どうして人間というのはやたらと運命とか
そういうことばを好んで使うんだまったく。やはりタイムテーブルではシステマティック
すぎるのだろうか。まるで夢も希望も選択する意志もなくて、初めから機械的に決められ
てるみたいで。でもそれを言ったら結果論的には運命というヤツも同じだ。あれにも、選
択の余地だけは全くない。まあ、協力すると言った以上、今更文句を言っても仕方がない
し、そういうつもりもないつもりではいるものの、どう聞いてもこれは文句にしか聞こえ
ないな。
 やれやれ。
 彼女の動物園襲撃が運命なら、それにつきあわされるぼくもまた運命なんだろうか。も
しもそうだとしたら、運命というヤツは決まって面倒臭いことをぼくに強要する。彼女も
彼女でせいぜい植村と痴話喧嘩でもしてくれていればよかったものを、ご丁寧にぼくまで
巻き込んでくれるなんて。迷惑な話だ。せめて世間並みにぼくを静かに生きさせてくれて
もいいのに。詰まるところは運命共同体。しかも強制的自発、啓発と言った方がいいのか。
 何と言ったところで強制には違いないが。
「どうしたの? 不機嫌な顔してるわ」
 ことばとは裏腹に、ここまで話したんだから協力しないわけには行かないのっぴきなら
ない状況にぼくがいることを、彼女は身体全体の雰囲気で教えてくれた。げに運命の力と
は恐ろしい。ぼくは彼女にタイムテーブルの話をしてやった。決定権はすべて彼女にあっ
て、ぼくには何もできないこと。今更ぼくがどう抵抗しても無駄なこと。だからぼくは彼
女に協力するが、本当はあまり気がすすまないこと。それでもやるからには真摯に取り組
むつもりであること。等々。
「私だったら何が何でも抵抗するのに」
「時にそういうのが全然無意味だとわかっちゃう時があるんだ。不断だったらさんざん抵
抗するけどね」
「今回はわかってしまった」
「そう、だからこうして君に素直に従っている。無駄だとわかってる抵抗はあんまりした
くないんだ。すごく疲れるからね。疲れて、それっきり。だからぼくは代わりにシナリオ
を書き換えるようにしている。ただ従ってしまうのも流されてるみたいでいやだでね、だ
ったら少しずつ話をずらしていって、全然違う方向へ持っていく方がましだ。だから書き
換える」
「書き換える?」
「そう、いるかどうかもわからない自分勝手な神様って人をそそのかすんだ」
 彼女は笑ったが、急に真面目な顔になって、今回はやらないでね、と言った。私の運命
を滅茶苦茶にされると困るから。ぼくは何も言わずに黙っていた。ここまで言えば、彼女
に対してある種の宣戦布告になると思っていたのに当てが外れた。さすがに、かくも運命
論者に成り下がってしまった彼女にそんなことは保証の限りじゃない、とは言えないじゃ
ないか。彼女はすでにタイムテーブルに身を委ねているのだ。ぼくが彼女だったら、何が
何でもぼくが書き換えてしまう方に一票を投じて、選択を誤ったと後悔すらするだろう。
賭けるにはリスクが大きすぎる賭けだと思うね。しかも勝ち目のない賭けだよ。ぼくは神
様をそそのかすのが大好きだから。
 それは敢えて彼女には黙っておいた。
 すべては彼女の都合で始まったことだ。ひとつくらいぼくが我が儘を言ったって罰は当
たるまい。



 段々頭にかかっていた霧が晴れていくのをぼくは感じた。
 ぼくは黒々と空いた穴の前で立ち尽くしていた。
 思い出しかけている。
 ドーンという音が、また園内に響いた。



 彼女は手許に置いておいた時計を見た。
 針は八時を少し廻ったあたりを指している。ぼくは残ったコーヒーを一気に飲み干した。
コーヒーはもう冷たくなりかけていたが、それも不味かったかどうか。今は味なんてよく
わからなかった。きっと混乱していたのだろう。味覚だけではない、皮膚感覚も少しおか
しくなっている気がする。息苦しい。肌に蝋を塗られたようだ。
 感覚的に遠いところで、彼女は襲撃計画のことを手際よく話していた。襲撃にあたって、
動物園の見取り図、侵入ルート、爆弾の使い方(爆弾、と言うことばが出たとき、ぼくは
少し驚いた)、設置場所、時限装置の仕組み、連絡方法、逃走経路、移動手段、誰かに見
つかった時の対応、遂行時間、その他諸々。
「それでぼくは何をすればいいんだ」
 彼女の言ったことをてきぱきと頭の中に入れていきながら、ぼくは訊ねた(何しろ頭の
中が真っ白なものだから、彼女の聞き取りやすい声はすいすいと、ぼくが驚くくらいスム
ーズに記憶されていった)。彼女はにっこりと笑って言った。
「爆弾は私が用意するわ。あなたは今言った通りに動いてくれればそれでいい。あとの細
かいことは私がその都度指示するから。必要な道具類はもう全部揃えてあるし、あなたは
ただ待っていてくれればいいわ。決行の日の午後にあなたのアパートに迎えに行けばいわ
ね。自動車はアシがつかないようにレンタカーのナンバーを書き換えたものを使います。
車種は白のセダン」
「白は目立つ」
「いえ、白のセダンじゃないと駄目なの」
「何故?」
「白のセダンで襲撃に行くことが重要なの」
「よくわからない」
「私にだってわからないわ。でもそうなのよ」
「それもまた運命ってこと?」
「そうよ」
「ふん」
 何なんだ一体。
「じゃあ、どうやってナンバーの書き換えをする?」
「ナンバーを書き換えるくらい簡単よ。友達に教えて貰ったわ。やり方は秘密だけど」
 やれやれ、ぼくは呟いた。冗談じゃない。
 いや、冗談ではない。彼女は実に大真面目だった。大真面目にこの荒唐無稽な計画を立
案し、実行しようとしている。信じられないことだった。しかし計画は順調に進んでいる。
道具も揃っている。下調べも終わっている。そしてぼくがここにいる。お膳立てはすべて
済んでいる。
 今やペースは完全に彼女(とその連れ合いであるところの運命)にあった。彼女がイニ
シアチブを取っている限り、ぼくには何もできない。まったくがんじがらめだ。
 彼女は残ったレモンティーを一口啜ると、ぼくの顔を見つめ直して言った。
「決行は六月一三日、水曜の休園日を狙います。到着予定が六時半だから、あなたのアパ
ートには五時半頃に迎えに行くわ。質問は?」
「ひとつ聞き忘れていた」
「何?」
「ぼくと君の他に動物園襲撃のメンバーはいるのか?」
「いないわ。あなたと私の二人だけ」
 むう、とぼくは唸った。少なすぎる。しかし何も言えなかった。 ぼくは時計を見た。
時計の日付は十一日を指している。決行は明後日。どうやったって、今更襲撃の面子を選
定している暇はない。
 時間はなかった 。



 気が付くと猫はいなかった。多分第二の爆発現場に走っていったのだろう。ぼくはまだ、
コンクリート製の壁にぽっかりと空いた穴を凝視していた。ぼくは穴を見つめたままズボ
ンの後ろのポケットに手をやった。ポケットの中に何かが入っている感触はない。この動
作は確認のためだった。
 何度もポケットの中をまさぐってみる。やはり何もない。何かの拍子にどこかで落とし
てしまったのだろう。さっきまでそこにあり、今もまたそこにあるべきはずの物は失われ
てしまったのだ。きっとぼくのここ一、二時間程の記憶の混乱が始まった時に。
 何が起きたのかは思い出せないが、それでも何かがあった。
 そこには彼女から預かった小型無線機が入れてあるはずだった。

 もう、大体のことは思い出していた。
 ぼくは何かが起こる前まで、彼女から渡された幾つかの時限装置付きの爆弾を、この動
物園にある檻という檻に付けてまわっていた(といっても、彼女に渡された爆弾は数個だ
ったから、そんなにたくさんの檻に付けたわけではない)。そしてそのあと、彼女に管理
事務所にも爆弾を設置するように念を押されたのを思い出して、管理事務所を探していた
のだ。
 ぼくは肩がけに黒いバックパックを担いでいた。中にはそんなに軽くない物が二つ入っ
ている。さっきまでたいして気にもしていなかった。しかし明確になっていくにつれて、
そこに爆弾が入っているのを思い出した。
 ドーン、時限爆弾が数分おきにどんどん爆発していく。
 ぼくはバックパックから爆弾を取り出した。簡単な作りの大きくない爆弾だが、これで
もコンクリートの壁に穴を開けるくらいはできる。スイッチ式の爆弾で、目覚まし時計の
ような物が付いているではなく、デジタルで、設置してスイッチを入れてから一時間ほど
で爆発するようにセットされている。無論、ぼくの手の中の物は何の表示もされていない。
本当は今頃こいつもセットされ終わっていて、そろそろ爆発していたのだが。
 ぼくの手の中には時限爆弾が二つある。
 ひとつは管理事務所に。
 もう一つは、
「管理事務所の裏の檻か」
 ぼくの手の中で、爆弾は無機質な黒い光を放っていた。



「爆弾はそんなに威力の強くない物を使用する。
 理由は我々の目的は破壊活動にあるのではなく、あくまでも襲撃にあるためである。ま
た、管理事務所は必ず使用不能にすること。これは外部との連絡を絶つための配慮に基づ
くものである。人を殺すためのものではない。したがって爆弾の設置には細心の注意を払
うこと。檻の爆破は本来の目的であり、同時に動物園職員に対する陽動の意味もある。こ
の間に管理事務所の連絡設備の破壊を完了する。
 また、今計画では、襲撃の完遂を確認するは動物園園内でこの遂行を見届けるものとす
る。収容されているすべての動物が解放され、動き出すまで待ち、そのあとで然るべき手
段で迅速に撤退すること。
 動物園を無政府的状態にするのが最終的な襲撃の目標である」
 
 彼女の目的が何なのか未だにぼくにはわからない。今更かも知れないが、今こそ彼女の
本当の目的を追求しなければならない、そんな気がする。やはり、わけもなく動物園が襲
撃されていい道理はない。爆発の実感が身体に染み込み始めていた。
 彼女はじきに爆発の数が足りないことに気付くだろう。管理事務所と、もう一つの檻の
分だ。その二つのポイントが爆破されていないことはすぐにわかることだ。彼女は完遂す
ることでこの襲撃の意義を果たす。彼女は自分からそのポイントに向かうことを余儀なく
されるに違いない。
 ぼくは手の中にある二つの爆弾を見た。
 イニシアチブは今、ぼくの手の内だ。
 タイムテーブルなんかくそくらえ。

 ぼくは急いで前の管理人が入れられている檻に戻ることにした。 少なくともぼくが彼
女なら、まず先に管理事務所を爆破するはずだからだ。彼女はすぐに管理事務所の爆破に
向かう。ぼくは一時間で爆発するものの他に、予備に五分で爆発するようにセットされて
いる爆弾を彼女が用意していたことを思い出していた。もう間に合わないかも知れない。
 ぼくは走った。

 ドーンと音がした。多分管理事務所が爆破された音だろう。



 思った通りだった。
 管理事務所はぼくが見たときのままの原形をとどめていたが、合わせ硝子の窓には大き
くひびが入り、欠けたところから煙が出ていた。爆風で飛ばされたドアが五メートルくら
い先に転がり、開け放しになった入り口からもうもうと煙が出ている。多分中はもう使い
ものにならないだろう。電話も、園内アナウンス施設も、無線も何もかも。
 間違いなく彼女は襲撃を完遂させるためにタイムテーブルを修正し始めている。

 立ち止まらずにぼくは走り続けた。

「やあ」彼女の姿を認めると、ぼくは手を上げて言った。
 正直、思っていたよりも感情の抜けた声だった。彼女は檻の前に立って沈黙していた。
腕をだらりとさせて、力無く揺らしている。
「探してたんだ」
 ぼくの声に気付いたのか、彼女はまだ肩で息をしているぼくをゆっくりと一瞥した。本
当に緩慢な動きで、油を差し忘れたような機械をぼくに思い起こさせた。ぼくが見たこと
のある彼女じゃないみたいだ。
 焦点の合わない目がこちらに向くにつれて、動物園に特有の臭いとはまた少し微妙に違
った臭いが一瞬鼻を突く。ぼくをひどく混乱させていた臭いだ。しかしもうぼくには何の
影響も与えない、意味のないただの臭いに過ぎない。ぼくはそのことを確かめるように、
一度大きく息を吸い込んだ。ほら、何でもない。
 ぼくらは管理事務所の裏にある檻の前で向かい合っていた。
 檻の向こうに彼がいる。彼はぼくたちに背中を向け、檻の中心(それは本当に計ったよ
うに真ん中だった)で足を組んで静かに佇んでいた。すべてを耐え忍ぶように彼は、瞑想
しているのだ。彼にはぼくたちには聞こえない、動物たちの恐怖の声が聞こえているはず
だった。かつての管理人はその仕事から追放された今でもこの動物園を愛しているのだっ
た。そして、彼の愛する動物園は、紛れもなくぼくたちの手で急速にその秩序を失い、無
政府的になっていく。
 これからぼくたちが交わすことばが、彼を傷つけ、そして怒らせもするだろうと思うと、
少し心が痛んだ。
 ドーンと爆発音が聞こえる。今度はそんなに遠くない。微かに動物たちの声が熱せられ
た風と一緒に流れてくる。ぼくにも聞こえた。哀しい声だ。
 ぼくは軽く目を閉じた。ぼくが設置した爆弾だ。
 ドーン。また、聞こえた。
 彼の肩が揺れている。彼はやはりぼくを恨むのだろうか。
 爆発音に揺り起こされたように、彼女の目は焦点を結んだ。さっきまで澱んでいたそこ
に、はっきりとぼくの姿が映る。彼女はスムーズな動きでぼくに身体を向けた。
「連絡が取れないから心配したわ。いくら無線で呼んでも応えないんだもの。歩いて探す
にはここは少し広いし、私も爆弾を設置しなければならなかったし。あなた無線は?」
「知らない。どこかで落としたらしいんだ。きがついたらなくなっていた」
「一体どこで何をしてたのよ」彼女の声に叱責の響きはない。あくまでも淡々と物事を聞
き出そうとしている。
「それがよく覚えていないんだ。今記憶が混乱しているから、うまく明確に口で言うこと
はできない。でも予定通りの行動はしていた。だからこうして爆発が起きているわけだけ
ど」
「二ヶ所除いて」
「そう、二ヶ所除いて」
 ぼくは肩からバックパックをおろして、そうっと彼女の前の地面に置いた。口を開けて
中身が見えるようにする。
「管理事務所と、ここに仕掛ける予定だった爆弾だ」
「管理事務所はもう済んだわ」
「知ってる。今、通ってきた」
「あと仕掛けていないのはこの檻だけよ」
「君、予備の爆弾は持っている?」
「あとひとつだけあるわ。重いからあまり持ってきていないのよ」 そういって彼女は自
分のバックパックをおろした。
「何が目的です!」
 声は違う方向からした。

「一体何が目的なんですか!」
 鋭い怒気をはらんだ声だった。彼女は振り向いたが、ぼくにはそれが誰なのかよくわか
っていた。多分彼にも。
 猫。
「何故あなた方は、動物園を襲撃するのです。そんな意味もないように思われることをし
て何のメリットがあるのです。言え、こんなことはまったく無意味です。それにこれは犯
罪だ。今すぐこの破壊行為をやめなさい」
 前の管理人だった男の声は、猫の口から発せられてもその音を少しも損なってはいなか
った。
「もうこの動物園は滅茶苦茶になっている。動物たちが怯えています。やめて下さい。こ
れではただの破壊です。
 ぼくはちらりと彼女を盗み見た。彼女は猫が口をきいていることに対して少なからず驚
いているように見えた。しかし、今それに構っている暇はない。
「これは破壊なんかじゃないわ」
 彼女は小さな声で呟いた。しかし、猫の耳にはそれで十分だった。
「いいえ、破壊です」
 猫は全身の毛を逆立てて、彼女にきっぱりと対抗する立場であることを宣言した。時々
口から、フー、フーという息が漏れる。興奮している。
「私はね、昔から動物園が嫌いだった。
 動物が檻に入れられているところを見るのもおぞましかったし、コンクリートに染みつ
いた動物の排泄物の臭いには吐き気がしたわ。見てみなさいよ、あの檻に入れられて見世
物になっている動物の目を。みんな腐ってるじゃないの。怯えていて、病んでいる。腐っ
て、澱んでいるのあの目はね、卑屈に人の表情を伺っている人間の目と同じ。何だか自分
を見ているみたいで私とてもいやだった、子どもの時に何度も動物園に連れて行かれたけ
ど、その度に私は泣きそうだったわ。動物園は私にとって苦痛でしかなかったの」
『だから、壊すのか?』
 檻の向こうで聞いていた彼は、背を向けたままで言った。
「え?」
 彼女は突然の割り込みに驚いた顔をした。
「だから君は動物園を壊すのかって言ってる」
 ぼくは通訳した。ごめんなさい、私英語は苦手なの、と彼女は言った。高校教育の賜だ
ね、ぼくは冗談めかして彼女に言った。
 彼はもう一度言った。ぼくは彼の感情が伝わるように通訳することに努めた。
「そうね、そうかも知れない。でもね、私は破壊をしに来たんじゃないの。この襲撃の目
的は動物園を無政府的状態にすること。簡単に言えば、動物たちの檻を壊して、外に出て
きて欲しかったのよ。
 昔からね、見世物が外に出たら一体どんなことをするんだろうって思ってた」
「それと襲撃することと何の関係があるんです」
「わからない? そうね、猫の頭じゃわからないかもね。可哀相な猫さん、それが私の襲
撃の意味なのよ。私は実際に、現実にそして物理的に在り得ているこの動物園を襲撃した
んじゃなくて、もっと形而上的な「動物園」という概念を襲撃したのよ」
「何のために」
 ぼくは言った。それは彼女以外のここにいる役者全員の疑問だった。ぼくの横で彼が『何
故だ』と叫び、猫が「ナンセンスだ。実にナンセンスだ」と呟いた。
「外に出てきた動物たちがどういう行動を取るか実際にこの目で見てみたかった。そうし
たら私も何かがわかるかも知れない。ずっと、ずっと考えていたわ。檻の中の動物と同一
化しようとか、解放がどうとか破壊がどうしたとかそういうのじゃなくて、何だろう、う
まくことばで言えないわ。変なものね、もっと単純な動機があってもおかしくないのに、
実際に考えてみるとうまく言えないなんて。でもね、どうして本当にこうして動物園を襲
撃したのか私にもよくわからないのよ。説明はいくらでもできるけど、それは全部的外れ
になっちゃうし。やっぱり運命が一番近いわ」
 多分それは誰にも納得できないことだった。ぼくにも、彼にも、猫にも、彼女自身にも、
彼女の論理は理解ができても納得のいかないものだった。ただ、その論理がそこに在る、
と言うだけのものだった。まったく不条理なものだ。だから彼女は運命なんて彼女も信じ
ていないようなことばを使い、自身を運命論者に仕立て上げたのではなかったか。まあい
い、そこから先は彼女の問題だ。
 大体、ぼくが考えることじゃない。

「どっちにしても約束は守ろう」
 ぼくは言った。
「襲撃に協力すると言った以上、完遂するところまではつきあう。
 君が今持っている最後の爆弾のタイマーは?」
「五分よ」
「それを貸して」
 彼女はぼくに最後の爆弾を渡した。
 ぼくは彼女の前にあるぼくのバックパックから爆弾をひとつ取り出すと、かつての管理
人だった男に両方の爆弾を差し出した。
「ここからあなたを出して上げます」
 ぼくはうわずりそうになる声を抑えて、できるだけ冷静になるように言った。
「これから最後の爆弾設置場所に爆弾を置きます。設置場所はつまるところこの檻。ここ
に爆弾を置いて、それが爆発すれば、今回の襲撃予定のほとんどが完了、そして完遂した
ことを確認した時点で襲撃は完了する」
 ぼくは一度そこでことばを切った。
「そんな勝手な! この動物園を完膚無きまでに滅茶苦茶にするつもりですか!」
 猫が叫んだ。
「少し黙っていてくれ。どのみちこの動物園はもう滅茶苦茶になってるし、初めから滅茶
苦茶だったよ。君が我が儘を始めた時から」
「ぐっ」
 ぼくは彼の目を見据えた。
「さっき言ったことは嘘です。あなたをここから出してあげようなんて事は、ぼくは毛頭
考えていない。もっと言えばここに爆弾を置こうという意志もないんです。確かにぼくに
は両方が可能だけれど、ぼくにはそれを決定事項とする資格はない」
 一度彼女を見た。彼女は語るべきことをすべてを語ってしまったのか、何も言わなかっ
た。
「だからこれをあなたにあげます」
 そういってぼくは二つの爆弾を檻の隙間に差し入れた。
「右が一時間、左のはスイッチを入れてから五分で爆発します。大きくはないですけど、
これひとつで動物が一匹抜けられるくらいの穴をコンクリートの壁に開けることができま
す。人間なら這い出れば多分出ることができるでしょう。ただし使うときはどちらかひと
つです。二つ使うとどちらかが爆発したときに誘爆して、危ないから。ひとつだけ選んで
下さい。設置して、檻と奥とを分ける敷居越しに構えていれば怪我もしないと思います。
あなたにここから出る意志があることが、きっとこの襲撃の完遂と同義になるはずです」 
彼はしばらく躊躇していた。受け取るべきか否かということではなく、どちらを使うかを
迷っているのだ。何度か迷った素振りも見せた。そして彼は最後に右の爆弾に手を伸ばし
た。
「これがスイッチです。ここを押すとタイマーが動き出して、一時間後に爆発します」
 彼は頷いて、ぼくから爆弾を受け取った。
「ひとつ訊いてもいいですか」
 彼が黙って爆弾を受け取った時にぼくは呟くように言った。
「何でぼくが猫に連れてこられた時に、ぼくにやあ、さっきはとか、言ってくれなかった
んですか。あなたはまるであの時初めてぼくと会ったみたいに余所余所しかった。ぼくと
話すのはつらかったですか。でも多分あの時のあなたが一番人間という動物らしいことを
していたんでしょうね。道理で猫がご機嫌だったわけだ。誰かと話ができて嬉しかったん
じゃないんですね。まあいいです、そんなことは。そうそう、あの小型無線機ですけど、
あれは彼女の私物ですからちゃんと返しておいて下さい。
 やっぱりぼくに何も言わなかったのは、ぼくからことばをとろうとしたからですか」
 彼は何も言わなかった。猫も黙っていた。しばらく待ったが、彼女は動こうとしない彼
を見て、無線はいらない、先に車に戻る、と言って歩き出した。
「すぐに追いかける」
 ぼくが言うと、彼女は頷いた。最後まで好きになれなかったな。「でも腑に落ちないこ
とがある」
 彼は目を逸らした。
「どうしてぼくからことばを奪うのをやめたんです? せっかくいいところまでいったの
に」
 彼は決してぼくと目を合わそうとしなかった。やや間があって、かつて聞いた厳かな(す
でに空回りしかけた)声で彼は釈明しようとしていたが、彼の口から出てきたものはほと
んど意味をなさないものだった。ぼくに唯一聞き取れたセンテンスは、『それではあの猫
と同じだ』という一言だった。
 それで、もうどうでもよくなった。



「さようなら」

10

 ぼくたちが入ってきたところから外に出た。しかし、そこに停めてあったはずの白いセ
ダンも、彼女の姿も消えていた。時計は十時近くを指していた。
「やれやれ」
 誰にともなく呟いて、ぼくはそこに腰を下ろした。
 それからきっかり四十五分後に、どおんとこもったような爆発音が聞こえた。思ってい
たよりも小さな音だった。和太鼓を叩いたみたいな音だった。
 その音を聞き届けると、ぼくは暗くなった夜道を歩き出した。