ショートショット

誰かがのぞいてる

井上 由

 

「父さんでしょ、のぞいたの!」パジャマ姿の絵理子が大声を出した。「メガネのフレームが光ったもん」

 日曜日の夜、山下家の高校一年の娘絵理子は、父親が自分の入浴をのぞいたと言い出した。両目をつり上げて怒る娘を前に、当の父親は知らん顔をしてテレビを見ている。

 父親をにらむ娘を見て、母親が助け船を出す。

「猫の目が光ったんじゃない?」

「ううん、猫なんかじゃない」

「でも父さんは、ずっとここにいたわよ。母さん見てたもの」

 言われて絵理子は詰まった。母親がアリバイを証明するとは……。言葉を続けることができなくなった湯上がりの高校生は「もういい」と言って自分の部屋へ向かった。

 部屋に入った絵理子は、濡れた髪のままでベッドに座った。タオルを頭にかぶって考える。

 風呂場の窓からのぞいた人影には、たしかに見覚えがあった。メガネのフレームもかすかに見えた。絶対に父親だと思った。でも母親は否定した。もし父親にアリバイがないのなら、きっと母は「どうだったかしら」と、はぐらかすだろう。なのに母は、はっきりと父親のアリバイを主張した。となると……。

 絵理子は怖くなってきた。父親でないのなら誰なんだろう。同級生の顔を思い出してみる。男子に限定すると、メガネをかけた子は三人いる。でもどの子の家も遠いし、あの三人にそんな勇気があるとは思えない。

「だとしたら、誰だろう」

 独り言が出た。そして不意にある人物の顔が思い出された。

 絵理子はその人物を全く知らなかった。初めて見たのは二カ月前。学校帰りの道路だ。赤信号の交差点で絵理子が何となく振り向くと、陰気な男が立っていた。年は三十前後。ひょろっとして髪が短い。少しうつむいて、こっちを見ている。鼻の頭でようやく止まったメタルフレームが、鈍く光っていた。男は、まるで絵理子の後をつけるように歩いていた。家に近付いたころ、男の姿は見えなくなったが、かえってそれが不気味に思えた。そして数日後、また同じ交差点で男を見た。その日も絵理子の家の近くで姿を消している。そんなことが数回あった。

 絵理子は偶然だと思い込もうとした。たぶん男は、絵理子の家の近くに住んでいるのだ。よく顔を合わせるのは、帰る時間が似ているからだ。そう考えた。しかし今は、そうは考えられない。風呂場をのぞいていたのが、その男だとしたら……。絵理子は背筋が寒くなるのを感じた。

 翌日、絵理子が帰宅すると、父親も帰宅していた。居間で夕刊を読む父を見て声をかけようとしたが、昨日のことがあるのでやめた。「ただいま」とだけ言って、台所に駆け込む。絵理子の姿を見て、母親が言った。

「父さん、今日は早いでしょ。たまにはこういうのもいいわね」

「そうね」

 絵理子が気のない返事をする。

「そうそう絵理ちゃん。お風呂が沸いてるから、先に入ってね」

 母親の言葉に、絵理子は軽く「はーい」と答えた。

            *

「今日こそはちゃんと見るぞ」山下家の裏庭で男の声がした。その声は低く、かすれていた。男が続ける。「絵理子の背中に入れ墨があるなんてバカなことを言う奴の鼻をあかしてやる」

「いい加減にしてよ」女の声がした。「そんなのデマに決まってるでしょう。絵理子に振られた男の子が、腹いせに言ってるくらいのことよ」

「もちろん俺は、あんな匿名電話を信じてる訳じゃないさ。でも絵理子に直接聞けやしないじゃないか」

「だから私が聞くって……」

「お前が聞いたって、本当のことを言うわけがない。それに背中を見せろと言えば『子供を信じないのか』とか何とか言うに決まってる」

 山下絵理子の父親は、真剣な顔で妻に話していた。そして風呂場の窓に向かって、少しずつ体を伸ばしていく。妻はあきれて台所へ戻る。「全くうちの亭主ときたら……」と、独り言を言いながら。

 バシャーン! 妻が台所へ戻ると、派手な水の音がした。同時に「助けてくれー」という亭主の声。「やれやれ。娘と父親って、こんなものなのかしら」とあきれながら、妻は火のついたコンロにアジの開きを乗せた。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン12号(1992.11月号)掲載


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