ショートショット

昨夜のことは……

井上 由

 

 目覚めたとき、初めに視野に入ったのは、紫色の花模様だった。目を凝らす。布団カバーの模様だと分かった。頭を回すと、パッチワーク風の壁掛けが見える。その前には、何やら緑色のものがある。観葉植物らしい。すべてが、どこにでもありそうな物だ。ただし私にとっては、初めて見るものばかりだった。

 メガネを捜した。見あたらない。世界がぼやけている。目覚めたときに、周囲がよく見えないのには慣れている。しかし全く見覚えのない情景が、目覚めた瞬間に現れるというのは、精神衛生上よくない。私は少なからず動揺していた。

 部屋は六畳ほどの和室。私のアパートの寝室と変わらない。ふすま一枚でリビングらしい部屋と仕切られている。ふすまが、頭一つ分開いている。

 リビングの向こうはキッチンらしい。煮炊きをする音や、換気扇の音が聞こえる。包丁がまな板の上で、こつこつと音を立てていた。

 起き上がる。布団の上に座り、自分が置かれている状況を考えだした。

 昨日は送別会だった。同じ課の女の子が退職するので、課の有志が企画して大宴会を開催。もともと酒が嫌いではない私は、大いに盛り上がった。いつもは仏頂面の課長も、真っ赤な顔で笑っていた。

 三次会までは覚えている。マイクを離さない山下が、鈴本と青木の猛攻撃に遭い、みんなが喝采していた。課長はこの店からタクシーで帰ったはずだ。そして私は……。その後の記憶がないのだ。

 もう一度、部屋の中を見渡してみる。だれの部屋だろう。パッチワークや布団カバーの雰囲気からして、男の一人住まいではないだろう。となると、女性の部屋か。もし一人住まいの女性だったら……。私の背筋に冷たいものが走る。

 送別会に参加していたのは十五人。そのうち女性と言えば、うちの課の四人と、取り引き先の女子社員三人だ。ここが、その七人のうちのだれかの部屋である可能性は少なくない。いったいだれだろう。まさか、洋子君ではあるまい。彼女は先月婚約したと聞いている。となると好美君か。彼女は最近恋人と別れたという噂だ。もしかすると由紀子君か。いや、彼女は身が堅いと評判だ。私はつぎつぎに、送別会に出席した女性の顔を思いだした。ふすまの向こうには、どの顔があるのか……。知りたいようで、知りたくないような奇妙な気分だった。

 何はともあれ、困ったことになってしまったのは確かだ。私はここに泊まったのだから、昨夜「何か」があったとしても不思議ではない。お互い、酔った勢いのことだったとしても、笑って済まされることではないだろう。あるいは、私が酔いつぶれてここで眠ってしまっただけかもしれない。それなら安心だ。しかしそれは、あまりにご都合主義的な考えだ。いつも妻に「自分の都合のいいほうにばかり考えないでよ」と言われていることを思い出す。

 女が移動した。台所から居間のほうへ来る。ふすまの隙間からピンクの花柄のスカートが見えた。こちらへ来るのだろうか。私は焦った。相手の顔を見たら、何も言えなくなってしまいそうだ。ふすまが開く前に、意を決して言った。

「あのー、昨夜のことなんだけど……」

 ふすまの向こうで、動きが止まる。女が恥ずかしそうに「うふふ」と笑った。

 女のこの態度……。間違いなく「何か」があったらしい。もうだめだ。謝るしかない。私は一気にまくしたてた。

「申し訳ない。とんでもないことをしてしまった。昨夜のことは酒の上のことと忘れてほしい。本気じゃなかったんだ。本当にすまない」

 私の言葉が終わると、ふすまが開いた。女が怒った顔で私を見る。そして言った。

「本気じゃなかったって、どういうこと! どうしてそんなことが言えるのよ。そりゃ、あなたに黙って部屋の模様替えをしたのは悪かったわ。でもきっと喜んでくれると思って、一生懸命やったのよ。結婚してまだ半年だっていうのに、もう私が嫌になったわけ?」

 私は驚いた。同時に、ほっとした。しかし妻は、真っ赤な顔で怒っていた。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン15号(1993.5月号)掲載


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