ショートショット

嫉妬

井上 優

 

 妻が亡くなって五年。一人暮らしに慣れはじめた作家の町下は、眠い目をこすりながら仕事場に現れた。町下の仕事は、明け方始まる。夜に弱いこの作家は、朝日が昇るころ起きだして、ごそごそとワープロのキーを打つのだ。

 スイッチを入れる。ギョワーンという不思議な音とともに、画面が明るくなる。ワープロとして使っているアメリカ製のパソコンが立ち上がった。

 昨日までの作業内容を画面に出す。文字を打ち込む位置を示すカーソルを、最後の行に合わせた。そのとき妙なことが起こった。町下がキーを打う前に、画面に文字が並び始めたのだ。

 町下の手が止まる。Kのキーに置かれた右手の中指が、小刻みに震えだした。それは恐怖にも似た感覚だった。予想もつかないことが、目の前で起こっている。あり得ないことが、日常茶飯事のように展開する。それを冷静に見続けられるほど、町下は度胸のある男ではなかった。

 画面の文字は、一行で終わった。まるでワープロ操作に慣れない者が打つように、ゆっくり、ゆっくり打ち込まれ、完成した。町下が小さな声で読む。

「昨夜は、お楽しみだったわね」

 ドキンとした。自分の心臓の位置が、はっきり分かった。その上、肋骨を突き破って、最近急に増えだした胸部の贅肉を引きちぎり、目の前へ飛び出してくるのではないかという錯覚に陥った。

 昨夜のことは、誰も知らないはずだ。なのにどうして……。額から汗が流れる。

「ねえ、どうしたの? こんなに早く起きだして?」

 背後で女の声がした。町下が振り返る。女は、眠そうな目をしていた。髪は乱れ、肩の上で気ままに遊んでいる。町下が昨日着ていたワイシャツをだらしなくまとい、長すぎる袖の中に手を隠したまま、ぶらぶら揺すっていた。

「寝てろよ。まだ五時だ」

 町下がやさしく言う。

「うん。あなたは?」

「俺は、朝型なんだ」

「なーに、それ?」

「朝、仕事をするタイプなのさ」

「ふーん」

 たわいのない会話が続く。

 昨日は、アマチュア時代からの仲間作家の出版記念パーティーだった。ワイシャツの女とは、その会場で知り合った。先月、新人賞を取ったばかりという。

 小さなあくびをかわいい手で隠し、女は「じゃ」と言ってベッドルームへ戻る。するとまた、画面に文字が走った。

「やっぱり若い女の子がいいわよね」

 また心臓が爆発しそうになる。「ね」の文字の右に移動したカーソルが、チカチカと点滅する。

 完璧だったはずだ。別々に家に入ったし、女を招き入れたのは、人目につかない裏口だ。昨夜のことは誰も知らないし、誰も見ていないはずなのだ。目の前のコンピュータを除けば……。

 町下は、はっとした。

 酔った女が家に着いたとき、仕事場を見たがった。作家一年生にとっては、先輩作家の仕事場が気になるのだろう。そしてパソコンを見つけた。「わー、かわいい」女はコンピューターのデザインが気に入ったらしい。

 つまり、昨夜の情事を知っているのは、このパソコンだけ。

「まさか……」

 独り言が出た。パソコンが人格を持ち、若い女に嫉妬している。それではまるで、SFの世界じゃないか。そんなバカなことがあってたまるか。

 町下がパソコンを凝視する。もう、新たな文字は現れなかった。カーソルの規則的な点滅と、コンピューター本体から出るファンの音。それ以外に動きのあるものは何もなかった。

 画面の文字を消す。

「勘違いさ。疲れているんだ」

 自分に言い聞かせる町下。イスから立ち上がり、部屋を出る。カタンとドアが閉まった。

 誰もいなくなった部屋で、パソコンだけが動いていた。また画面に文字が走る。

「パソコンがあなたのことなんか気にするわけないでしょ。若い子と遊んでもいいけど、仏壇にお線香ぐらいちょうだいよね」

 文字がすべて現れると、画面が少しだけ暗くなった。まるで自嘲しているようだ。そして最後文字から、一つずつ消えていく。「ね・よ・い・だ……」

 この日は、町下の亡き妻陽子の命日だった。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン22号(1994.7月号)掲載


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