ショートショット

誕生日

井上 優

 

 人影を見た気がする。薄暗い電灯の下で動いたものは、人の形をしていた。足があるかどうかは、見届けられなかったが、幽霊ではない――と思いたい。

 この病院に来て一年目の新米看護婦・木下加世子は、一階のホールに続く階段を駆け下りていた。最近また太ってしまったらしく、走ると全身の肉が揺れる気がする。大好きなケーキの量を減らさなければと思った。左腕にはめた腕時計を見ると、ちょうど十二時。深夜の定期巡回の時間を間違えて、一時間早く回りだした、そのときだった。

 人影は、確かに一階へ向かっていたが、加世子が着いたとき、猫の子一匹いなかった。正面玄関はシャッターが下ろされ、施錠されている。脇の非常用出入口は、解放されているが……。

 加世子は気味が悪くなった。病院は、生死のドラマが繰り広げられる場所。ここで死んだ人は少なくないだろう。もし幽霊が存在するなら、ここに出てきても不思議ではない。加世子は自分の心臓が音を立てているのを感じた。

「患者さんかもしれないわ」

 自分に言い聞かせてみた。都合で外出しなければならない患者もいる。もしそうなら、戻ってくるはずだ。加世子はそう決めつけて、待つことにした。

 五分後、非常用の出入口が開いた。誰かが入ってくる。ロビーの長椅子から立ち上がる加世子。入ってきたのは、見覚えのある顔だった。

「沼田さん!」

 思わず大声が出た。二週間前に交通事故で入院した沼田健司が、驚いたような顔で立ち止まった。首には、むち打ち症用のコルセットをはめ、左足は包帯付きの石膏で固められている。もちろんパジャマ姿だ。松葉杖をついたまま呆然としている沼田に向かって、加世子はすたすたと近づいた。

「沼田さん、一体どこへ行ってたんです? こんな時間に外出されては困ります」

「はー、すみません」

 沼田がうなだれる。そのときカサカサとビニール袋の音がした。沼田が、手にしたコンビニの袋を背後に隠したのだ。

「コンビニへ行ってたんですね。困った人。あなたのケガは、まだ治ったわけではないんですよ」

 すまなそうな顔をする沼田。加世子は、かわいそうになった。

 また、カサカサと音がした。沼田が袋から何かを取り出した。

「これ……」言いながら、加世子に渡す。それは、小さなケーキだった。「今日は、看護婦さんの誕生日でしょ。こんなケーキで悪いんだけど……」

 突然のことで、加世子はびっくりした。新米看護婦は、患者からこんなやさしい言葉をかけてもらったことがない。目頭が熱くなる。なんだかとっても感動的な気分になり、うまく声が出せない。

「ぬ、沼田さんったら……。でも、私……」

 後は言えなかった。自分の誕生日が今日ではないなんて、とうてい言えやしない。沼田のやさしさの前では。

「ありがとう。さ、もう病室に戻って、休んでくださいね」

 ケーキを受け取り、加世子が言う。沼田は無言でうなずくと、階段を上がっていった。加世子はまた、巡回へ戻った。気分が晴れ晴れしていた。

 沼田の病室では、二人の男が待っていた。二人とも交通事故で入院している。沼田が戻ると、おなかの出た一人が言った。

「どうでした?」

 続いて、ヤセっぽちのもう一人が言った。

「うまくいきました?」

 沼田がそれに答える。

「ロビーに看護婦さんがいて、びっくりしましたよ。でも、うまくいきました。彼女、けっこう感動してたし……」

 おなかとヤセっぽちが、顔を見合わせる。

 沼田がコンビニの袋をベッドの上に置く。三人がそれぞれ、中から缶ビールを取り出してプルトップを引いた。一気に飲むと、三人同時に太い息を吐く。

「入院生活って味気ないよね。ビールでも飲まなきゃ、やってられない。沼田さんが買い出しに行ってくれて、本当に助かりましたよ」ヤセっぽちが言う。

 しかし沼田は元気がない。

「今日は僕の誕生日なんだ。せっかくケーキを買ったのに……」と独り言を口にする。

 おなかとヤセっぽちが、また不思議そうに顔を見合わせた。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン25号(1995.1月号)掲載


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