ショートショット

階段の奇妙な音

井上 優

 

 気づいたのは三日前のことだ。寝苦しいほど暑い夜で、アルコールの力を借りてもなかなか寝付けない。中学生と小学生の子どもたちは、暑さをものともせずに寝入っているのだが……。仕方なく私は、居間で仕事をすることにした。

 居間は、いつものように散らかっていた。子どもが脱ぎ散らかした靴下。女房がPTAでもらってきたプリント。朝刊の折込チラシ。数日前に買ったばかりの体脂肪計。ゲームソフトにコントローラー。たたまずに置かれている洗濯物。そんなものが部屋の中に散乱している。

 仕事といっても、大したことではない。毎朝、会社でやっている一日のスケジュール調整や、部下からの報告書のチェックなどだ。カバンから手帳と書類を取り出し、テーブルの上に仕事ができるだけのスペースを確保した。

 そのとき私は、音を聞いた。ミシ、ミシ……。そしてカサカサと何かがこすれ合うような音。とたんに私は緊張した。耳が象のように大きくなり、音のする方を凝視する。音は、確かに階段から聞こえてくるのだ。

 音の様子からして、だれかが階段を歩いているように思えた。初めは女房か子どもが暑さに負けて下りてきたんだろうと思った。しかしそうではなかった。もしそうなら、階段を下りた後、居間に入ってくるとか、飲物を求めて台所へいくとか、トイレへ行くとか、何らかの行動を起こすはずだ。しかしその音は、いつまでたっても止まらないのだ。

 まるで時間の概念のない空間へ放り出されたような気がしてきた。階段を下りているのか上っているのは分からないが、ミシミシ音は永遠に続く。そしてそれは、あまりにも確実な足どりだった。泥棒かと疑ってもみた。そうならそうで、何か「獲物」を探すはずだ。音はただ、階段で続いているだけなのだ。

 ふと子どものころに聞いた怪談を思い出した。上りは十四段なのに、下りはなぜか十三段になる階段。上り下りの途中で何かが悪さをするらしい。人はその妖怪の存在にすら気づかない。だまされ続け、いつしか夜が明けるというのだ。

 階段にまつわる奇妙な話は少なくない。私はさまざまな奇談を思いだし、ますます緊張が高まるのを感じていた。

 それから毎晩、その音は私を苦しめ続けた。寝室で眠りに入ろうとするころに、その音は聞こえた。翌日も、またその翌日も、全く寝付けなかった。睡眠不足と奇妙な音のせいで、私は気が変になりそうだった。

 四日目。夕食を終え、家族全員が入浴を終えたときのことだ。最後に入った妻が、濡れた髪をバスタオルでふきながら、体脂肪計に乗った。この機器を買ってからというもの、妻は毎日のように乗っている。

 私が冷ややかな目で見ていると、妻がゆっくりと体脂肪計から下りる。そして満面に笑みを浮かべて言った。

「やったわ! 三日で四%落ちたのよ!」

 体脂肪が減ったということは、ぶよぶよの肉が減ったと思えばいいのか。最近では単に体重が多いだけで肥満であると決めつけることはできないと言われ、体脂肪なるものが、どこででも言われるが……。

「で、どうしてそんなに脂肪が落ちたんだ?」

 私が「社交辞令」で妻に聞く。すると妻は「ナイショよ」と言って、フフフと笑った。

 その夜は、あの奇妙な物音に苦しめられることはなかった。その次の夜も、またその次の夜も、静かな夜が訪れた。

 あの音を聞かなくなってから三日後。入浴の後で、また妻が体脂肪計に乗る姿を目にした。妻は言った。

「また元に戻っちゃったわ」

 悲しそうだった。私はいくらかの同情をし「気にするなよ」と言った。

 その夜、また例の音がやってきた。せっかく終わったと思ったのに、まただ。もうたくさんだ。私はベッドから下りると、勇気を振り絞って階段をのぞいた。すると……。

 そこには額に汗して階段を上り下りする妻の姿があった。彼女は私を見つけると、照れくさそうに言った。

「階段を上るのって、とってもいい有酸素運動なんだって。脂肪を減らすにはいいそうだから」

 どうやら彼女は、階段に住む「ダイエット妖怪」にとりつかれたようだ。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン41号(1997.9月号)掲載


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