ショートショット

トイレの時計

井上 優

 

「あら? もうこんな時間?」

 夕食後のひととき、母が居間の鳩時計を見ながら言った。父も同じ時計を見て言う。

「テレビが壊れちゃったから、時間が分からんな。早く電気屋に来てもらわなくちゃ」

「そうね。こうしてテレビが壊れてみると、ありがたさがよく分かるわね」

「ははは。うちじゃあ、だれも腕時計をしとらんしな」

 父が笑いながら立ち上がる。寝る支度を始めるのだ。社会人一年生の大輔も「明日は早朝会議だから」と言いながら自分の部屋に引っ込んだ。母も早々に洗い物を終えて寝支度を始める。高校生の娘・佐緒里だけは、ぼんやりとイスに座っていた。

 翌朝、いつもの通り、父と母は先に出かけた。会社が遠いこともあって、いつもこうだ。両親が出かけるころ、子どもたちが起き出す。

 佐緒里が朝食のパンを指先でつついていると、朝のトイレを終えた兄がやってきた。そしていつもの鳩時計を見るなり、真っ青な顔になった。

「だれだよお、トイレの時計を遅らせたのは! これじゃあ遅刻だぞ」

「お兄ちゃん、いつもみたいにトイレで寝てたんじゃない?」

 佐緒里が軽口を叩く。確かに大輔は、起き抜けにトイレへ行くため、そのまま眠ってしまうこともある。しかし今日は違った。トイレの時計と、LDKの時計が、きっちり1時間違っている。トイレの時計を信じていた大輔は、もう大遅刻だ。

 大輔は佐緒里をにらみつけた。お前だなと暗に言っている。佐緒里は初めのうちは、素知らぬ顔をしていたが、あまりに大輔の顔が怖いので、ポツリと言った。

「私だって、年ごろなんですからね」

「なんだよ、その『年ごろ』ってのは」

「だからあ、お兄ちゃんとは違って、何が恥ずかしいか知ってるってことよ」

「ますます分かんないぞ」

「お兄ちゃんみたいに、居眠りするくらいトイレに長く入ってるのって、恥ずかしいことよ。そうは思わない?」

「別に。出るまで待つ。これが俺のやりかたさ」

「だから嫌なのよ。そんなのサイテーよ!」

「トイレにいる時間がどうしたっていうんだ」

「だからあああ……」

 佐緒里はポツポツと話しだす。どうやら、自分が長くトイレに入っていると思われたくないため、トイレの時計を遅らせたようだ。

「バカか、お前は」大輔が一喝する。「そんなコトしたって、お前がトイレに入ってた時間は消えやしないぞ。そんなことも分かんないのか?」

「分かるわよ。でもそれが女の子ってものなのよ。デリカシーのかけらもないお兄ちゃんになんか、分かりっこないわ」

「ええい、面倒だ。そんなチンケな話に付き合ってられるか」

 言いながら大輔は、また鳩時計を見る。

「や、やばい。これじゃあ、タクシー飛ばしても間に合わんぞ。課長にどやされるー」

 ドタドタと音を立てながら自分の部屋に戻り、大急ぎで支度をして家から飛び出す大輔。「シャツが裏返しだよ」という佐緒里の声は、全く聞こえないらしい。

 一人になった佐緒里は、居間のイスを動かす。鳩時計の下まで持ってくると、ゆっくり乗った。鳩時計が目の前にくる。そっと指先で長針を持つと、時間を戻しだした。きっちり1時間戻すと、イスから下りた。佐緒里は独り言を口にした。

「失敗だったなあ。家中の時計を全部1時間進めたつもりだったのに、トイレの時計を進めるのを忘れてたわ。でもまあ、お兄ちゃんが勝手に勘違いしてくれたからよかった、よかった」

 そして佐緒里は、夕べの夜遊びを思い出していた。深夜、友達と大騒ぎしただけのたわいもない夜遊びだったが、初めて深夜に抜け出したことに佐緒里は興奮していた。夜、出かけるために、家中の時計を進め、家族に早く寝てもらうという作戦は、まんまと成功したのだ。

 電話のベルが鳴った。佐緒里が出る。母だった。駅まできたら、いつもより1時間も早いという。「どうしてなのかなあ」と母は不思議がっていた。佐緒里はただ「私にだって分かんないわよ」と言いながら、ピンクの舌をぺろりと出していた。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン42号(1997.11月号)掲載


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