ショートショット

時間戻りの薬

井上 優

 

 男は、思い詰めていた。どんなことがあっても、女を殺したいと――。女の裏切り、ほかの男と自分を笑いものにした態度、貢いだ金額の多さ……。どれもこれもが、男に殺意を抱かせるものだった。「絶対に殺してやる」男は、毎日そればかり考えていた。

 ある夜、男は、飲み屋で妙なヤツと知り合った。そいつは高そうなスーツを着ていたが、目はどんよりと曇り、精気が全く感じられなかった。ヤツは男に、薬を売りつけようとした。

「いいが薬あるんですがねえ。安くしときますよ。これ、少しだけ時間を戻せるんで」

 うさん臭い話だった。漢方薬のような黄土色の顆粒で、数時間タイムトラベルできるという。ただし行けるのは過去だけだ。それも五時間までの過去だという。

 男がそれを買ったのは、酔っていたからかもしれない。あるいは、今の自分には、うさん臭い話がピッタリだと思ったからかもしれない。殺人を果たすまでは、まともな社会人としての意識を捨てていたい。男は、いつもそう思っていた。

 薬を買った翌日、二日酔いでくらくらする頭を抱えながら、男は半透明の袋を見つめた。薬を買ったときのことは、はっきり覚えている。

「使い方は簡単。時間を戻したいものに、この薬をかけるだけ」ヤツが言った言葉が、頭の中に響く。

「まさか、本物じゃないだろう」

 言いながら男が、今、消したばかりのタバコに薬をかける。するとタバコの吸殻が、みるみる消えていくではないか。確かに今、もみ消したはずなのに、灰皿の中は何もなくなってしまった。それどころか、火を付ける前のタバコが、テーブルの上に現れた。数十分前にそこにあったままの形で。まるでキツネにつままれたような気分だった。まさか――と思った。男はじっとタバコを見続けていた。

 一時間もたっただろうか。さっきテーブルの上に現れたタバコが突然消え、灰皿の中に移った。一時間前に男がもみ消したときと全く同じ形で現れたのだ。

 男は仰天した。まさしくこいつは「時間戻りの薬」だ。薬をかけたタバコだけが、一時間だけ過去へ戻った。そして一時間後、薬をかける前の形になった。タバコは一時間、タイムトラベルしてきたのだ。

 これは使えると思った。あの女を殺して薬をかける。女の死体は消え、一時間前の状態に戻る。いや、飲み屋で会ったヤツは、五時間まで戻れると言った。それなら五時間前の状態に戻るってわけだ。そして五時間後に女は死ぬ。これだけの時間があれば、男はアリバイを十分作ることができる。

 その日から男は、実験を繰り返した。五時間戻るにはどれくらいの量が必要なのか。それも実験の結果、分かってきた。そして、実行の日がやってきた。

 女のマンションへ行く。男を見て、女は嫌な顔をしたが、中へ招き入れた。数分後、男は女に馬乗りになり、女の首筋に力を集中した。

 死体となった女は、死ぬ寸前の苦しさからか、男の腕をしっかり握っていた。その力はすさまじく、男の力でも離すことはできなかった。

「ええい、面倒だ」

 男は、つかまれていない方の手でポケットを探ると、例の薬を取り出した。封を切り、五時間分戻る量を女の顔や手にふりかける。これでいい。これで完璧なアリバイが作れる。後は、ここから出て、遠く離れた場所に行けばいいだけだ。

 そう思った瞬間、軽いめまいを感じた。どうしたというのか。それでもめまいは、長くは続かなかった。

 男は、ベッドの上で目覚めた。朝の八時だった。今日は「その日」だ。女のところへ行き、必ず実行する。そう思いながら数時間を過ごした。十二時過ぎに出かけた。女のマンションへ行く。一時少し前についた。女は嫌な顔をしたが、男を中へ招き入れた。数分後、男は女を殺す。そして馬乗りのまま、女に「時間戻りの薬」をかけた。これでいい。そう思ったとき、軽いめまいを感じた。

 男は、ベッドの上で目覚めた。朝の八時だった。今日は「その日」だ。女のところへ行き、必ず実行する。そう思いながら……。

 時間戻りの薬は、決して自分にかけてはいけない。男はこの先、永遠に女殺しの行為を繰り返すことになったのだった。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン44号(1998.3月号)掲載


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