ショートショット

腕を引っ張るもの

井上 優

 

「ねえ、幽霊って信じる?」

 美里が聞いた。浩史は、一瞬「えっ?」という顔をしたが、慌てずに答えた。

「どうしたんだい、急に」

 会社の同僚であり恋人同士でもある二人は、今日も一緒に昼食を食べている。社員食堂でAランチを頼んだ浩史は、すでに平らげているのだが、山菜そばを注文した美里は、まだ半分も食べていなかった。

 美里の丼を見ながら、浩史は心配そうな声で聞いた。

「心配事でもあるのかい?」

「うん、それがね…」

 美里は、食べかけの山菜そばを割り箸でつつきながら、ぽつりぽつりと話しだした。

「このごろ変なのよ。誰かが私の右腕を引っ張るような気がするの。服のひじのあたりをちょっとつまんで引っ張るみたいな、そんな感じ。あれ?って思って振り向くでしょ。でも誰もいないの。そういうことが、最近よくあるのよ。これって幽霊とか霊魂とかの仕業かしら」

 美里が言葉を切ると、しばらく沈黙の時間が流れた。浩史は、どう答えようか考えているようだった。そして彼は決心した。やはり言うべきだろうと表情を新たにし、言った。

「なあ美里、僕たちがいる空間は何でできていると思う?」

「何って? 空気とか?」

「そうじゃなくて」浩史が笑った。

「分かんないわ。難しい…」

「僕たちが生きている空間は、さまざまなものの思いで満たされているんだ。君の周りの空間は、君の親しい人や、かわいがっているペット、愛用のコンピュータなんかの思いでね。その思いが、空間に影響を及ぼすんだ」

「浩史さん、何を言っているの? なんだか難しいわ。それって宗教?」

「違うよ。自分と周りとの関係をどう考えるかって話さ。そしていいかい、美里、誰もいないのに腕を引っ張られるってことは、実は君の親しい人やものに、大きな変化が起きていることを意味している。君と親しい人やものの思いで空間が満たされているんだから、その思いの一つに大きな変化があると、空間のバランスが崩れる。その表れが、腕を引っ張られるってことだったりするんだ」

「親しい人の変化を知らせてくれてるということなの?」

「そうさ。たとえば親しい人が大けがをしたとか、死んだとか。あるいは、親しい人が一大決心をして、人生の進路を変えようとしているとか」

「じゃあ私の知り合いに、何か大変なことが起きているってことじゃないの」

「そうかもしれないけど、たぶんそうじゃない。僕には分かるんだ」

「どういうこと?」

「今回、君が腕を引っ張られたのは、誰かの事故や死じゃなくて、君のごく親しい人が、人生の進路を変えようとしてるってこと。それは、たぶん僕のことだ。僕は、これから先の人生を君と一緒に過ごそうと、最近、真剣に考えだしたんだ。もちろん君が『うん』と言ってくれればだけど」

 美里は、ハッとした。近しい人の変化が、美里の腕を引っ張るという形に表れた。その変化は、浩史が彼女と結婚しようとしていることだったのだ。

 それまで結婚を前提とした付き合いをしていたわけではない二人だが、とうとう浩史が決心してくれた。そうなんだ。腕を引っ張っていたのは、幽霊などの恐ろしい存在ではなく、浩史のうれしい決断だったのだ。

 美里は、自分の頬が、ほんのり赤くなるのを感じていた。そして二人は、食堂の中で、そっと手を握り合った。

 そのとき浩史は、声にならない言葉を思い浮かべていた。

「ふ〜。プロポーズがうまくいってよかったよ。まさかあんな作り話がとっさに浮かぶとはなあ。俺って、SF作家の才能があるのかなあ」

 手を握り合いながら見つめ合う二人。浩史は自分の思いが伝わった喜びに酔いしれていた。

 そのとき、誰かが浩史の左腕を引っ張った。

「えっ? 誰?」

 浩史が振り返る。しかしそこには誰もいなかった。

「どうしたの?」

 美里が聞く。

「誰かが、腕を引っ張ったような気がしたんだ」

 それを聞いた美里は、満面に笑みを浮かべながら言った。

「それは、私が一大決心をして、新しい人生の進路を決めたからじゃない?」


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン51号(1999.5月号)掲載


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