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愛くるしい「それ」

井上 優

 

 初めて「それ」を見たのは、いつのことだっただろうか。私が日課にしている散歩の途中「それ」は突然、視野に入ってきたのだった。もしかしたら、ずっと前からそこに存在していたのかもしれない。いや、そんなはずはない。自分で言うのもナンだが、私はいつも周りに注意を払っているのだ。仲間が「ちょっと神経質なんじゃないか?」と言うこともあるくらいだが、私にとっては、これくらいがちょうどいい。そうでなければ、この厳しい世界を生き抜いていくことはできないからだ。

 散歩に出かけると、いつも二十分ほどたったころ「それ」が見えてくる。なんて愛くるしいんだろう。あなたも「それ」を見れば、きっと一目で気に入るはずだ。まあ女にはこの気持ちは分からないだろうが、男の私にとっては、めまいがしそうなくらい素敵な存在なのだ。

 来る日も来る日も、私は「それ」に恋いこがれている。いつかは自分だけの「もの」にしようと思っているのだが、なかなかチャンスが訪れない。あれほど愛くるしい「それ」のことだから、きっとほかの男も目を付けているはずだ。それが心配でならない。しかし心配ばかりしていても仕方がない。私は神経質かもしれないが、臆病者ではない。男としてやるときはやる。そんなプライドだけは忘れたくないと思っている。

 今日もまた散歩に出かけた。毎日のことだが「今日こそは…」という思いがこみ上げてくる。チャンスさえあれば、必ず実行する…。いつもそう思っているのだが、まだそれは実現していないのだ。

 しかし今日は、いつもと様子が違っていた。

 私が散歩をするコースは、いつも同じだが、いたって人通りの少ない場所なのだ。たまにジョギングをする輩を見ることはあるが、頻繁に往来がある場所ではない。もちろん知った顔に会ったこともなく、だからこそ私はこのコースが気に入っていた。周りの風景を楽しみながら、静かに散歩を楽しむことこそ、今の私には生きがいにすらなっているのだった。

 ところがどうだ。今日は新顔を見たのだ。私が「それ」に近づいたときだった。いつものように「それ」へのアプローチを伺っていると、新顔は平気な顔で「それ」に近づいていった。冗談じゃない。これまで何度もチャンスをつかみ損ねた私を差し置いて、勝手に「それ」をゲットされてはたまらない。私は大声をあげた。

「おい、お前。ここらじゃ見ない顔だな。勝手にうろつき回られたんじゃあ、こっちが迷惑なんだよ」

 すると新顔が嫌な顔をした。

「なんだって? ここは天下の往来だ。誰が歩こうと、文句を言われる筋合いじゃない。それともナニかい? ここはあんたの私道なのか? それなら謝るがね。しかし、しけた面をしてるあんたが、こんな広い場所のオーナーとは思えんが」

「言いやがったな、この野郎。もう許せん」

「なにを! こっちがおとなしくしてりゃあ、いい気になりやがって。一体、何様だと思ってやがる」

 新顔が、私に向かって一歩踏み出した。売られたケンカは買うのが道理。私も大声と共に新顔に突進する。両者が取っ組み合いのケンカを始めようとしたときだ。私の首が、反対の方向へ強い力で引っ張られた。思わず足を踏み外して転びそうになる。新顔も同じだった。私とは反対側へ引っ張られたのだ。そして声がした。

「こら、ジョン! 一体何をする気だ。いい加減にしないか!」

 私はこの声には弱い。仕方なく声に従う。新顔も同じような声によっておとなしくなった。

 私たちは何事もなかったかのように散歩を続けた。もう「それ」は後方に去っている。ああ今日もダメだった。あの銀色に輝く街路灯に、右の後足を上げて、下半身から出る液体をかけることができなかった。ああ、一体いつ、思いは実現するのだろうか。私がうなだれていると、さっきの声が言った。

「ジョン、もう帰るぞ。家についたら、たらふくドッグフードを食わしてやるからな」


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン56号(2000.3月号)掲載


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