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「例えば氏」からのメール

井上 優

 

「あの話はどうなりましたか? ちゃんとやってくれましたか?」

 朝一番に、会社のデスクにあるパソコンでメールチェックをした私は、まず初めに現れたメールを見て額に皺をよせた。たった一行のこのメールには、差出人の名前がない。発信者のものであろうメールアドレスは、全く見覚えのないものだった。だいたいアドレスのユーザーネームがtatoebaなんだからふざけている。そんな名前の人物がいたら、お目にかかりたいものだ。

 差出人も分からず、メール文の内容にも心当たりはない。たぶん間違いメールが届いたのだろう。よくあることだ。送信先を確認せずに、いい加減に打つからこういうことになる。私は不審な一行に毒づきながら、次のメールに目を移した。

 翌日の朝、日課のメールチェックをすると、またおかしな文章が届いていた。

「頼んだことは、ちゃんとやってください」

 一体、誰なんだ。私はイライラしてきた。誰だか知らないが、いい加減にしてくれ。こんな不愉快なメールを受け取るのはごめんだ。私はそのメールを「返信」扱いにして「頼んでおいたことは」という文の下に、一行空けてこう書いた。

「どなたかは知りませんが、こちらに間違いメールが届いています。送信先メールアドレスを確認してください」

 これでいい。もう妙なメールは来ないだろう。

 ところが昼食後、再度メールチェックをすると、そいつが宛先不明で戻っていた。どうやらtatoebaで始まるアドレスは、偽物だったようだ。

 偽のアドレスまで使ってメールをよこすなんて、一体誰だろう。これが間違いメールだとしても、何らかの犯罪に巻き込まれはしないだろうかと不安になってきた。やばいブツを密輸している輩が、メールで連絡を取り合っているのかもしれない。一方がブツを送るように頼んだのに、もう一方はそれをやっていない。頼んだ方、つまりメールを送った方は、相手がメールを無視していると思っている。本当は私のところへ届いたのに。しかし、間違いメールが来たことを知らせるすべは、私にはない。何せ宛先は私のアドレスだし、送り主のアドレスは架空のものだからだ。

 どうしよう。

 次の日、またそのメールがやってきた。

「私は知っています。あなたは私が何も知らないと思っていますね」

 tatoeba氏からの三通目を読んで、私の不安が一気にピークに達した。メールが届くはずの相手が密輸のブツを持って逃げたのだろうか。メールの送り主はそれを「知っている」というのか。まるでスパイ映画を見ているようだ。とはいえ、私にはどうすることもできない。しかし、しばらく考えるうちに、私の不安は、さらに高まっていった。もしも、もしもこの文面が「そう」だったとしたら、とんでもないことになる。焦った。どうしよう。仕事が手につかなくなった。終業時間になるまでが、とてつもなく長く感じた。そして会社が終わると、飛ぶようにして家に帰った。

 玄関で靴を脱ぎ捨て、二階にあるわずか三畳の書斎に駆け上がった。本棚から一冊のノートを抜き出す。ページを開く。大丈夫だ。なんだ、取り越し苦労だったのか。私はほっと安堵の胸をなで下ろした。

 そのとき背後で声がした。

「やっぱり。そこじゃないかと思ってた」

 妻が薄笑いを浮かべながらこっちを見ている。私は「やばい」と思った。しかしもうダメだ。現場を押さえられてしまった。

 妻は言う。

「あなたが競馬で大穴を当てた話は、吉本さんからしっかり聞いたわ。だから頼んだのよ、新しいテレビを買ってきてって。20年も同じテレビを使ってる家なんて、そんなにないわ。なのにあなたは無視をした。だから…」

「だから会社へ嫌がらせメールを送ったんだな」

「あなた、全然気付かなかったのね。三通目でやっと気付いてくれたのね」

 妻の表情は冷ややかだ。私が言う。

「それにしても、どうしてメールアドレスがtatoebaで始まるんだ。匿名を使ってまで俺を焦らせたかったわけか?」

「違うわよ。メールの打ち方が分からなかったから『初めてのEメール』って本を見たの。そこにtatoeba@****と打つように書いてあったからそう打っただけよ」

 なんてことだ。妻はEメール解説書にあるメールアドレスの一例を、そのまま打ってきたというのだ。おかげで私は、ありもしない密輸団の心配までし、揚げ句の果てには、メール送信者が妻だと確信できないまま、大切なへそくりのありかを自ら暴露してしまったというわけだ。


copyright:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン57号(2000.5月号)掲載


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