ショートショット

残像の理由

井上 優

 

「どうしてここにいるの?」

 吉本洋子は慌てた。会社にいるはずのないものが、そこにいる。絶対に来るはずがないのに。総務部を出た廊下で、洋子の目は、かわいい柴犬に釘付けになっていた。

 犬に駆け寄ろうとすると、総務部の幸恵と利香が近づいてきた。

「ああ、そこに犬が…」

 洋子が言うと、声に驚いた二人が、反射的に立ち止まる。辺りを見回し、洋子を見て言った。

「犬? 犬なんてどこにいるの?」

「あなたたちの足下に。ほら、そこ」

 洋子が指さす先には、毛並みのいい柴犬がいるはずだった。しかし幸恵と利香は否定した。

「何言ってるの。何もいないじゃない」

 そう言うと二人は、すたすたと歩き出した。彼女たちのちょっと太めな脚が、犬の体の中を通り抜けるように進んでいった。

「もしかして幻覚?」洋子が独り言を口にする。「やっぱり『目』の調子が悪いのかしら」

 犬がいなくて安心すると同時に、自分が幻覚を見て不安になった洋子が、大きなため息をつく。

 いつの間にか背後に、同じ課の斉藤直樹がいた。いつも静かで、しゃべっているところを見たことがない。何を考えているのか分からない斉藤直樹だが、今日は雄弁だった。

「心配しなくてもいいさ。あれは幻覚じゃないと思うよ」

「えっ?」洋子が振り向く。

「おどかしちゃったみたいだね。ごめん。でも僕にも見えたんだ、あの柴犬がね」

「あなたにも見えたって…。ということは、本当にいたってこと? ううん、そんなハズないわ。だって二人の脚が犬の体を通り抜けたんだし」

「本当に犬がいたわけじゃないよ。僕たちの『目』がおかしいんだ」

 言いながら直樹は、そばにあったコーヒーサーバーへ歩み寄る。洋子に向かって無言で首をかしげる。「飲む?」という仕草だ。洋子は「いらない」と言った。直樹は自分の分のコーヒーを紙コップに注ぐと、液面に息を吹きかけながら戻ってきた。そして唐突に言った。

「君も、もしかしたらアイマシンを入れてるんじゃない?」

「ど、どうして知ってるの? 誰にも言ったことないのに」

「知ってる、というより、そんな気がしただけさ。あのメカは、優秀なんだけど、ときどきお茶目な不具合を出すんだよ」

 アイマシンは、超小型の眼球型カメラ。重度の近視に悩む人の間で、静かなブームになっている。

「じゃあ、私が見た幻覚は、アイマシンのせいだって言うの?」

「たぶん。僕も最近気が付いたんだけど、アイマシンは残像を作りやすいんだ」

「機械が残像を作って貯めてるの?」

「そういうこと。でさあ」

 直樹が言葉を切る。飲み終えたコーヒーの紙コップをゴミ箱へ入れ、洋子を見た。

「あの柴犬、君んちの犬だよね」

「ええそうよ。うちのチロだわ。でもなんでチロが…」

「君は毎日犬を見てるだろ。早朝には君が散歩に連れていっている。それだけ毎日同じものを見ていると、アイマシンに残像ができやすいらしい。さらに君は犬――チロだっけ?――に対して深い愛情を持っている。そのため、さらに残像ができやすくなるらしいんだ」

「アイマシンの不具合は、愛情の深さにも関係するってわけね。だとすると、なかなか素敵な不具合じゃない?」

 洋子が笑った。と、そのとき、彼女は妙なことに気づいた。

「私のアイマシンにチロの残像があるのは分かるけど、どうしてあなたにまで見えたの?」

「それは…」直樹が言いよどむ。

「それにどうして私が毎朝チロを散歩に連れていってるのを知ってるの?」

「だから、それは…」

 直樹は答えなかった。しかし態度を見て、洋子は、ハッとした。もしかしたら直樹は、毎朝チロを見続けているのかもしれない。だから彼にも残像が…。もしそうなら、どういうことになるんだ? 会社では「おたく」という死語に近い言葉で呼ばれている直樹。ちょっと気味が悪い部分もある彼が、チロの残像を見ているということは…。

 気味悪く感じながら、洋子が直樹を見る。直樹は満面に笑みを浮かべながら洋子を見ていた。そしてその目には、二人の洋子が映っていた。もちろん一人は残像だが…。


copyright 2000:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン60号(2000.11月号)掲載


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