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語られ部

井上 優

 

 廊下の向こうで、女の子が微笑みながら手を振っている。見たことのない子だ。ここは二年生の棟だから、たぶん二年生だと思うが、僕には見覚えがない。どこのクラスにも何人かは目立たない生徒がいるものだし、うちの高校は一学年七クラスあるから、僕の知らない生徒がいる可能性はある。でも相手は女の子だ。それに、ちょっとかわいい。だったら見逃すはずがない。一年生なら見覚えがないのも分かるが。

 女の子が手を振りながらこっちへ近づいてくる。明らかに僕を見ている。しかしそのまま、すれ違ってしまった。人違いか…。僕は落胆した。

 こういうことは日常茶飯事だ。街では、男にも女にも微笑みかけられたり手を振られたりする。でもその微笑みは、僕の近くにいた誰かに向けられているらしいのだ。

 街の中でのことなら「勘違い」で片づけられる。でも今日の出来事は、僕の勘違いとは思えない。彼女は確かに僕に向かって手を振っていたし、すれ違った後、振り向いたが、僕の後ろには誰もいなかった。僕は「彼女は照れくさくて、わざとすれ違った」とも思わなかった。そんな照れ屋なら、初めから手を振ったりしないはずだ。

 最近、こんなことが急に多くなった。どうしてみんな僕に向かってくるのだろう。まるで話しかけるためみたいに近づいてくる。でも誰も話しかけない。

 家に帰ると、珍しく親父が先に帰っていた。親父は僕のコンピュータ仲間なので、よく話をする。で、今日あったことを話してみた。すると親父は神妙な顔で言った。

「よくあるのか?そういうことが」

「うん、最近は毎日さ。でも今日のはショックだった」僕が答える。

「お前も名実ともに『語られ部』の系譜だったんだな…」

「語られ部? なんだよ、それ。語り部なら、日本史の授業で聞いたことあるけど」

 語り部はその昔、大和朝廷に仕えた人々で、儀式のときに伝説などを語ることを仕事にしていたと、日本史の教師から聞いたことがある。しかし語られ部なんて聞いたことがない。

 親父は、ゆっくりと話しだす。

「語られ部は、語り部の傍系の存在だったんだ。歴史には残されていないが実在した。その仕事は、いつも誰かに話しかけられることなんだ。いわば愚痴などの聞き役で、この仕事に就いたらどんな話でも静かに聞かなければならない。そんな使命のため、語られ部は、いつでも誰からでも話しかけられやすい状況、表情、姿勢を持っていなければならなかった。それがDNAに乗って後世に伝えられたと言われている」

「へ?」僕は、すっとんきょうな声を出した。なんだそれ? 僕がその子孫?

 親父は続ける。

「うちの家族は今、愛知県に住んでいるが、実はもともと畿内、つまり京都の近くにいたらしい。そして…」

 親父が言葉を切った。僕が促す。

「そして?」

「そしてうちは、語られ部の家系だから、お前にそういう遺伝子が伝わっており、だからお前に誰もが語ろうとする。実際に語りかけないのは、お前がまだ覚醒して間がないからだろう。しかしさっきの話を聞いて、確実にお前がその流れの人間であることを確信した。そう、俺と同じようにな」

「父さんも、語られ部の流れの人?」

「そうさ。それで…。ま、お前もとうとう覚醒したわけだから、ちゃんと話をしておこう。実は語られ部には宿敵がいた。その名を『話部』という」

「はなしべ?」

「そうだ。彼らはわれわれとは正反対に、誰にでもどんどん話しかけるのが仕事だ。一説によれば、昔の宴の際、初めて来たお客が退屈しないようにと設けられた部署のようだが、だんだん一人歩きしだし、やたらにしゃべるようになった。彼らと出会うと、われわれ語られ部は、ただひたすら聞き入るしかなくなる。お互いの天職を全うするために、話部は話し続け、語られ部は聞き続ける。その戦いは壮絶を極めた」

 はて? なんで壮絶なのか分からないが、まあ片方が機関銃のようにしゃべり続けて、もう片方は黙々と聞き続け、それが互いの仕事となれば、ある意味、壮絶といえるかもしれない。

 座ったままの親父が頭を上げて右へ振る。台所の方を見ながら続ける。

「戦いは語られ部の惨敗だった。この戦いの記憶も、悲しいことに遺伝子が受け継いでいるのだ」

 親父が見る先には、まな板の上でホウレンソウを切るお袋の姿があった。僕は思わず「母さんは、話部だったの?」と聞いた。電話がかかると一時間は切らないお袋、僕に説教しだすと、二時間は続けるお袋。うん、確かに話部の素質十分だ。

 僕の問いかけに、親父は答えなかった。ただ口元で、フフフと笑った。


copyright 2001:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン64号(2001.7月号)掲載


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