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時間戻りの薬 2

井上 優

 

 隣で女房が文句を言っている。毎日の生活は苦痛ではないが、なんとなく不満がたまっていく。杉坂伸治は、そんな暮らしに飽き飽きしていた。結婚して十八年。明らかに太ってしまい、文句も多くなった女房を見ると「ああ、どうして俺はこいつと結婚したんだろう」と考えてしまうのだ。

 そんなある日、会社帰りに寄った居酒屋で、奇妙な人物と出会った。どんよりと沈んだ目をしたそいつは、杉坂に漢方薬のような顆粒を差し出した。
「なあ大将、これは『時間戻りの薬』なんだ。買ってくれないか? 振りかけるだけで過去へ行けるんだ。昔は五時間しか戻れなかったが、今度のは二十年以上戻れる。それと、昔のは問題があったが、今度のは自分にかけても大丈夫なんだ。なあ、安くするから買ってくれよ」

 ばかばかしい話だった。杉坂は全く信じない。でも買ってしまった。不満だらけの「今」を変えることができたら……、と思ったからかもしれない。

 深夜、家に戻った杉坂は、すでに寝ている女房を横目で見ながら、「時間戻りの薬」を手にしていた。「どうせ偽物に決まっている。でも、もし戻れるなら、女房と付き合うきっかけになった二十年前の同級会へ行ってみたいものだ。あのとき女房としゃべらなかったら、今の毎日はないはずだ。

 そして杉坂は、「信じていない」と言いながらも期待を込めて、「時間戻りの薬」を自分に振りかけた。

 気が付くと同級会の会場。薬は本物だった。杉坂は喜んだ。まだ若い女房もいた。一次会も二次会も二人は出席したが、一度も会話をしなかった。

「これで完璧だ」

 同級会が終わり、みんなと別れた後、杉坂は独り言を口にした。すると次第に意識が弱まり、周りが見えなくなった。気が付くと、二十年後に戻っていた。薬をふりかけた翌朝だ。

 この日は土曜日。会社は休みだ。過去から戻った杉坂が、起きてきたばかりの女房と顔を合わす。

「そ、そんなバカな……」

 前と変わらない女房の顔があった。

 パジャマ姿の女房に聞いた。

「二十年前の同級会で、俺はお前と話しなんかしてないよな」

「なによ突然。ええっと二十年前の同級会? そんなのあったっけ?」

「じゃあ俺たちはどうして結婚することになったんだ」

「変な人ねえ。昔のことなんか引っ張り出して」女房は笑っていた。「あれは十九年前のことでしょ。ほら、偶然、名古屋駅で出会ったじゃない。あのときあなたが私を誘ったのよ。忘れちゃったの?」

 なんてことだ。同級会をうまく切り抜けたのに、その翌年にまたこの女と出会っていたとは。そしてまた自分が誘ったとは……。

 女房は朝食の支度を始めた。こちらを振り向いて言う。
「ねえ、おいしいイタリア料理のお店を見つけたけど、一緒にいかない?」

 過去を変えたつもりなのに変わっていない。ということは、女房と自分は、まさに「運命の赤い糸」で結ばれていたということか……。そう考えると、杉坂の気持ちが安らいできた。

「そうだな。ランチに行こうか」 

 言うと、女房がまたこちらを見て、うれしそうに笑った。不思議に気持ちがウキウキしだした杉坂だった。


copyright 2003:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン75号(2003.5月号)掲載


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