ショートショット

思い出の匂い

井上 優

「カズオの奥さん、最近、亡くなったらしいぞ」

 久しぶりの同級会で、古い友の近況を聞いた。そういえば、さほど広くもない会場を見渡してもカズオの姿が見えない。妻を亡くしてそれほど日にちが経っていないそうだから、同級会どころではないのだろう。

「一度、家へ行ってみるか」

 私は独り言を口にした。


 カズオの家は隣の市にあり、私鉄の駅から歩いて15分ほどの場所だった。駅前の酒屋で見つくろってもらったワインを手土産に訪問した。

 玄関ドアの前で呼び鈴を押そうとしたとき、かすかな匂いを感じた。それはちょうど右手方向からそよいでくる。大理石製の傘立て付近からだろうか。数歩進み、鼻孔を広げるとカレーの匂いがした。同時に頭の中に映像が浮かび上がってきた。

 それは私がまだ小学生だったころのわが家の食卓だった。家族の分だけ皿が置かれ、中には真っ白なご飯と湯気を立てたカレーがあった。みんなが食卓につくと、父はスプーンを持つ前にウスターソースを取り、カレーの上へじゃぶじゃぶとかけていた。

 タクシーのクラクションで我に返った。懐かしさに頬を緩ませながら、ドアの前へ戻って呼び鈴を押した。

 カズオは私を歓待してくれた。二人でワインを酌み交わし、思い出話に浸った。途中、奥さんの話題を持ち出したが、急にカズオの表情が沈んだので話題を変えた。まだ話ができる時期ではないのだろう。

 次の週末、同級生のヒロシと二人でカズオの家を訪れた。玄関先でまた匂いがした。それは干し草の匂いだった。ウインナーと海苔の匂いもした。同時に頭の中に牧場の映像が出てくる。なんだこれはと思っていると、ヒロシが「おお、幼稚園のときの遠足だ。懐かしいなあ」と言った。牛に追われて泣いている幼いヒロシらしい子供の姿も現れた。

 玄関先に出現する匂いを嗅ぐと、そこにいる誰かの思い出が出てくる。次は何が出てくるのだろうと、私はそれが楽しみでカズオ宅へ通うようになった。

 何回目の訪問だっただろう。その日は一人で訪問した。いつものように呼び鈴を押す前に傘立ての方向へ鼻を持って行く。今日はどんな思い出だろうと、期待に胸を膨らませて近づくと、妙な臭いがした。鉄板の臭いに似ている。工事現場で遊んだときの思い出かと思ったが違うようだ。血の臭いにも思えた。

 頭の中に出てきた映像は、女の顔のアップだった。苦しそうな表情で髪を振り乱しており、額から血を流している。首の辺りには手が見えた。どう見ても女の手ではない。ということは、誰かが女の首を絞めているのだ。

 もちろん私にこんな記憶はない。しかしこれまでの例からすれば、香りはそこにいる人物の思い出を見せている。一体どうなっているんだ。

 恐ろしくなって後ずさると、背中に何かが当たった。振り返るとカズオが、コンビニの袋を手に立っていた。そして低くドスのきいた声で「見たな」と言った。私は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、足がすくんで動かない。呆然とカズオの顔を見続けることしかできなかった。


copyright 2008:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン107号(2008.9月号)掲載


Shortshot へ