ショートショット

心残り

井上 由

 葬式が終わって一カ月。また主人に会えるとは思ってもみませんでした。ただし主人は体が透けているし、足を動かさずに移動します。ああこれが幽霊というものかと、私は妙な納得をしたのでした。

 幽霊の主人が初めて現れたとき、私には「恐ろしい」というより「うれしい」という感情が先に立っていました。焼き場で骨と灰になった主人とまた会えたんですもの。うれしいに決まっています。

 でも主人は、一言もしゃべらず、立ちすくんでいるだけでした。居間の中央にすうっと現れたかと思うと、音も立てずに隅へ移動します。テレビの横あたりで止まり、壁の方を向いて立っているだけなのです。

 もちろん声を掛けましたよ。でも振り向いてもくれないし、答えの言葉もありません。数分もすると、すうっと消えてしまうのです。

 それからというもの、毎夜、主人は現れましたが、決まって一人息子が寝てからでした。まだ幼稚園児ですから早く寝てしまうんですけど、深夜十一時より前に現れたことはありません。子煩悩で、子供と出かけるのが好きだった人なのに。

 そういえば主人が亡くなったのは、子供と動物園へ行く約束をしていた日でした。心臓の急な発作で倒れて行けなくなり、そのまま亡くなってしまったのです。きっと心残りだったでしょうに。

 その夜も、いつものように幽霊の主人は現れました。もう何も答えてくれないことは分かっているので、そっと近づいてみました。主人は、うつろな顔をしているのですが、目だけは一点を凝視しています。半開きのまぶたの中にある眼球が、テレビの横の小さな棚を見つめています。棚には、買ったばかりのビデオカメラが置いてあります。それをじっと見つめているのです。
 そのとき居間の扉が開き、寝ぼけ眼の息子が入ってきました。主人が振り向きます。息子がまくしたてました。

「あ、パパだ。ねえパパ、僕、ママと動物園に行ったんだよ。ビデオも撮ってきたんだよ」

 息子はテレビの横にある棚からビデオカメラを取り出し、器用に操作して、動物園に行った映像を見せています。主人は液晶画面を食い入るように見ています。子供がゾウの前で手を振る姿を見たとき、表情が柔らかになったように思えました。

「パパと行って、一緒にビデオを撮る約束だったもんね。でも僕、ママと行ったから動物園はもういいや。今度は遊園地に行こうよ、パパ」

 息子の言葉を聞きながら、主人が口元を緩ませました。少しだけ笑った気がしたのですが、同時に、すうっと消えてしまいました。

 それから主人が現れることはなくなりました。寂しいのですが、成仏できたのだろうと思っています。

 ただこのところ不思議なことが起きています。毎日のように、玄関の郵便受けに、あの超有名遊園地へのツアーのチラシが入るようになったのです。どこかの旅行会社が投げ込んでいるのだろうと思うのですが、もう二カ月も続いています。これって、私に息子を遊園地へ連れて行けという主人の思いなんでしょうか。


copyright 2010:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン120号(2010.11月号)掲載


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