ショートショット

ゴロー

井上 由

 秋田犬のゴローは、八年ほど前、私が中学生のころにやってきた。祖父が、どこかのお寺からもらってきたのだ。当時は小さく、私のクマのぬいぐるみのようでかわいかった。成長したゴローは私より重くなった。眠っていると小さな山のようだ。体は大きいが、性格は至って温厚である。

 散歩は父の担当だった。朝と夜、毎日欠かさず出かけていたが、その父が、半年前に亡くなった。それから一カ月もしないうちに祖父も亡くなった。そしてゴローの散歩は、私の担当になった。

 父と祖父が大好きだった私には、二人との思い出がたくさんある。一緒に釣りに行ったし、三人で映画を見に行ったこともある。私は、相次いで二人が亡くなったことを受け入れられないでいた。

 ゴローと散歩をするようになって三カ月ほどが過ぎた日だった。空が赤くなりだした夕方、私たちは医療機器を製造する大きな工場の塀に沿って進んでいた。しばらくすると向こうから女性が歩いてくるのが見えた。ストレートの長い髪は乱れており、うつむいて進んでくる。足もとがふらふらするのは、ハイヒールのせいだけではないようだ。顔を下げたままで進んで来る姿を気味悪く思ったが、急に戻ると変に思われる気がして、そのまま進んだ。

 女がすぐ近くまで来る。下を向いた顔のうち、少しだけ見えた口の両端が上がっていた。笑っているのだ。ニヤニヤといやらしく笑っている。気味が悪い。女性との距離は二メートルほど。私は横を向いてすれ違おうとした。

 そのとき男の声がした。

「憑(つ)かせはしない」

 低く小さいが、どっしりと重い、力を込めた声だった。

 瞬間、女から笑いがなくなった。顔を上げ、こちらを向くと、露骨に嫌な顔をして睨(にら)みつけてくる。口から「チッ」と舌打ちが聞こえた。

 女とすれ違ったあとで、私は周囲を見渡した。声を出した男を探したのだ。しかし誰もいない。前後にはまっすぐ続く道路、左には工場の高い壁、右には低い樹木がびっしりと生えた公園の生け垣。人の姿はどこにもない。さらに、今すれ違ったばかりの女の姿もなかった。ただ、女が歩いていたであろう場所に、かすかな靄(もや)が立っていた。心なしか黒ずんで見える靄だった。

 怖くなった。女はどこへ行ったのか。男の声はどこから聞こえたのか。私は恐怖を抑えるために、しゃがみ込んでゴローに話しかけた。

「さっきの女の人、どこへ行っちゃったのかな。それに男の人の声がしたけど、あれはナンだったの」

 ゴローは答えなかった。じっと私の瞳を見つめるばかりだった。
 しばらくの間、巨体のゴローの目を見ていたら、少し安心した。私は立ち上がると、独り言を口にした。

「ゴローに聞いても分かんないわよね。でもあの声、おじいちゃんの声に似ていたけど……。まさかね」

 するとまた声がした。それは確かにゴローから聞こえていた。

「じいさんだけじゃない。俺も見守っている」

 間違いなく、父の声だった。


copyright 2010:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン121号(2011.1月号)掲載


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