ショートショット

百円玉

井上 由

 中学生のころ、技術・家庭科で使う道具の代金が足りないことがあった。確認して持ってきたつもりだったが、百円足りない。仲のいい友達に借りようとしたが、だれも余分を持っていないと言う。そのとき誰かが百円を貸してくれた。私は礼を言って借りたのだが、そのお金を返していないのだ。さらに誰に借りたのか覚えていない。そのことがずっと心の澱となって残っていた。

 あれから随分な年月が経ち、髭にまで白髪が交じるほどのいい年になってしまったが、事あるごとに百円借りたことを思い出し、心を痛めていた。友人に話すと「昔の話だし、百円くらいなら貸した方も覚えていない」と言う。私も「おそらくそうだろうな」と思うのだが、心の澱は依然として残り続けていた。

 ある夜のことだ。仕事を終え、自宅へ向うクルマを運転していた。コンビニを通り過ぎ、左折して住宅地へ入ったとき、左から声が聞こえた。クルマには誰も乗せていない。ラジオがついていたのかと思ったが違った。助手席にセーラー服姿の女の子が座っていたのだ。

 その顔には見覚えがあった。

「カナ……子?」

 中学三年生のとき、同じクラスだったカナ子に間違いなかった。

 カナ子が言う。

「まだあの百円のことを気にしているの? 卒業式の日、校門を出るときに返してもらったよ。私の手に百円玉を乗せてくれたよね」

 中学生のカナ子が助手席にいることに驚くより先に、私は十五歳の自分を、そして卒業の日の出来事を思い出していた。「そうだ、俺はカナ子に百円を借りて、卒業の日に返したんだ」と独り言が出た。

 私の声を聞いてか、カナ子は、

「思い出したのね」

とほほえんだ。そして少し寂しげな顔をすると、

「じゃあ、私、いくね」

と言い、音もなく消えてしまった。

 怖いとか、不思議だとかいう気持ちにはならなかった。「そうだった、思い出した」という思いが、頭の中を駆け巡っていた。

 クルマが自宅に着き、エンジンを切ったとき、ケータイが鳴った。出ると、中学時代から仲のよい友人だった。彼が言う。

「カナ子が亡くなった。俺、参列するつもりだけど、お前もくるか?」

 突然、涙があふれ出した。どうしてなのか分からない。電話は「どうする?」と繰り返す。私はやっとの思いで「行くよ」と言った。

 何かが頭の中で鮮明になった。どうしてカナ子が助手席で百円の話をしたのか分かった気がした。気付かなかった。いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。百円を借りた思い出は、唯一、私とカナ子だけのつながりの出来事。私はそれを忘れたくなかったのだろう。だからいつまでも百円を返していないと思い込み、心の底に思い出をしまい続けたのだ。

 いくら年を取っても、十代の淡い思い出は色褪せることはない。あれは私の初恋だったのだろうか。

 通夜会場に置かれた写真のカナ子は、中学時代よりふくよかになり、目尻に皺を寄せて笑っていた。


copyright 2011:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン122号(2011.3月号)掲載


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