ショートショット

着信

井上 由

 会社が休みの日、買い物に出かけた。二十代の女一人の買い物だが、一人で過ごすのに慣れているため、少しも苦ではなかった。

 地下鉄を降り、地上に出てデパートへ向かって歩きだしたとき、歩道に設置されたベンチの下に、携帯電話らしき物が落ちているのを見つけ、拾い上げた。

「落とした人、困っているわよね」

 電話帳メモリを見れば、家族の番号など分かるかもしれない。そう思って操作しようとしたが、使い方が全く分からない。通話のオン・オフボタン以外、何も見当たらない。私は途方に暮れて歩きだした。交番へ届けようと思ったのだ。

 歩きだすと、すぐに着信があった。持ち主の家族からかもしれない。そう思って通話ボタンを押し、耳に当てると、女の子が数を数える声が聞こえてきた。

「一、二、三、四……」

 ゆっくり、楽しそうに数える声は、エコーが掛けられているかのように響いている。立ち止まって「もしもし」と声を掛けたが、相手には聞こえないらしく、十一まで数えたところで通話が切れた。

 しばらくして横断歩道を渡り切ったとき、また着信があった。数を数える女の子に声を掛けたが、やはり反応がない。これはだめだと思ったが通話を切る気になれず、電話を耳に当てたまま歩道を進んだ。

 女の子の声を聞きながら、なぜ数を数えているのか考えた。ゆっくり数える声が響いている。そうか、お風呂の中で湯船に浸かって、上がるまでの数を数えているんだ。

「三十八、三十九、四十……」

 声は続いている。そういえば、幼いころ私は、誰とお風呂に入っていたんだろう。今まで考えたこともなかったが、奇妙なことに全く思い出せない。

「なんで思い出せないんだろう」

 言いながら私の意識は、ますます電話の声に囚われていく。

「四十四、四十五、四十六……」

 聞くうちに、頭の中がくらくらしてきた。何かがおかしい。何かが頭の中にある。でも思い出せない。思い出してはいけないような、でも思い出したいような……。

「四十七、四十八、四十九」

 突然、電話の女の子が数を数えるのをやめた。そして「ひーひー」と乾いた悲鳴をあげだした。それを聞いた私の中で何かが弾けた。気がつくと電話に向かって「お父さん!」と叫んでいた。

 その瞬間、全てを思い出した。小学校へ上がったばかりのころ、大好きな父と一緒に入ったお風呂で、父が突然意識をなくし、ずるずるとお湯の中へ沈んでいった。同じ湯船で数を数えていた私は、突然のことで言葉をなくし、ひーひーと引きつった声を出すことしかできなかった。思い出したくない過去だった。

 歩道で立ちすくむ私の耳に、女の子ではなく、男性の声が響いた。

「大きくなったんだろうな。きっと綺麗になっているよな。自慢の娘だから」

 蘇った記憶の中にある父の声だった。やさしく、ゆったりしていた。そして私は、自分の心がゆっくりと温かくなっていくのを感じていた。


copyright 2012:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン128号(2012.3月号)掲載


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