ショートショット

右袖のボタン

井上 由

 日曜のお昼過ぎ、歩道を歩いていたとき、人混みを避けようとしてカレー屋の看板にぶつかった。腕が看板の角に当たり、ジャケットの右袖のボタンが飛んでしまった。幸い目で追うことができたので、拾い上げて右ポケットに入れた。

 独り暮らしのアパートに戻ると、ジャケットをハンガーに掛けて、いつものように鴨居に掛けた。

 僕はボタン付けができない。小学校の家庭科の宿題にボタン付けがあったが、ズルをして母親にやってもらった。だからボタンの取れたジャケットは放置状態になった。

 翌日からまた一週間が始まった。会社へ行き、帰ってくる。彼女がいなくなってからというもの、僕の日常は本当に単調だ。

 三日後の水曜日の夜、いつものように自室で簡単な夕食をとっていた。コンビニのトンカツを噛みながら、なんとなく顔を上げるとジャケットが目に入った。日曜からずっと鴨居に掛けっぱなしなのだが、その日は、なんとなく違和感を持った。何かが違う。気になった僕は立ち上がり、ジャケットを手にした。そして違和感の理由を目にした。右袖のボタンが付いているのだ。

 そんなバカなことはない。この部屋にはここ数週間、自分以外、誰も入っていない。自分はボタン付けができない。なのになぜ……。

 立ったままの姿勢で考え続けた。もしかしたらボタンが付けられたのではなく、ジャケットがすり替えられているのではないか。しかしなぜすり替える必要があるのか。僕は平凡な一会社員で、企業の秘密を握っているわけでもないし、何かの犯罪に荷担しているわけでもない。

 ジャケットすり替え説は現実的ではないと考え、別の可能性を考えてみた。

 もしかしたら時間を遡っているのかもしれない。今日は、実は先週の今日なのかもしれない。それならまだボタンは取れていない。時間が一週間戻っていることに、自分が気付かないだけかもしれないのだ。

 この考えは、かなり現実的な気がした。ところがそれを打ち消すような言葉が聞こえた。間違いなく彼女の声だった。

「あなたが過去に戻れるなら、三年前に戻ってほしいわ。でもできないでしょ。非現実的なことを考えてちゃダメよ」

 三年前、病死した彼女だ。彼女は続ける。

「あなたは炊事や洗濯は一通りできるけど、ボタン付けだけはできなかったわよね。だから私がやっておいたから」

 なんてことだ。姿は見えないが、まさか亡くなった彼女と会話ができるなんて。僕はとにかくうれしかった。でも待てよ、少し気になることがある。僕が言う。

「非現実的なことを考えるなと君は言ったけど、亡くなった君がボタン付けをしてくれるのは、非現実的なことじゃないんだろうか」

 すると彼女は小さく笑い、そして言った。

「とにかく、ボタンは付けておいたから」

 僕は目の前のジャケットに起きた現実を受け入れることにした。


copyright 2012:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン130号(2012.7月号)掲載


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