ショートショット

パストセメタリー

井上 由

「ラーメン屋さんの隣の家にいる犬はどうなの? もう大丈夫なの?」

 夕食のとき母が突然、私に言った。「何の話?」と聞くと「忘れるくらいなら大丈夫ね」と笑った。続けて母が「駅前のコンビニの店長さんとはもう大丈夫なの?」と言う。駅前にコンビニなんてあったっけと言うと「毎日行ってたじゃない」と言われた。全く訳が分からない。

 翌朝、母はいつもより早く出かけた。母一人、娘一人の暮らしのため、私が起きたときにはもう誰もいなかった。朝食を食べ、学校へ出かける準備を始めるが制服が見当たらない。携帯電話で母に聞くと、どこにも移動していないと言われる。仕方なくあちこち探してみたら、クリーニングされてタンスの中にあった。それを着て学校へ行く。

 正門の近くで担任に会う。あいさつをすると「なんでここにいるんだ」と言われた。「高校はどうしたんだ。なんで中学の制服を着ている」とも言われた。先生も母と同じだ。変なことばかり言う。

 結局、学校へは入れてもらえず、すごすごと家に帰った。家には誰もいないので、近くに住む祖父母の家へ行くことにした。高齢の祖父が病床についているため、できるだけ顔を出すように心がけていたのだ。

 床についた祖父は満面の笑顔で迎えてくれた。私は、今日あった出来事を話した。母といい、先生といい、変なことを言うので気味が悪いと言った。それを聞いた祖父が驚いた顔をして「あそこへ行ったのか」と言った。「あそこって?」と問うと「それも忘れてしまっているんだな」と言う。そしてこう続けた。

「先週、わしが話した過去墓場のことを覚えているかい」

 そういえばそんな話を聞いた記憶がある。祖父が持っている山の中に、過去を消せる場所があるとかないとか。英語でいうならパストセメタリーだと笑い合ったことが思い出された。でもそんなの都市伝説だと思っていた。祖父が続ける。

「お前が犬やコンビニ店長のことを忘れたのは、過去墓場で消したからだろう。高校へ行かずに中学へ行ったのは、高校でのことを全部消したいと過去墓場で願ったからだろう」

 そういえば祖父は先週、言っていた。「どうしても消し去りたい過去があったら、うちの山にある過去墓場へ行き、消したい過去を念じるんだ」と。ということは私はすでに高校に通っていたが、その過去を消したため、自分が通っていたことを忘れてしまったということなのか。それどころか、高校の友人も私のことを覚えていなくて、教室には私の席がなく、出席簿にも生徒名簿にも私の記録さえないということなのか。

 祖父が言うように私が過去を消していたとしたら、高校での自分の居場所と、高校で積み上げてきたものを一気になくしたことになる。人は過去があるから今の自分がある。その一部がごっそりなくなったとなれば、自分が何者なのかも分からなくなってしまいかねない。そしてもっと恐ろしいことに、どんな過去を消し去ったのかも、もやは思い出すことができないのだ。その恐ろしさに気づいたとき、呆然と立ち尽くすしかできなかった。


copyright 2015:Yuu Inoue(Masaru Inagaki)  ffユニオン147号(2015.5月号)掲載


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