毎日の気づき・発見抄    Daily abstract

2006.12.29(金曜)
自由ということ

自由とは、心の力がみなぎっていること。
心の力の発生源は、安心。
安心があるから、自信が生まれる。
自信があるから、自由になれる。
安心、自信、自由。
恐怖からの競争発想で安心を得ることはできない。
安心からの自由発想を。
今年もお読みいただき誠にありがとうございました。
ものの見方、考え方、価値観が変わっていくことが成長であると考えています。
来年は1月4日から書き始めるつもりです。心安らかなる年末年始をどうぞ。

2006.12.23(土曜)
ヒットラーは、いじめられていた

 子どもたちは成長過程でさまざまな心の傷を受けていく。
それは必ずしも親からとは限らない。
友だちから、兄弟姉妹から、身近な人から、見知らぬ人から、体罰を受け、いじめられ、
卑下され、差別され、痴漢行為をされ、レイプされ、ばかにされ、無視され、うそつきよばわりされる。
でもだからといってそれらの心の傷がみな心的外傷(トラウマ)になるわけではない。
なぜなら人間の強い生命力は、たいていの心の傷を自ら癒してしまうからだ。
 ころんで擦り傷を作っても、バイキンさえ入らなければ自然に治ってしまう。
スキーで骨折しても時間がたてば、またもとに戻ることができる。
心の傷も同じだ。条件さえ整えば本人の自然治癒力がなおしてくれるのだ。
 ただその条件が整わないときは、心の傷は目に見えないところで膿み、もろもろの問題を引き起こし始める。
その問題のひとつの現れ方が暴力である。
自分を攻撃対象にする暴力は、自殺や、嗜癖をもたらし、他者を攻撃対象にする暴力は、いじめや犯罪を生む。
アドルフ・ヒットラーにおける暴力性の発生の研究をしたアリス・ミラーは、
ヒットラーが子ども時代に受け続けた父親からの虐待、体罰、
そしてそれを支持した母親からの心理的虐待が彼をして暴力の権化となさしめたことを指摘している。
出典:森田ゆり著「エンパワメントと人権」

2006.12.18(月曜)
内なる安心を組織しよう

今、わたしたちは不安の時代に生きている。
不安の要因は人によって異なっても、共通することは、不安は誰にとってもたいへん危険な感情だということだ。
以下、不安の危険な要素をあげてみた。
1) 不安は伝染する
2) 不安に圧倒されると人は理性的判断をできなくなり愚かな行動や選択をしてしまう。
3) 不安はお金になる
4) 不安は支配の道具に使われる
5) 世論をつくりだすために、不安は人工的に煽られ、わたしたちはそれに翻弄される。
出典:http://www.geocities.jp/empowerment9center/huan.htm

2006.12.10(日曜)
具体化してしまっている

人と自然。
自然は人に影響を与える。
しかし、人は自然をつくることができる。
ニコニコしている人には、ラッキーな自然(道端の花)が与えられる。
辛辣な「言葉」を吐いている人には、アンラッキーな自然(季節はずれの蚊)が与えられる。
【具体】: 人間の感覚でとらえられるものであること。形や内容を備えていること。

2006.12.8(金曜)
新庄選手は運を引き寄せる

新庄選手は、いつもスタンドを見ていた。
ここが凡庸なる野球選手との違い。
常に笑顔を絶やさない。
誰も日本ハムの優勝を信じていなかったにもかかわらず、
優勝すると宣言してしまう。
そして、同僚に呼びかけた。
「笑え!」「笑え!」
そして、優勝してしまう。
新庄選手は「C型人間」だ。
C型人間とは、最高のプレッシャーのなかで最大の力を発揮する人間。
もしお読みでなければ、一読をおすすめします。
講談社文庫、1990年初刊、現在廃刊のようですが、アマゾンで1円から買えるようです。
書名「 C型人間」 (文庫)

2006.12.5(火曜)
タイガーウッズを鍛える

いまをときめくアメリカの若き天才プロゴルファー、タイガー・ウッズのゴルファーとしての成長と教育の過程を、コーチでもあった父親アールの厳しくも優しいまなざしで描いた本『トレーニング・ア・タイガー』のなかでもっとも私に強い印象を与えたのは、ようやく一歳をむかえた、まだ乳児とすら呼べそうなタイガーがパターを小脇に抱えて、グリーン中央のカップの穴のなかへ手をさし入れている一枚の写真だった。一歳の誕生日を迎える五日前のクリスマスプレゼントとして、特別に短く切ったパターを父親から贈られたタイガーは、パッティングからそのゴルフの深遠な世界へと入っていった。三十センチの距離から穴に確実に、何百回も失敗なく入れる特訓からはじめて、タイガーの練習はやがてグリーンまわりからのチッピング、グリーンから数十ヤードからのピッチング・ショット、そして最後にアイアンおよびドライヴァーのフルショットヘと移行していったという。
出典:今福龍太著「スポーツの汀」 p20

2006.12.4(月曜)
聞くと見るでは大違い

無知無能であるがこそ、
多くのことを最高効率で学ぼうとする。
そのときに、ネットなどのITツールはとても便利。
知りたいことのだいたいの輪郭とか骨子をネットから知ることができる。
そして、知ったことを踏まえて新たな言動が生まれてくるのだが、
ネットや本で知ったときよりも、
実際にそのものやことを見たり体験したりして知ったことはしっかりと根付いている。
だから、反射的に出てくるし、さらなる発展性もある。
体を通して直接に学ぶということ。

2006.12.1(金曜)
所詮、個人は無知無能

無知無能とはなんとも爽快なる言葉である。
個人がどうあがいても全知全能にはなり得ない。全く無知無能の個人。
エベレストとマリアナ海溝の高低差も地球の半径の1,000分の1。
地球はすべすべの球体である。
所詮、個人差とはこの程度の差。
いずれ、全知全能の大宇宙と比較するなら全くの無知無能な個人なのである。