【ニューヨーク発】東16丁目のちゃぶ台
[ Last Updated : 10/24/02]
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イカガオスゴシデスカ?
強くならないと人に優しくはできないのよ、と友人が私に言った。それは彼女の娘がこのまま一人っ子だと「やわ」に育つのではないかという危惧を語っていたときだと思う。私は彼女の言葉に深くうなずいたのを覚えている。彼女の娘のことではなく強さと弱さの関係に付いてである。
人はときとして弱さを優しさと勘違いする。強さのない優しさは単なるごう慢だったり、無責任になったりする。
ある生放送番組で私の演出の一部にプロデューサーが反対した。彼は私の演出が『いつものフォーマットと異なるから』という理由で断固反対した。でも私はだからこそそうしたかったので押し続けた。番組が始まる数分前まで激しいやり取りがあって、出演者も技術者も焦り始めたころに私が折れた。もともと非常に保守的な番組だったし、プロデューサーの意向を尊重した。私は彼の主張に納得して折れた。だから番組が始まってみれば逆にこれで良かったのだとさえ思えた。
「ゴメンねえ、朝香ちゃん、無理、言いました」
番組終了後、開口一番、プロデューサーが私に謝罪した。
腹が立った。なんだよ、そう簡単に謝るなよ、こっちだって腹を括っているんだぞ、と。彼が思っている優しさの表現が私を始めその日の番組を質を落とした気がした。
以来、彼を心から信頼できず、一緒に仕事をするたびに苦しい思いをした。
私は指示通りに仕事ができないアシスタントを立て続けに数人、首にしたことがある。あとで同僚からもういない彼らのこぼれ話しを聞いたりすると、彼らなりにがんばっていたのかも、と思わないこともなかった。でもただの一度も申し訳ないことをしたとは思ったことがない。
過分に相手をいたわったり、恐縮したりというのはときとして自分よがりで、相手を傷付けて終わる。だからこれは他人に対する私なりのリスペクトでありフェアな態度であり、責任を負うということになっている。
私は思ってもいないことは口にしないたちである。
誰かと会話をしているときに相手に対してここでこう言えば相手は喜んだり安心したりするのかも、と予想できても自分が実際にそう思わなければ口にしないことが多い。では思っていることを正確に口にできるのかというとこれがそうではなく、自分でもそれはたちが悪いと思う。つまりは「あの人、ただの偏屈ではないの」ということになる。だから最近はたまに人当たりのいい言葉を発するように努力することがある。ところが言い慣れていないのでどうもすっきりしない。相手が「またアンタ、見えすいたこと言って」と心の中で思っているのではないかと勝手に想像して赤くなったりする。私が発する「それは良かったですね」とか「そんなことはないですよ」とか「お元気でしたか」といった言葉がひとをコンフォートすることができるのだろうか。
そこで私はある疑問を持つ。
常識ある友人が言うように人は強くならないと他人に優しくはできないのだろう。なら強い人は必ず優しい人になれるのだろうか。
私はしばしば人から強い人と表現される。そうかも知れないと思う反面、私はそのたびに自分がひどく孤独な気がして不安になる。でももしかしたらその不安は強さを備えていながらそれに比例する優しさを自分は周りに還元していない、という自信のなさの表れなのではないか。
場合によっては久しぶりの挨拶だけでも言われたら嬉しいさ、とコミュニケーションに長けたアメリカ人のボーイフレンドが言う。その言葉に背中を押されていま私は前につんのめっている。
イカガオスゴシデスカ、ゴブサタシテイテゴメンナサイ。
朝香初美
テレビ・ディレクター
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