【ニューヨーク発】東16丁目のちゃぶ台
[ Last Updated : 12/25/97 ]
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泣き笑い
私のアドレス帳にどうしても消せない人の名前がある。
私はかなりマメに自分の手帳を書き替えるほうで、今のアドレス帳をかれこれ10年以上使っているけれど、どの人の名前を見ても「あら、この人と最後に連絡取り合ったのはいつだったっけ?」ということはない。毎年末のこの時期に必ず何人かの名前の新旧交代を恒例にしている。
なのに15年以上も音信不通であるその人の名前を消すことができない。『全取っ換え』で新しいアドレス帳にするときも迷わずにその名前をまた書き込んできた。
毎年、年賀状の季節になると…アメリカに来てからはクリスマスの時季になると…、私は「A」から順番に季節の便りを書きながら必ず「K」のその人のところで止まってしまう。便りを出すのに躊躇するのではなく、そこは名前だけで住所と電話番号が空白だからである。
私がKさんと初めて会ったのは小学生の時で、彼女は同じクラスの転校生だった。登下校の方向が同じで、学校の帰りに指定の文房具屋さんを教えたり、ノートを貸したりしているうちに自然と一緒にいる時間が多くなった。
『仲良しグループ』では同じグループだった。学級新聞を一緒につくったり、夏休みには一緒に図書館で宿題をやった。つまらないことでケンカをして「バカ!」「一生クチきかない!」などとできることなら今使ってみたい素直な言葉をその頃は平気で投げ合えた。
幼い頃というのは、ただそこにいたからという理由で友達になれたのである。
それからずいぶん日がたち、誰もKさんが転校生だったとは思い出さなくなっても彼女にはあまり新しい友達ができなかった。私はといえばKさんに教えることがなくなってしまうと彼女のことを気にかけずほかの友達と走り回っていた。機会があれば一緒に、と誘ったが彼女はたくさんの子が集まるところにはあまり来なかった。だからその頃の多人数遊戯の双璧、「缶ケリ」と「警察と泥棒」を彼女とした記憶がない。
「私、初美が大すき。だって人の悪口を言わないから。」
久しぶりに一緒になった学校からの帰り道でKさんから突然そう言われて本当にびっくりした。なんせ私はその頃から通信簿に必ず「好き嫌いが激しく」「飽きっぽく」「ものおじしない」と書かれ、平気で面と向かって「アンタ、嫌い。」と言ってのける子だったのである。そんなことは平気でできるくせに、面と向かって誉められるとなぜかむっとする子だったので、「えー、言うよ。知らないだけだよ。」とぶっきらぼうに言葉を返した。
「ううん、言わない。初美は言わない。私、悪口言う人大嫌い。本当に嫌い!」
そのときのKさんは珍しく語気を強めて声を震わせていた。そのことを家に帰って台所に立つ母に言うと母は手を止めて私の方に向き、一言だけ「仲良くしなさいよ。」と言った。
私たちは同じ公立の中学に進学した。その頃になるとだんだん自分の趣味の範囲の友人や交友範囲が傾向を帯びてくるようになり私もKさんもそれぞれ違う学生生活を送るようになった。
一度だけKさんのうちに遊びに行ったことがある。とてもモダンな家で、ピアノの上に私が今まで見たことのない大きな人形や何枚もの家族の写真が飾ってあった。私のうちはちゃぶ台だったがKさんのうちはダイニングテーブルだった。Kさんのお母さんは、あれ、泣いてるのかな?と思わせるほど上気して私の訪問を喜んでくれた。言葉に少し不思議な訛りのあるお母さんは「仲良くしてくれてありがとう、ありがとう。」とお菓子やらジュースやらを次々と運んで来て私とKさんが2人っきりになる時間がなかった。そのうちにKさんのお兄さんと妹も加わって下にも置かない、たいそうなおもてなしを受けてしまった。目を白黒させている私を見てKさんはただにこにこ笑っていた。
ある日、教室の2階の窓から何気なく登校してくる人を見ていたらその中にぽつりとKさんの姿があった。まわりで朝の挨拶をかけ合っている人々の中で彼女だけ誰からも声をかけられず、誰にも声をかけなかった。それでもKさんは別段寂しそうでもなくいつもきっと口を結んでまっすぐに前を見ていた。上から声をかけても聞こえているはずなのに絶対に上を見なかった。一度上から消しゴムを投げたらびっくりするくらいきつい目で上を見上げた。投げたのが私だと分かると泣き笑いの顔をして笑った。
そのうちにKさんを中傷する言葉が耳に入って来た。誰に聞いても理由が定かではない。残酷な年代の村八分は理由もわからないままどんどんエスカレートしていく。私は顔を合わせれば言葉を交しはしたがさすがに本人にどうして孤立してしまったのかは聞けなかった。私は日に日にクラブ活動と先輩男子に忙しくなりKさんのことを気にかけなくなった。
私がその事情を知ったのは結局、中学生生活最後の卒業式の日だった。
卒業証書授与式で呼びあげられたKさんの名前は私が知っている彼女の名前ではなかった。彼女が日本人でないことを私はそれまで全く知らないでいた。
私の隣にいたクラスメイトがつぶやいた。
「変な名前。よく恥ずかしくないよね。」
私は心の底からびっくりした。なんでKさんが恥じなくちゃいけないのか、どうしてクラスメイトが醜く口を歪めてそんなことを言うのか全く理解できなかった。
妙に不自然に静かになった会場でKさんはゆっくりと校長先生から証書を受け取った。Kさんはいつも通り冷静な顔で口元を引き締めていた。私は涙がこぼれて仕方がなかった。私の通信簿に書き漏れていた「浅はか」な自分と、私たちを取り巻くすべての世界とKさんの強さに腹がたった。Kさんは決して泣かなかった。そういえば小学校の頃から一度も泣いたところを見たことがなかった。Kさん、今泣け、一緒に泣いてしまおう、今なら堂々と泣けるよ!
Kさんは泣かなかった。式が終って探してももう彼女の姿はなかった。私はその日、一日中泣いてすごした。
私立高校に進んだKさんは引っ越しをした。しばらくの間は電話で新しい学生生活のことや近況を話したりしていたが、そのうちに彼女は新しい連絡先をくれないままどこかにまた引っ越してしまった。
私たちは結局彼女の国籍に関することを何一つ言葉にしなかった。私はどうしてもそんなことは『関係なく』したかった。Kさんはまた別の理由があって言わなかったのだと思う。
歳をとるごとにKさんを想う気持ちが強くなった。でもそれは私の思いあがりの様な気もして、あえて連絡先を調べようとは思わなかった。そうしてもう15年以上が経つ。
幼い頃から彼女は一歩家を出ると様々なものと戦っていた。私が「缶ケリ」や「警察と泥棒」に明け暮れている間、Kさんは現実の中で走って、戦って、家族と支え合って生きていた。陰口を言われても耳をかさず、上からものを投げられてもまっすぐに前を見て、泣きたいときも無理して笑っていた。
泣いてもよかったんだよ、Kさん。だってあの頃の私たちは本当に子供だったんだもの。
私には絶対に忘れたくない思い出がたくさんある。季節の便りが「K」で止まる度に私はみんなに、私が今まで出会った人、みんなにとって良い新年であって欲しいと、そのときだけ本当に心の中から素直に思うことができる。
みなさんにとって、1998 年がいい年でありますように。
朝香はつみ
テレビ・ディレクター
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