【ニューヨーク発】東16丁目のちゃぶ台

 [ Last Updated : 12/6/96 ]

 懐かしい場面に遭遇した。場所はマンハッタン13丁目の私の通うスポーツ・クラブである。

 決して若くはない男の声が女性用ロッカー・ルームに聞こえてきた。
「ハーニーイイイ(Honey:おーい)。」
 マンハッタンのスポーツ・クラブでは明らかに老年期であろうと思われる人たちを結構多く見かける。特に私の様な自 由業は平日の昼間に行ったりするので、リタイヤした彼らと顔を合わせる機会が滅法多い。スポーツ・クラブはシングル ズの出会いの場でもある、と聞かされていたのだが、どうした訳かもっぱら私はエクササイズ中は老眼鏡をかけられない 彼らのためにエアロビクスのスケジュールを読んであげたりマシーンの説明をしたりしている。
 とにかく、そのおじいちゃんの声はロッカー・ルームの入り口から響いている。その日は平日の夕方でかなりの人がロ ッカー・ルームにいた。実際のところ30人くらいの半裸だったり全裸だったりする“ハニイ”がごった返していたので ある。たまたま私は入り口近くにいたので彼の声が聞こえたけれどそれがどこまで聞こえていたかは定かではない。
 ところが、である。
「カーミーイイイイング!(Coming:今行くわよー。)」
 奥から半裸・全裸をかき分けて小柄なおばあちゃんがそそくさとやって来た。ロッカー・ルームの出口のところにある 姿見でちらりと髪を直して出て行った。それは何度か見かけたことのある老夫婦のおばあちゃんだった。ロッカー・ルー ムの階下にあるサウナからのステイームの匂いも相まって、その場面は懐かしの銭湯そのままだった。

 日本にはいくつの銭湯が残っているのだろう。
 私が幼稚園の頃までうちの近くに3つくらい銭湯があった。うちのお風呂が壊れたり、そうでなくても家族でよく銭湯 に行った。我が家は父以外全部女なので男湯は父ひとりである。母は私たちが、「さあ、最後にもう一度湯船に浸かって 上がりましょう!」という段階でこちら側から向こう側の男湯に向かって叫ぶ。
「おとうさーん」。
 うちの父は長湯なので滅多にないのだがたまに父のほうが先に“最後の湯船”の段階になると向こう側から父が叫ぶ。 「おーい!」。

 思い返してみると、そうやって女湯と男湯で時間調節をしているのはうちだけでは決してなかった。どこの夫婦もそう やって呼びあっていたのである。
「おとうさーん」と「おーい」が定番である。混んでいるときは同じ時間に十家族以上が男湯と女湯に分かれてゴシゴシ やっている中で、よくそれぞれの声の分別がついたものである。それも銭湯というのは結構雑音がして(桶を落とす音と か子供の泣いてる声とか)、おまけにそれに全部エコーがかかっている。時には同時に「おとうさーん」があったかも知 れないし、「おーい」があったかも知れない。それでも声を間違えて、下足箱のところで落ち会ったら「あら、やだ、お 父さん違いだ!」などということは聞いたことがない。

 夫婦というのはそういうものなのだと思う。
 耳を澄ましていなくてもお互いの声が聞くことができる。
 時には声に出さなくても聞こえてくる。

 小さい頃、自分は漁師のところに嫁に行くものだと思っていた。
物事に熱しやすく冷めやすい私の行く末を危惧した母が、会う機会が少なければ飽きることもないだろうと、私のダンナ 候補に遠洋漁業の漁師を挙げ、ことあるごとに私にそれを私の耳元でささやき続けたのである。

   とは言うものの私の育った東京・自由が丘というところは港町でもなんでもないので、まさか本気で母は私を漁師の嫁 にするためにそうした訳でもないだろうが、小学生のころは毎夏休み、母親のいとこが住む東北の小さな島に遊びに行か された。そこは正真正銘の漁師の島で、一年のほとんどを男たちは島から遠くはなれた海上で過ごす。だから島には残さ れた妻と子供しかいなかった。
 ある暑い昼下がり、昼寝からボーッと目を覚ますと母のいとこであるおばさんが鏡台の前に座って慣れない化粧をして いた。もともと田舎顔の上に滅多に化粧をしないのでその頃まだ小学生の私の目にもその化粧はひどい代物だった。
(おてもやんみたいだな、おばちゃん。)と思ったのを覚えている。おばさんは化粧を終えると下駄を履くのももどかし そうにバタバタと表に飛び出して走って行った。何事かと後を追うと彼女は浜の堤防の先に向かって脱兎の如く向かって 行く。よく見ると他にも同じように島のおばさんたちが堤防に向かっていた。彼女たちは堤防のギリギリ先まで行き着く と一列になって、無言で沖を見つめたまま、私に一瞥をくれる様子もなかった。
 しばらくすると島から遠く離れた沖に船が見えた。その船が汽笛をひとつ鳴らしたとたん、おばさんたちが一斉にその 遥か彼方の船に向かってちぎれんばかりに手を振り始めた。
 おじさんたちの乗る船が島の沖を過ぎて行く日だったのである。
 何度か汽笛を鳴らしながら去っていく船に向かって手を振る彼女たちの白粉を浮かせたその横顔は、島の女の顔になっ て、キラキラと光っていた。
 ああ、漁師の嫁は悪くない、確かにそう思った。

 「夫婦」と聞くと、私のなかに幼いころの銭湯と東北の小さな島でのあの夏の日の堤防が浮かぶ。

 そういえばスポーツ・クラブからの帰り、シャワーを浴びてまだ乾いていない髪の毛を気にしながらアパートに急ぐ私 はといえば、銭湯帰りといった様子ではある。
 ひとつだけ思い出と違うのは今だに私は一人で家路に急いでいるということでしょうかね。
 あー、寒い、寒い。

朝香はつみ(女・32歳)
テレビ・ディレクター

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