【ニューヨーク発】東16丁目のちゃぶ台

 [ Last Updated : 4/17/97 ]

  顔

 うちの近くにスーザン・サランドンが住んでいる。
 なぜそれが分かったかというと、とにかくやたら近所でよくすれ違うのである。つい昨日も小さな男の子を連れて近所のスーパーA&Pからの帰り道の彼女と横断歩道ですれ違った。今度すれ違ったらあいさつのひとつもしようかしらん、と思うほどである。ということは当然テイム・ロビンスもいるはずなのだが、残念ながら彼とは未だすれ違ったことはない。

 大体においてこのテの話を私から聞いた友人は開口一番“それ、人違いじゃないの?”と疑う。一体どういった了見で疑うのか私には理解できないが、私は人の名前は忘れても顔だけは絶対に忘れず、間違えず、のたちなのである。あるとき前から歩いてくる女の人を見て、うーん、どこかで会った顔だ、知っている人だな、あいさつしようかな、どうしようかな、でも名前忘れちゃったな、と悩んでいるあいだに相手は素知らぬ顔ですれ違って行ってしまい、ふん、冷たい人だな、などと憤慨していたら、相手が誰だか思い出した。前の日に乗ったバスで向かい側に座っていた人だった。

 一般の人に対してもこと“顔”に関しては自信があるが、セレブリテイとなるとさらに力は倍増する。
 とにかく見つけるのが早いのである。自分でもなぜか分からないのだが、どんな雑踏の中でも、どんなに相手がスッピンであろうとも目に止まる。多分彼らはやはり一般の人とは何か違うオーラの様なものを発しているからなのだと思う。何か、違う。ん、何か違うぞ、と思って見ていると案の定、ほーら、ジョン・F・ケネデイ,Jr. だったでしょう?という具合である。

 日本ではこの能力を買われてプロダクションのキャステイング兼芸能部長をしていたことがある。街で有名人を目ざとく見つけることが芸能部長の能力かどうかは定かではないが、まあ、あ、この子はちょっと普通と違うから、これはいけるかな、と思ってキャステイングするとまんざら悪い結果ではなかったからそれなりに役に立ってはいたのかもしれない。
 当然日本でもやたらと有名人に出くわして(注:もちろん仕事はカウントに入れない。)いたのだが、ニューヨークに来て、セレブリテイを察知するにあたっての私のセンサーの働きが日本とは違うことに気がついた。日本では芸能人はどこにいても人目がある限り“私は芸能人です。”という看板を自分からしっかり背負っているのである。だから私じゃなくても誰でもコツをつかむとすぐに見つけられる。ニューヨークの場合そこが違う。日本で有名人を見ると、わー、やっぱり有名人って感じよねー、と思うけれど、こっちだと、ふーん、ちゃんと普通に生活してるんだね、あなたの出すオーラがなかったら危うく見逃すところだったよ、という感じである。

 能ある鷹は爪を隠す。
 能ある鷹は爪を“隠せる”。
 本当に能ある鷹の爪は隠しても“見える”のである。

 古い話で恐縮ですが、昔、演歌歌手の村田英雄がどこに行っても”俺は村田だ!”と言って芸能人風を吹かせていて、その後それがギャグになっていたけれど、日本の芸能人の姿の原形はあれだと思う。村田英雄センセーは素晴しい歌唱力(芸能力)があったけれど、実際のところ態度や言動に芸能人風を吹かせるタレント(才能)がない“タレント”たちが日本には多すぎるんですね。そのうえ忙しすぎて自分自身をも見つめる時間がない。依って、わざわざ看板を背負ってまで芸能人であることを誇示しなければアイデンテイテイの喪失になってしまう。

   でも日本ではそれはなにも芸能人だけの問題ではない。

 日本では私自身、自分をある“枠”にはめていた。心理学ではそれをペルソナ(仮面)と呼ぶそうであるが、たとえば、33歳、独身、テレビデイレクター、という自分を世間と見合わせて、ま、こんな感じかな、というペルソナを割り出してそれをすっぽりとかぶってしまう。そのペルソナに合った行動、言動、着るもの、持ちもの、etc., etc. …。
芸能人にとっての看板は私にとってはこのペルソナである。そうやって本当の個人の人間性が分からなくなってくる。それでも自分では自分の好きな様に信じるままにやって来た様な気になっていたが、ニューヨークに来て何のしがらみもなくなって、私を知っている人が誰も回りにいなくなって、自分でつくれる時間が手に入ったとき、自分がかぶっていたペルソナに気づいた。そのペルソナを取った解放感と同時に深い不安に襲われた。
 ペルソナをとった今、果たして何が自分にあるのだろうか。
 その不安は今までに感じたことがないほど深く、恐怖に近かった。

 あの時の恐怖はもうないけれど不安はいまでも存在している。ただ日本を離れて自分のインナーな部分も含めて、いろんなことを探すのは楽しいし、見つけられなかったとしても、そうと分かるのは死ぬときだから、そのときはきっと、まあ、もうどうでもいいや、という気になっているだろう、と、こっちに来て5年の間にてんで楽天的になってしまった。顔つきさえずいぶん丸くなった。昔の方がキッとしていていいかな、とも思うが、今が本当の自分の顔なわけで、これはいた仕方がない。

 人の顔は忘れず、間違えずの私も一度だけ自分でもびっくりするほどの失態があった。
日本にいる頃、自由が丘の駅で渋谷行きの電車を待っていたら反対側のホームから一生懸命手を振っている中年の女性がいた。とっさには誰だか分からなかった。顔はすごくよく知っているのだが、しばらくピンとこなかった。その相手をあまりに知りすぎていていたからだろうか。私の脳の構造は一体どういう仕組みになっているのか。
 ホームの反対側で母親が手を振っていたのである。

朝香はつみ
テレビ・ディレクター

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