[ Last Updated : 9/1/96 ]
僕はニューヨークに来る前はテネシー州の州都、ナッシュビルという街で大学に通っ ていた。初めてニューヨークを訪れたのは '88年春。まだナッシュビルでの学生生活 も1年足らずで、やっとアメリカ生活での身の周りが見え始めたという感じの時だっ た..ニューヨークなんて全く興味はなかったのだが、ちょうど学校が春休みで友達 何人かがニューヨーク旅行を計画していて、僕はだた「みんなが行くんなら、まあど んな所か見てみようかな」という気持ちでくっついて来ただけだった。で、来てみて 思ったことは「こんなとこ人間の住むとこじゃない」であった。
しかし翌年の夏、ニューヨーク市郊外のロングアイランドにミュージシャンの友人が 出来たことをきっかけに、今度は自分の車でナッシュビルからひとりで20時間近くド ライブして来た。とりあえず近くに友人がいるから何とかなると軽い気持ちで来たの が甘かった。ただ安かったからという理由で1晩$15というYMCAに入ったが、部屋 のベッドは錆び付き、ゴキブリはそこらをチョロチョロしていて、トイレとシャワー 室は隣の部屋と共用、電話はあったが当然つながってはいなかった。エレペーターや 、廊下には怪しげな人間が力なくウロウロしていた。とにかく疲れてヘロヘロだった 僕はとりあえず寝たかったのでフロントでもらってきた唯一きれいなシーツに身をく るんだ。今思えばそこはほとんどホームレスのシェルターだったが当時ニューヨーク の事情などまったく知らなかった僕はただのイナカ者で、特に何も危険とは思わなか った。
2、3時間は寝てしまったのだろうか..起きて車の中の荷物をとりに外へ出たら車 はなくなっていた。レッカーされた様だったが、その当時は大ショックだった。泣き たかった... 夜、フロントでこの券をもって行けばメシがタダだよと言われて入 ったチャイニーズのバフェは店じまい寸前で、メシが入っているはずのトレーはキレ イに空だった。ガーン!! 店のオバサンに「あら、もうクローズよ」と言われたが どうしてもハラがへって死にそうだったので「でもまだ何か残ってない?ホラ」とタ ダ券を見せたら人のいいオバサンは「ちょっとまってて」と奥に行って「こんなもん でいいかい?」とチャーハンやチキンのあまり物を山盛りで持って来てくれた。これ また人のいいオジサンが「なに飲みたい?」と聞いてきたのですぐさま「コーク!」 と答えた。僕は夢中で食べた。とてもおいしかったし、とにかくなにもかも冷たく感 じたニューヨークでなによりも嬉しかったのをよく覚えている。
夜中、ようやく連絡がついた友人が僕の泊まっていた部屋を訪れ、驚きながら言った 「さあ、出よう、こんなとこにいちゃダメだ」。その時彼は妹を連れて来ていたのだ が、外に出るなり彼女は兄の腕にしがみついた。それを見て初めて分かった「ニュー ヨーク出身の人達でもこの辺はコワいんだ..」と。友人は「ハラ減ったろ?」と言 ってピザをおごってくれて、僕はそれにかじりついた。なんだか拾われた浮浪者の気 分でとってもミジメであった..
後日、レッカーされた車をとりにいったが今度は車のラジエターがイカレて水が漏れ 始めたので、たまに止まってはデカイ空ボトルをもってそこらのレストランに入り、 トイレなどで水をもらい、水を補給した。一回はワシントン・スクエアで車が止まっ てしまい、しょうがないのであそこの噴水の水をすくった。恥ずかしかったが、どう しようもなかった!! 2度目に車がレッカーされた時、僕は車をピックアップする なり「もういられない!」とすぐさま逃げる様にナッシュビルへの帰路についた。( 水を補給しながら..)帰り道、太陽が降り注ぎ、木に囲まれたハイウェイを走りな がらなんとホッとしたことだろうか..そして何度も思った、「もうニューヨークは ゴメンだ」。
...しかし、また来てしまった。大学を卒業したのだが、勿論日本に帰る気はさら さらなかったのでこちらに残ることにした。でもどうする?..長期のビザをキープ するには学生でいるか、ビザをサポートしてくれる会社を見つけ、そこで働くかのど ちらかしかない。もちろん僕は後者を選んだ。また学生をやってもしょうがなかった し、何よりも今までは親にサポートしてもらっていた分、親の言う事を聞かざるを得 なかったが、今度は自分でお金を稼いで自分の好きなことをしたかった。更にその時 点で僕のナッシュビルでの生活は4年を過ぎようとしていたが、いくらテネシー州の 州都といえど所詮は南部の小さな街である、もう何もエキサイトメントなど残ってい なかった。やっぱりニューヨークにいくしかない!トホホホ..なのであった。
お金を節約する為、 今回はグレイハウンドのバスでニューヨークまで来た。所要時 間はピッタシ24時間。宿は例のロングアイランドの友人がその当時働いていたレコ ーディング・スタジオの2階に僕が泊めてもらえる様はからってくれた。会社への面 接は既にナッシュビルからアポイントメントをとっておいたし、スーツも買ったし、 長かった髪の毛も切った。さて、準備万全!と張り切って面接に望んだのも束の間、 1週間があっという間に過ぎ去り、どの会社からも良い反応はなかった。しかも泊め て貰っていた部屋はある事情で出なくてはならなくなった。さて、どうしてもここで は帰れない、あとせめて4日は必要だと思った僕は来るパスの中で知り合った兄ちゃ んの事を思い出した。彼もロングアイランド出身だったが、次の2週間くらいはマン ハッタンのおじさんのアパートにいるって言っていたハズだ! もう、こうなったら 何でもアリだ!早速貰っておいた番号に電話する..いたいた..図々しくも彼のお じさんのアパートに一緒に泊めてもらうことにした。おじさんはバケーション中でニ ューヨークにはいないらしく、その間彼が番も兼ねて泊まっていた。ラッキーはラッ キーだったが問題はその彼が仕事で朝9時から夜9時あたりまでアパートにいないこ とである..当然、アカの他人である僕はその間外にいなければならない。いくら1 日にいくつも面接してもせいぜい3つがやっとだ、それもほとんどは昼あたりで5時 になれば会社は終わってしまう。しょうがないので残りの時間は似合わないスーツ姿 のまま道端のベンチに座って、1人で話しをしている浮浪者を見ながらボーッと過ご した。色々な考えが頭をよぎった...やっぱりニューヨークはダメかなと思った。 会社帰りの人ごみを見ながら何よりも不思議だったのはこんなに人がいてみんな何の 仕事をしているのだろう?ということだった。これだけの人が仕事をしているのに何 故僕には何もないのか?..マンハッタンの右も左も分からなかった僕はただそこに 座り続けた。
結局、ほとんど諦めてナッシュビルに逃げ帰ったのだが、最後の最後に面接した日系 TV局が僕を使いたいと後日連絡してきた。数か月後、荷物をパンに詰め込んでニュー ヨークまでエッチラオッチラと引っ越した...その後仕事に追われ自分の時間など なくなるという事も知らずに..
あれからもう5年経った...その間転職もしたし、アパートも4回引っ越した。あ の頃と比べれば生活は随分マシになった。(ま、この先が問題だけどね..)今考え るともう2度としたくない経験ばかりだったが、それまでスローな南部の街でポヨー ンとしたイナカもん生活をしていたからああなったも当然なのである。(ようするに 世間知らずだった)5年前、僕がバスでニューヨークに到着した時の格好はTシャツ に蛍光(!)グリーンの海水パンツ(!!)、同じく蛍光グリーンの帽子、蛍光イエ ローの首掛けがついたサングラスにサンダル。これでポート・アソリティー・バスタ ーミナルの前で迎えにくるはずの友人を待っていた!! こんなやつはマンハッタン のどこにもいない!が、それさえも分からなかったのだ。
飛行機でニューヨークに着く度に「また戻ってきてしまったか..」と思うと冒頭で 書いたが、その後キャブに乗ってマンハッタンに入った瞬間、何故かホッとしてしま う様になった..
多くのアーティスト、ミュージシャン達がこのニューヨークの街が発するエネルギー がたまらなく好きだと言う。僕は彼等のうちで何人が本気でそう感じているか疑問に 思う。言うだけはかっこいいもんな..でも、そのエネルギーは本当にここにしか存 在せず、他では得られない不思議で狂ったエネルギーだ。結局なんだかんだといいな がら自分もそれを求めていつもニューヨークに戻って来てしまっているのだろうかと も思う。
オシマイ。
NAO(男・28歳)
ミュージシャン