宮沢賢治伝説の再検討
― 「三千枚」に関する通説への異見 ―
大山 尚
一 問題の所在
宮沢賢治に多少なりとも関心のある者なら、「一ケ月の間に三千枚書いた」というエピソードを一度はどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。さて、この「一ケ月の間に三千枚書いた」という伝説だが、これは大正十年の賢治の家出上京中の出来事として語られてきたものである。
この時期のことは、何通かの書簡と関係者の回想からしか窺えないため、賢治の行動の多くがあまりよくわかっていない。そのため明確な裏付けのない「そうであろう」という話が「そうである」と変化して行ったものが少なからずあるのだが、そういった話のいくつかは、一つ一つ多くの研究者によって検証され、事実と伝説の整理がなされてきている【1】。ところが、「一ケ月の間に三千枚書いた」という伝説に関しては、どういうわけかほとんど検証されていない。これは大正十年の家出上京中の逸話であって、「三千枚」という具体的数量を伴った事実ではなく、せいぜい、短い期間にたくさん書いたと受けとるべきものだという程度の指摘はあるが、一般的には「単なる伝説」で片付けられてしまっているのが実情であろう。
勿論、「三千枚」という具体的数量に関したことを事実だというつもりは毛頭ないが、「短い期間にたくさん書いた」という意味において考えた場合、それが、何故、大正十年の家出上京中の話でなければならないのかに疑問がある。これは漠然とした疑問ではない。「三千枚」という物言いの出所に立ち返ってみると、そこにはこれを家出上京中の話であるとする根拠がほとんど見当たらないのである。となると、この話は一体いつのことなのか、またそれを明らかにすることによってどのようなことが新にいえるのだろうか。以下、検証と新たな可能性について論じることとする。
二 「三千枚」の出所
多少奇妙な感じを受けるかもしれないが、「一ケ月の間に三千枚書いた」ということが初めて語られるのは、昭和十一年十二月、八木英三氏「宮澤賢治に聞いた事」(「宮澤賢治研究」第五・六合併号)においてであるのだが、それが大正十年の賢治の上京中のこととして語られ、定着し始めたのは、昭和十五年八月、関登久也氏「賢治素描(五)」【2】(「イーハトーヴオ」第九号)や、昭和十六年三月、宮澤清六氏「兄のトランク」【3】(「創元」第二巻第三号)からである。
この奇妙なズレのそもそもの原因は、八木氏の「宮澤賢治に聞いた事」にあるのだが、それがどういったことであるのかは、全文を確認することで了解されよう。
一読して気付くことは、これらの話を、いつ賢治が八木氏に語ったことなのかが不明確であること、「三千枚」の話が上京中のことであるとはどこにも書かれていないことである。それにもかかわらず、関氏や清六氏が「三千枚」の話を賢治の上京中のこととして受け止めているのはなぜだろう。一つの可能性として、八木氏が直接両氏に、賢治から聞いた「三千枚」の話を上京中のことであったと語ったとも考えられるが、理由は定かではない。いずれにせよ、以後「三千枚」の話は、大正十年の上京中のことであるとして語られていくのである。
三 上京中説の否定
先に、八木氏の「宮澤賢治に聞いた事」には、「三千枚」の話がいつのことであるのかの記述が存在しないことを確認したが、記述がないというだけでは上京中の話であるということを否定できない。そこで上京当時の賢治の様子を、限られた資料から探ってみたい。
大正十年、賢治が家出上京をしていた期間は、一月二十四日から八月中旬【4】までの約七カ月間であった。その目的は、当初、自らの創作活動の場を求めてのものではなかったのだが、後年、「雨ニモマケズ手帳」【5】に「高知尾師ノ奨メニヨリ/法華文学ノ創作」と記したように、賢治は上京中に高知尾智耀氏からなにがしかのインスピレーションを受け創作活動を始めている。もっともこれは、「法華文学=童話」ということを示すものではない。というのも、上京中の日付を持つ作品に童話は存在せず、高知尾氏の当時の回想【6】によれば、賢治に童話創作を促した明確な記憶はないという。また、賢治も高知尾氏の言葉から「法華文学」をどういうものとして受け止めていたのかも実のところはっきりしていない。
しかし、賢治は、確かに創作活動を「奨メ」以降行っていた。上京当時、校正係として「文信社」に勤めていた賢治と知り合った鈴木東民氏の回想【7】がそれを裏付けている。
ところで、引用した回想部分は高知尾氏からの「奨メ」直後のこととして語られる向きがある【8】のだが、その際、多少注意しなければならない問題として、高知尾氏からの「奨メ」の時期がある。従来、高知尾氏からの「奨メ」があったのは二月頃とされてはいるが、根拠に乏しく確定的ではない【9】。そうなると、引用した鈴木氏の回想に出てくる賢治の話は二月頃のものではなく、もっと後のものであったと思われる。
それでは、いつ高知尾氏からの「奨メ」があったと考えられるかだが、@上京中の日付(一九二一・六)を持つ散文作品「電車」・「床屋」で使用された原稿用紙が、「1020(イ)イーグル印原稿用紙」であること、A上京中の書簡で使われた用箋が「六月二十九日付 宮沢イチあて」から同様に「1020(イ)イーグル印原稿用紙」に変わった(それまではザラ紙使用)こと、B創作に関したことが書簡中で初めて語られたのが、「七月十三日付 関徳弥あて」であることなどから考えて、五月か、或いは六月頃までの間で「奨メ」があったのではないかと思われる。
そこで、高知尾氏からの「奨メ」があった時期が五月から六月頃の間であり、その頃から童話などを書き始め、それから花巻に帰るのが八月中旬とした場合、その間、約三カ月あることになり、「短い期間にたくさん書いた」ということも時間的には可能となってくる。しかし、ここで、「宮澤賢治に聞いた事」にある「三千枚」書いたという部分の前後に注意すると、時間的には可能である三カ月間でのこととするには、全くつじつまの合わない記述があることがわかる。その部分を再び引用してみる。
つじつまが合わないのは、傍線を付した二つの箇所である。一つ目の傍線部分には、「一ケ月の間に三千枚書」いたその理由が、「私はどうせ間もなく死ぬのだから書きたいものを書いて了はうと思」ったからであるとあるが、これは明らかにおかしい。創作活動を開始したのが、仮に二月頃からだったとしても、その契機はいずれにせよ「高知尾氏ノ奨メニヨリ/法華文学ノ創作」なのである。「どうせ間もなく死ぬのだから」などという気弱な理由からではないはずである。
また「七月十三日付 関徳弥あて」書簡【10】には、「私は書いたものを売らうと折角してゐます。それは不真面目だとか真面目だとか云って下さるな。愉快な愉快な人生です。」とあり、死ぬ前に書かねばらぬというような焦りを持っての創作活動はしていないことが窺われる。同書簡には他にも、
と書かれてあり、創作に対してかなり高揚した気分で取り組んでいたと窺われることから考えても、「どうせ間もなく死ぬのだから」という理由での創作活動は、上京中ではないように思われる。
次に二つ目の傍線部分では、「もう一ぺん正気を取り直してから読んで見ようと思」って「それから暫くの間、一切筆を取らずに静養しました。」とあるが、上京中に「静養」などをしている余裕が賢治にはほとんどなかったはずである。
先にあげた「七月十三日付 関徳弥あて」書簡により、その頃、賢治は創作に対してかなり高揚した気分で取り組んでいたことが窺われるが、仮にその書簡の日付直後からしばらくの「静養」が始まったとすると、八月中旬には花巻へ帰っているので、その期間は約一カ月ということになる。約一カ月という時間を「暫くの間」と換言できるかどうかの是非をここで云々するつもりはないが、ここで「静養」という言葉にこだわるのには理由がある。というのも、七月後半から八月にかけての頃、賢治はどうやら脚気に罹っていたらしいことが、「八月十一日付 関徳弥あて」書簡から窺えるのである。
肉食が原因で脚気に罹ったというのは信じられないが、それはともかく、七月後半から八月にかけての頃の賢治は、肉体的にも精神的にもかなりまいっているのである。これを「静養」といえるわけがないはずだ。そうなると、「それから暫くの間、一切筆を取らずに静養しました。」という時期が上京中にはなかったことになる。
このように、書簡などから窺える上京中の賢治の行動と、八木氏の「宮澤賢治に聞いた事」にある「三千枚」にかかわる話とには、二つのつじつまの合わない点が存在していることがわかる。そうなると「三千枚」の話は、一体いつのことになるのであろうか。
四 帰郷後説の提唱
結論からいえば、「三千枚」の話の時期は上京中ではなく八月中旬以降のことであり、賢治が花巻に帰って後、短期間で童話作品を書き上げた時期がそれにあたると思われるのである。
七月後半から八月にかけて賢治は脚気を患っており、肉体的にも精神的にもかなりまいっていた。そのため、「八月十一日付 関徳弥あて」書簡の最後の方に「尚十月頃には帰る予定ですが、どうなりますやら。」と帰郷の意思があることを書いている。どういう理由で「十月」なのかは詳らかでないが、とにかく八月前半頃には望郷の念が募ってきていたことは確かであろう。そこへ実家から「トシビヨウキスグカエレ」の電報がありこれを幸いに東京を後にした。しかし、帰ったところで家出前と身の上が大きく変わっているわけでもなく、心情的には上京中の最後の頃の気分を暫く引きずっていたと想像するに難くない。それが「私はどうせ間もなく死ぬのだから、早く書きたいものを書いて了はうと思」ってという物言いなのではないだろうか。
帰郷後の賢治が激しく創作に没頭していることは、日付の付された作品等を大正十年分【11】だけを一瞥しても良くわかる。
○八月 二十日 短編「龍と詩人」
○八月二十五日 童話「かしはばやしの夜」
○九月 十四日 童話「月夜のでんしんばしら」
○九月 十五日 童話「鹿踊りのはじまり」
○九月 十九日 童話「どんぐりと山猫」
○十一月 十日 童話「注文の多い料理店」
○十一月 童話「狼森と笊森、盗森」
○ 〃 短編「図書館幻想」
○十二月 一日 童話「雪渡り(一)」(雑誌「愛国婦人」十二月号掲載)
○十二月二十一日 童話「烏の北斗七星」
このように短期間で作品を書き上げることができたのは、帰郷したことによって少なくとも生活の安定が保障され、上京中の苦しい生活からは得られない創作にだけ没頭できる時間的な余裕ができたからではないだろうか。つまり、「それから暫くの間、一切筆を取らずに静養しました。」というのは、生活の安定があって初めて可能な物言いになるはずであり、これによって「静養」という言葉が問題なく受け入れられることになる。
但し、「それから暫くの間、一切筆を取らずに静養しました。」という時期がいつからいつまでかを特定することは少々難しい。可能性として一番高いのは、先の大正十年分の作品に付された日付から見て、九月十九日・童話「どんぐりと山猫」から十一月十日・童話「注文の多い料理店」の間ではないだろうか。というのも、この年の十二月三日から賢治は稗貫郡立稗貫農学校教諭になっており、今度は「静養」するだけの時間的余裕が持てなかったであろうし、大正十一年に入ると一月六日には心象スケッチ「屈折率」「くらかけの雪」が書かれ、以後詩作が続くので「一切筆を取らずに」というのには当てはまらなくなるからである。
五 結論
以上、「一ケ月の間に三千枚書いた」という伝説を検証した結果、それが従来言われてきた「大正十年の家出上京中」のこととするには根拠があまりに乏しく、単なる賢治伝説の一つでしかないといわれても仕方のない話であることがわかった。しかし、「一ケ月の間に三千枚書いた」という時期を賢治が花巻へ帰ってから直後のことではないかと考えると、「宮澤賢治に聞いた事」の中で賢治が八木氏に語ったことは、作品に付された日付などからみてつじつまがあい、単なる賢治伝説の一つとして片付けてしまうわけにはいかない面のあることもわかった。そこでこのことが何を意味しているのかだが、それは、賢治が童話を自らの表現手段として自覚を持って書き始めた時期が、大正十年の家出上京中ではなく、『注文の多い料理店』中の作品に付せられた日付の頃、つまり花巻に帰ってきてからであると考えられるということである。
但し、このことを言い切るためにはもう一つ解消しなければならない点がある。それは、宮澤清六氏「兄のトランク」の回想中に語られている賢治の帰郷直後の行動に、トランクいっぱいに詰め込まれた童話をみんなに読んで聞かせたという点である。
ただこれは無視できない問題ではあっても、それほど重要な問題ではない。この回想での賢治の行動は、恐らく事実であろう。何かの童話をみんなに読んで聞かせたことを否定する理由も根拠もない。しかしそれらの童話が、現在、我々が知る童話そのものであったかどうかは疑問である。
思うに、帰郷直後に読んで聞かせた童話は、現在、我々が知る童話と全く違ったものであったのではないだろうか。というのも清六氏が「兄賢治の生涯」【12】で、「この夏(大山注・大正七年)に、私は兄から童話『蜘蛛となめくぢと狸』と『双子の星』を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている。」と述べていることに対し、天沢退二郎氏は「ここで引かれている清六氏の記憶は信頼できるように思われるが、ただし、このとき清六氏らが読み聞かせられたのは、今日私たちがよんでいるテクストと全く同じものだったのではなくて、その先駆段階、下書稿段階であり、細部などいろいろ異同があったものと推定される。」【13】と、清六氏の回想と、現在我々が目にするテクストとにかなりの相違があるという可能性を指摘している。このことから考えて、同様に賢治が読んで聞かせたという童話も、やはりそれらは現在とは違ったものであったと考えてもよいと思われる。
それなら『注文の多い料理店』中の作品に付された日付は、帰郷後の賢治が、童話を自らの表現手段としての自覚を持って新たな作品に取り組むと共に、先駆段階にあるものは改稿・改作(或いは全面廃棄)等を加えることによって、自身の納得する作品をそれぞれ書き上げた日付であるといえるはずである。そしてまさに「一ケ月の間に三千枚書いた」と賢治が八木氏に語ったことは、「短い期間にたくさん書いた」という意味において、帰郷後の自らを語った言葉であるとして、再認識すべきものであるのではないだろうか。
付記 本論は、平成六年度國學院大學大学院提出の修士論文・第二章(「宮沢賢治研究史上の疑問―「三千枚」という伝説の再検討―」)の内容を要約及び加筆したものである。
尚、本論で引用した論文等での表記については、基本的に新字旧仮名としたが、人名に関してのみ記載通りとした。
[「賢治研究」六七(平成七年八月三十日発行 宮沢賢治研究会)所収]
注
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例えば、上田哲氏「賢治の〈法華文学ノ創作〉と〈高知尾氏ノ奨メ〉についての異見」(『宮沢賢治 その理想世界への道程』 昭和六十年一月 明治書院)
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「賢治氏が東京へ行つて三千枚の童話を書き、百千の詩稿を故郷への唯一の土産に持ち帰つたのはまだうら若い二十五、六の頃ですが(以下略)」とある。
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「一ケ月に三千枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、そこらあたりを飛びまわつたものだと話したこともある程だから、七ケ月もそんなことをしてゐる中には、原稿も随分増えたに相違ない。」とある。
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『校本宮澤賢治全集』第十四巻(昭和五十二年十月 筑摩書房)の「年譜」によれば、賢治が花巻に戻ったのは八月中旬となっている。これは恩田逸夫氏「宮沢賢治における大正十年の出郷と帰宅 イーハトヴ童話成立に関する通説への検討を中心に」(「明治薬科大学研究紀要」第六号 昭和五十一年九月)によったもので、それによると、賢治は八月二十日には花巻にいて『注文の多い料理店』初版本の作品に付された日付通り、帰郷後それらの童話を書いたと考えられるとしている。これが事実であるかどうかを実証するのはかなり困難であるが、真実性は十分にあるといってよい。本論ではこの説に従い、賢治の帰郷の時期を八月中旬とする。
【5】/戻る
『校本宮沢賢治全集』第十二巻(上)(昭和五十年十二月 筑摩書房)。以下、「雨ニモマケズ手帳」からの引用は全てこれによる。
【6】/戻る
高知尾智耀氏「宮沢賢治の想い出」(「真世界」二月・三月号、昭和三十四年二・三月連載)には次のようにある。
【7】/戻る
鈴木東民氏「筆耕のころの賢治」(『宮澤賢治全集』月報第十一号 昭和三十二年二月 筑摩書房)
【8】/戻る
例えば、中公文庫・堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』(平成三年二月 中央公論社)の大正十年二月の項には次のようにある。
【9】/戻る
草野心平編『宮澤賢治研究』(昭和十四年九月 十字屋書店)の「宮澤賢治年表」によると「二月、国柱会の高知尾智耀氏の奨めもあり、文芸に依り大乗教典の真意を拡めんことを決意す。」とあるが、その根拠は詳らかでない。
『校本宮澤賢治全集』第十四巻の「年譜」では、大正十年の二月の項で高知尾智耀氏の回想である「宮澤賢治の思い出」(「真世界」 昭和四十三年九月)をもとに「これにより、賢治は「高知尾師ノ奨メニヨリ法華文学ノ創作」へと志してゆく。」としているが、高知尾氏の回想には「奨メ」が二月であることを確定付けるような記述が存在しないので、これを根拠に二月とすることはできない。
【10】/戻る
『校本宮澤賢治全集』第十三巻(昭和四十九年十二月 筑摩書房)。以下、書簡の引用は全てこれによる。
【11】/戻る
雑誌「愛国婦人」(大正十年九月号)に童謡「あまの」が掲載されているが、「八月十一日付 関徳弥あて」書簡から、この童謡が上京中に書かれたものであるらしいことがわかるので省いた。また「冬のスケッチ」には日付が付されておらず、大正十年の冬以降と推定されているだけなので同様に省いた。
尚、「龍と詩人」については、『校本宮澤賢治全集』第十一巻(昭和四十九年九月 筑摩書房)の校異によると、「本文の字体からいえば本稿成立は大正十一年以後と推定される」が「作品末尾に、鉛筆(草稿本文に用いられているものとは異なる)で、一〇・八・二〇と記入されている」とあることから、一応大正十年の作品に加えた。
【12】/戻る
『宮澤賢治全集』別巻「宮澤賢治研究」(昭和四十四年八月 筑摩書房)
『新修 宮沢賢治全集』第八巻 天沢退二郎氏「解説」(昭和五十四年五月 筑摩書房)
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引用は全てこれらによる。→→→引用は全てこれによる。
[「賢治研究」68(1996(平成7)年12月)で訂正掲載済み]