大山 尚
一
「土神ときつね【1】」は、恋愛をテーマとして扱った作品であり、結末では土神が狐を殺害するに至ることから、次のように評価されている。
確かに「土神ときつね」には、「恋愛の内包するどす黒さ」が描かれていると言えるし、否定はできないが、それだけに注目してしまうと、何かが抜け落ちてしまっているような気がしてならない。そうなると、この作品には「恋愛」以外の、いわば隠されたもう一つのテーマの存在が考えられるのである。
二
「一本の奇麗な女の樺の木」には、「土神」と「狐」の二人の友達がいた。その樺の木は、「神といふ名こそついてはゐましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の〔束〕のやう眼も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪も黒く長い」土神よりも、「大へんに上品な風で滅多に人を怒らせたり気にさわるやうなことをしなかった」狐の方がどちらかといえば好きだという。
以後、樺の木をめぐっての土神と狐それぞれの思いが展開されていくのだが、語りは、展開の直前に、もう一つ別の観点があることを読者に伝えている。
この観点は、これから始まる物語に少なからず影響を与えることになる。というのも、この一文のために読者は「正直」「不正直」という観点から、常に土神と狐の言動を「くらべて見」ることを余儀なくされるからである。
このことは「土神ときつね」の隠されたテーマを探る上で、重要な意味を持つと思われる。というのも、「正直」「不正直」というある種道徳的な観点は、「恋愛」をテーマに持つ作品を読み解く上で、それほど意味があるとは思えないからであり、むしろそう言った観点から離れたところに「恋愛」の本質があると言って良いとするなら、「正直」「不正直」という観点の設定は、単なる「恋愛」の話だけではない何かを導き出す手がかりを与えるものではないかと思えるのであるのだが、しかし、ことはそう単純ではない。一体何に対して「正直」「不正直」なのか、またその判断基準はなんであるのかについては、何一つ提示されておらず、そのため、読者は物語を読み進める上で、かなり不安定で且つ恣意的な読みを強いられることになる。
三
「土神ときつね」に描かれているのは、「夏のはじめ」、「八月のある霧のふかい晩」、「あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日」の三日の出来事である。
夏のはじめのある晩のこと。樺の木のもとに遊びに来た狐は、天体についての話を樺の木とするが、「僕実は望遠鏡を独乙のツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげませう」といってしまう。「あゝ僕はたった一人のお友達にまたつい偽を云ってしまった。あゝ僕はほんたうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんぢゃない。よろこばせやうと思って云ったんだ。あとですっかり本統のことを云ってしまはう」と狐は考えてしまう。
翌朝、今度は土神が樺の木のもとへやって来て、「草といふものは黒い土から出るのだがなぜかう青いもんだらう。黄や白の花さへ咲くんだ」といった「わからんこと」についての話をする。樺の木は「狐さんにでも聞いて見ましたらいかゞでございませう」と答えるが土神は、「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだ」と怒り出す。それから、棲んでいる祠に帰ると、たまたま通りかかった木樵を「泥の底に引き擦り込」みはしなかったものの、いじめてしまう。そうして土神は独白する。
この「夏のはじめ」の日の出来事は、一見すると、土神と狐両者の樺の木に対する心中が描かれているためくらべやすいと思うかもしれないが、実際はそうでもないようだ。
この日狐は「たった一人のお友達にまたつい偽を云ってしまった」と心中を語るが、これは先の「正直」「不正直」という観点から見れば、狐は樺の木に対して「不正直」であるといえなくもない。しかし、当然ながらこれは一面的な見方でしかなく、「あゝ僕はほんたうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんぢゃない。よろこばせやうと思って云ったんだ」と幾分反省的である狐を「不正直」とは言い難い。また、「正直」であるとされる土神は、自分が「面白くない」理由を「樺の木を怒らないため」だと言い、そのため木樵を「いぢめた」のであって、「誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ」から「仕方ない」と開き直っている。これを「正直」と言うには無理がある。
この様に、物語は最初から何が「正直」「不正直」なのかよくわからないまま「八月のある霧の深い晩」へと移っていく。
その晩土神は「何とも云へずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠を出」た。自然と足が樺の木のほうへ向いていることに気付いた土神は「俄かに心持がおどるやうにな」るが、樺の木は既に狐と美学の話で盛り上がっていたのである。その話にいたたまれなくなった土神は、「もう飛び出して行って狐を一裂きに裂いてやらうか、けれどもそんなことは夢にもおれの考へるべきことぢゃない」と煩悶する。そして「だまってゐたら自分が何をするかわからないのが恐ろしくなっ」てしまい「一目散に北の方へ走」ったのだった。
この晩の出来事から「正直」「不正直」を言うことはほとんど無理であろう。強いて言うなら、例の望遠鏡について樺の木が狐に尋ねたとき、「来たらすぐ持って来てお目にかけますよ」と相変わらず「不正直」と思われるような答えをしていることぐらいのものである。土神に関しては「正直」さがどこにあるのか見当さえつかない。
そして物語は悲惨な結末を迎えることになる。「あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日」、土神は「樺の木なども狐と話したいなら話すがいゝ、両方ともうれしくてはなすのならほんたうにいゝことなんだ」と思うようになる。そして樺の木のもとで「今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにはかに心持ちが軽くなった」と語り始める。
そこへ狐がやって来る。狐は土神に気がつくと、「嫉ましさに顔を青くしながら」樺の木に「お客さまのお出での所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」と挨拶をしてその場を去っていく。土神はその姿をただ「ぼんやりと」見ていたのだが、「いかにも意地をはったやうに肩をいからせて」歩いて行く姿に怒りを覚えて狐を追いかける。「嵐のやうに追って来る」土神に気付いた狐は、「もうおしまひだ、もうおしまひだ、望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と「一心に頭の隅のとこで考へながら」逃げ走ったが土神に捕まってしまい、「からだをねぢられて口を尖らして少し笑ったやうになったまゝぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れて」しまう。だか土神はそれでも飽き足らず、「いきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけ」それから狐の穴の中に飛び込んでいったのだが、そこは「がらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められてゐる」だけだった。「少し変な気がして外へ出て来」た土神は、
物語はこうして結末を迎えた。ここに至っては、もはや土神と狐を「正直」「不正直」という観点から把握すること自体何の意味も成していない。なぜなら、土神は「正直」ゆえに狐を殺害したのではなく、狐も「不正直」ゆえに殺害されたわけではないのだから。
むしろこの結末で注意しなくてはならないのは、狐を殺害した後の土神の行動だろう。土神は狐のレーンコートのかくしの中に二本のかもがやの穂が入っていたのを発見して泣き出すのであるが、何故泣き出したのかの説明はいっさい施されていない。一体、かもがやの穂に土神は何を見たのであろうか。
四
先に、「正直」「不正直」というある種道徳的な観点は、「恋愛」をテーマに持つ作品を読み解く上で、それほど意味があるとは思えないということを述べたが、このことを念頭に置いて物語の結末に達した時、気づくことが一つある。それは、中村文昭氏が指摘するように、「作中《恋》という語は一度もでてこない【3】」にもかかわらず、テーマが「恋愛」であるとしてこの物語を読んでいるということである。ところが、土神の狐殺害の直接の動機は「嫉妬」である。「恋愛」の中に「嫉妬」は含まれるとしても、「嫉妬」が即「恋愛」に繋がっているわけではない。「嫉妬」は「嫉妬」でしかなく、それが「恋愛」から来る「嫉妬」であると理解するには、土神が「恋愛」の感情のなかにいることに気づかなければならない筈なのにである。
ここで、「土神ときつね」は樺の木をめぐる土神と狐の物語ではあるが、そのほとんどが土神の側からしか語られていないことに注意しよう。「夏のはじめ」、「八月のある霧のふかい晩」と、土神は樺の木のことを考えると何故「むしゃくしゃ」したり「大へんに切なかった」りするのかわからないでいた。そしてそのわからない状態は「あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日」に至っても解消されないでいる。その証拠に土神は、「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいゝんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにはかに心持ちが軽くなった」(傍線(※ここでは斜体)・大山)と樺の木に言っているのである。「つらい目にあった」理由が樺の木に対する「恋愛」の感情であったことに、土神はまだ気づいていないのである。この時点まで、物語の上では「恋愛」というテーマは確かなものではないのである。
では「恋愛」というテーマが確かなものとなるところ、即ち土神が今までの感情を「恋愛」であったと「気づく」ところはどこだろうか。それは、土神が狐のレーンコートのかくしの中に二本のかもがやの穂が入っていたのを発見したときである。
かもがやの穂は、狐が持っていると樺の木や土神が思っていた美学などの本の正体なのだろうか。いやそうではない。かもがやの穂は最初からかもがやの穂でしかないのである。かもがやの穂がかもがやの穂であること、それに「気づく」ことが重要なのであり、気づくことで、土神は自分の今までの感情が「恋愛」というものであることを理解する。何かを手にいれるためにはその代償を払わなければならないとするなら、土神は、神の分際として夢にも考えるべきことではない行為、即ち殺害によって恋愛の本質に「気づく」のである。ここに至って「恋愛」というこの物語のテーマが確かなものとなるのである。
ところで、「正直」「不正直」という観点は、「恋愛」というこの物語のテーマが確かなものとなることによって薄れ、そして消えていく。土神が「恋愛」の本質に「気づく」と同時に読者もまた「恋愛」の本質は「正直」「不正直」といった観点からは何も見えないことに「気づく」のである。つまり、そのことに「気づく」ことそれ自体が、「土神ときつね」に隠されたもう一つのテーマであると考えられるのである。
[「解釈」十月号(平成八年十月一日発行、解釈学会)所収]
〈注〉
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題名及び本文の引用は『新・校本宮澤賢治全集』第九巻による。尚、『新・校本全集』から題名が「土神ときつね」と改訂された。
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「宮沢賢治必携」〔「土神と狐」・評価〕(「別冊國文學」、昭和五十五年五月)
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「土神ときつね*エロスに染まる無垢の悲劇」(『童話の宮沢賢治』、平成四年三月、洋々社)