「注文の多い料理店」の位置 ― 表題作としての有様 ―

 大山 尚


【論文要旨】

 本論は、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』の成立上の問題点である、童話集の題名変更の理由について解明を試みたものである。
 「振替用紙裏広告文」によって童話集の題名が、当初『山男の四月』であったことが広く知られるようになったが、その変更理由は今もって詳らかではない。そこで、題名変更は表題作の変更によるものという観点を視野に入た考察を行い、「注文の多い料理店」が、当初表題作となり得なかった理由を作中での「東京」という語の使用によるためと推定。また、表題作として広告されている「広告ちらし」の説明文の内容は「糧に乏しい」一地方的な存在からの発信であることを宣言化した一つの挑戦的な声明文であると考えられ、これにより、「注文の多い料理店」は一収録作品から表題作という位置へその有様を変え、童話集の題名を『注文の多い料理店』へ変更させたと結論付ける。

【キーワード】

注文の多い料理店  振替用紙裏広告文  山男の四月  東京  広告ちらし


     一 はじめに

 イーハトヴ童話『注文の多い料理店』は、偶然発見された振替用紙裏の広告文によって、当初、その題名が『山男の四月』であったことが知られるようになった。このことは、研究史上、周知の事実となっているのだが、この童話集の計画から最終的な出版に至る過程はいまだ明確化されたとは言い難い状態である。しかしながら、近年は、回想資料の再検討や新資料などをもとにした年譜上の問題提起が行われるようになってきており、それによって少しずつ『注文の多い料理店』の成立過程が明らかになってきている。

 本論は、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』の成立上の問題点である、童話集の題名変更の理由について、当初、童話集の一収録作品であった「注文の多い料理店」がどのような過程を経て表題作という位置へ推移して行き、かつ、表題作としてどような有様(ありよう)を付与されたのかという観点から解明を試みたものである。
 なお、立論するにあたって、『山男の四月』で収録されたと思われる作品は『注文の多い料理店』と同じであるという前提に立っていることを了解願いたい。

     二 収録作品と関連資料の検証

    (1)広告物

 イーハトヴ童話『注文の多い料理店』は大正十三年十二月一日付けで、東京光原社・杜陵出版部と発売元が併記された形で発行されたものであるが、発行に先立って作成された数種類の広告物の存在が知られている。

  (a)振替用紙裏広告文
     近森善一著『蝿と蚊と蚤』にはさみ込まれていた図書注文用振替用紙。

  (b)広告葉書(二種類)
     『注文の多い料理店』刊行に際して作られた二種の広告用私製葉書。

  (c)広告ちらし(大・小)
     『注文の多い料理店』刊行に際して作られた大小二種の広告用ちらし。

  (d)その他
    (イ)東北農業薬剤研究所刊の小熊彦三郎著『有利副業 除虫菊の栽培』の扉前頁の近刊広告中。
    (ロ)「岩手教育」大正十三年十二月号の内扉前頁。一頁大の広告。
    (ハ)童話集「赤い鳥」大正十四年一月号。一頁大の広告。

 以上が『新校本宮澤賢治全集』(1)(以下、『新校本』と略記)に収録されている広告物の一覧であるが、このうち、童話集の成立に関して興味深い情報を提供してくれるのは、(a)振替用紙裏広告文(b)広告葉書(c)広告ちらしの三種類であろう。そこで、これらの広告物の成立を、これまでの研究史を踏まえつつ考察し、童話集がどのような段階を経てイーハトヴ童話『注文の多い料理店』発行へ結実していったのかを検証してみることにする。

     (2)童話集収録作品の成立から「序」の成立前後

 イーハトヴ童話『注文の多い料理店』の目次には、収録された作品にそれぞれ日付が次のように付せられている。

  どんぐりと山猫・・・・・・(一九二一・九・一九)

  狼森と笊森、盗森・・・・・(一九二一・一一・…)

  注文の多い料理店・・・・・(一九二一・一一・一〇)

  烏の北斗七星・・・・・・・(一九二一・一二・二一)

  水仙月の四日・・・・・・・(一九二二・一・一九)

  山男の四月・・・・・・・・(一九二二・四・七)

  かしはばやしの夜・・・・・(一九二一・八・二五)

  月夜のでんしんばしら・・・(一九二一・九・一四)

  鹿踊のはじまり・・・・・・(一九二一・(ママ)九・一五)

 これらの日付は、作品の印刷用原稿が現存していないので、この目次でのみ確認されるものである。この日付が作品のどういう成立形態を示すものであるか、確定的には言えないものの、恐らく、作品として一応の形をなした成立日と考えることは可能であろう。
 これらの日付が示す通り、大正十三年十二月に出版された『注文の多い料理店』の収録作品は、大正十年八月から翌大正十一年四月のおよそ七カ月半の間に成立したものと考えられるが、それらが出版という形で世に出たのは、それからおよそ二年半以後のことになるのである。
 ところで、賢治にとって、大正十年、十一年という年は、生活上の面だけでなく文学的側面からも大きな転機を迎えた年である。大正十年一月から八月までの「家出上京」中は、国柱会の高知尾智耀氏からの「奨メ」により(法華)文学を志し(2)、短歌からそれ以外のものへと自身の主な表現手段が自覚的に変化して行こうとする時期であった。帰京後、矢継ぎ早に「かしはばやしの夜」を始めとする『注文の多い料理店』収録作品のほとんどを一応の形に成立させていることからも、その打ち込みようが窺い知れる。しかし、これらの作品は投稿する当てのあったものではなく、『注文の多い料理店』に収録、出版されるまで新聞や雑誌等に掲載されることはなかった。
 『宮澤賢治年譜』(3)(以下、『年譜』と略記)によれば、大正十二年十二月二十日に「イーハトヴ童話集刊行の意志をもち「序」を書」いたということになるのだが、これは、『注文の多い料理店』の「序」に付された日付を根拠にしてのものである。童話集刊行の意志を賢治に持たせたその契機は、同『年譜』によれば、盛岡高等農林の後輩にあたる近森善一氏の花巻農学校訪問にあるという。教科書や図書、農薬売り込みが目的であったこの訪問の時期は、堀尾氏自身「正確ではないが」と記した上で、「一二月一〇日以後二〇日迄と推定し」ているのだが、この推定の根拠にはいくつかの問題点があり(4)、また、「序」を書くに至る契機についても、鈴木健司氏が指摘するように、「童話集『注文の多い料理店』の発刊の契機は、近森が商売上花巻農学校に賢治を訪問したことにより偶然生じたのでなく、近森が花巻農学校を訪問する以前から賢治の内部に準備されつつあった、との見方も成立」(5)する可能性のあることが近年になって論じられるようになってきた。

     (3)広告物の印刷時期

      (a)振替用紙裏広告文

 近森善一著『蝿と蚊と蚤』にはさみ込まれていた図書注文用振替用紙は、全くの偶然から恩田逸夫氏によって発見された(6)ものであった。用紙の裏面に近刊予告と出版目録、そして童話集の広告文が記載されていて、近刊予告には童話集の題名が『山男の四月』とあり、また、広告文には「少年文学 宮澤賢治著/童話 山男の四月/発行予定四月中/定価 金壱円」とあって、そこには「かしはばやしの夜」の一部分が掲載されている。振替用紙にあるこの他の近刊予告には、五十嵐博著『化学実験法』(発行予定三月中と記載)が、また出版目録には小熊彦三郎著『果樹園芸教科書』(7)(発行月日大正十三年二月(ママ)十日)、小熊彦三郎著『蔬菜園芸教科書』(発行月日大正十三年二月二十日)、近森善一著『病虫害防除便覧』(発行月日大正十二年七月五日)、近森善一著『蝿と蚊と蚤』(8)(発行月日大正十二年(ママ)月十日)がそれぞれ記載されている。恩田氏は、これらの出版目録と近刊予告に掲載されている書籍の発行日から、この振替用紙の印刷時期を、大正十三年二月二十日以降二月下旬までの間であると推定し、「この広告文によれば「少年文学」や「童話」などの語を用いていて、まだ、「イーハトーヴォ童話集」ということばは現われていない」と指摘(9)している通り、童話集は「序」の成立時期から振替用紙の印刷時期まで『山男の四月』という題名であったことが了解される。

      (b)広告葉書

 その後、童話集が『山男の四月』から『注文の多い料理店』という題名に変更されて広告されるのは、(b)広告葉書からであるが、(c)広告ちらしより若干早い時期に印刷されたと推定するのは、童話集の題名に「イエハトブ童話」と付されていて、広告ちらしの方の「イーハトヴ童話」とは異なる点を根拠にしたことによる。この広告葉書には童話集の目次が付されているのだが、

  1 山男の四月

  2 水仙月の四日

  3 月夜の電信柱

  4 鹿踊の始まり

  5 どんぐりと山猫

  6 烏の北斗七星

  7 注文の多い料理店

  8 かしはゞやしの夜

  9 狼森と(ママ)森、盗森

という順序で作品が配列されていて、ここで初めて童話集の収録作品が確定された事が窺い知れる。
 この他、「(新刊書御案内十一月十日発売開始)」、「◎新刊書御案内◎/愈々1924,11,15日より/発売開始」となぜか日付の違う発売開始日が二つあるものの、記載されている点が注目され、これらの日付から、この広告葉書が遅くとも十月下旬頃までには印刷されていたと推定することができる。ここで、広告葉書の表面に「東京巣鴨町宮下一七九四/東京光原社」とあることに注目すると、現在知られている光原社関連資料に、七月十日の日付が印刷された東北農業薬剤研究所出版部の「暑中御伺」葉書(10)があり、その葉書には「東京支店 光原社/下渋谷一、一□□(二字不明)」とあるが、広告ちらし(大)では「東京光原社/東京巣鴨町宮下一七九四」となっていて光原社の所在地の変更が行われたことを確認できることから、この広告葉書の印刷時期は、大正十三年七月十日以降十月下旬頃の間と推定することができる。

      (c)広告ちらし

 広告葉書より若干後に印刷されたと推定される「広告ちらし」には(大)(小)二種類の存在が知られている。
 記載されている内容については後述するのでここで多く触れないが、表題作を「山男の四月」から「注文の多い料理店」へ変更した理由を探る上で一つの手がかりとなるのが、この「広告ちらし」である。(大)(小)どちらにも、賢治自身の文案によると考えられている、収録作品の内容説明とテーマのようなもの(以下、説明文と記す)が書かれてあり、「山男の四月」と「注文の多い料理店」についてはそれぞれ次のように記されている。

6 山男の四月
四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢です。
烏の北斗七星といつしよに、一つの小さなこゝろの種子を有ちます。
4 注文の多い料理店
二人の青年(ママ)士が猟に出て路を迷ひ「注文の多い料理店」に入りその途方もない経営者から却つて注文されてゐたはなし。糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。

 両者を比べてみてわかる通り、説明文からは、「山男の四月」より「注文の多い料理店」の方がテーマ性の強い作品であるように窺える。この広告ちらし自体は、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』のものであるわけだが、テーマ性の違いからだけみても、表題作の変更は、童話集の方向性の転換としてはかなり思い切ったものであったことがわかる。
 童話集の目次の順序を見ると、(大)(小)とも、

  1 どんぐりと山猫

  2 狼森と笊森と盗森

  3 烏の北斗七星

  4 注文の多い料理店

  5 水仙月の四日

  6 山男の四月

  7 かしはばやしの夜

  8 月夜のでんしんばしら

  9 鹿踊りのはじまり

となっており、広告葉書と比べると順序に異同が見られるものの、収録される作品に増減はない。
 広告葉書同様、広告ちらしにも発行(予定)の日付があるが、(大)「一九二四、一一、一五」、(小)「一九二四、一一、一〇」とそれぞれ別の日付が記載されていて、また、広告ちらし(大)でも「東京光原社/東京巣鴨町宮下一七九四」となっていることから、広告ちらし(大)の印刷時期は広告葉書同様、大正十三年七月十日以降十月下旬頃の間と推定することができる。広告ちらし(小)については、(大)の方にあった誤植の一部が訂正されてあることや「(来る十四日より全国各書店にて一斉に発売申候)」とあることからみて広告ちらし(大)より後に印刷されたものだと推定できる。

     (4)検証の結果から

 童話集発行に先立つ数種類の広告のうち、(a)振替用紙裏広告文(b)広告葉書(c)広告ちらしの三種類の検証から窺える童話集の発行までの過程は次のようなものである。
 イーハトヴ童話『注文の多い料理店』の「序」に付せられた日付から、童話集の「序」の成立は大正十二年十二月二十日であると見ることができものの、『山男の四月』発行予定の記載のある振替用紙裏広告文の印刷時期は大正十三年二月二十日以降二月下旬までの間であることから、その「序」が書かれた時期の童話集の題名は『山男の四月』であったことがわかる。収録された作品は、表題作の「山男の四月」と「かしはばやしの夜」以外、振替用紙裏広告文印刷時期の時点では不明である。
 その後、童話集の題名が『注文の多い料理店』へ変更されたのは、(b)広告葉書(c)広告ちらしが印刷されたと考えられる大正十三年七月十日以降十月下旬頃の間であり、収録される作品もこれと同じ時期に確定したと考えられるが、配列順序の確定は童話集出版間際になったようである。

     三 表題作の変更に関して

     (1)題名変更に関する疑問点

  前章で確認した通り、童話集は『山男の四月』から『注文の多い料理店』へと題名が変更されたが、このことは、表題作が「山男の四月」から「注文の多い料理店」へ変更されたことも、同時に意味している。
 まず、童話集の題名変更へ至ったそもそもの理由だが、堀尾氏の『年譜』には次のように記されている。

 刊行者側の異変は、最初から賢治と交渉のあった近森善一が、父親から急遽帰郷するよういわれ、高知へ発ってしまったことである。父の応援する候補者のための選挙の手伝いである。第一五回総選挙は五月一〇日が投票日だから、少なくとも三月中に帰ったと思われる。で、協力者であった及川四郎が刊行を引きついだが、薬剤研究所(改名して光原社。杜陵出版部)には出版費用もなく、近森ももどらず、いろいろ見積りをしては出版形態の検討を迫られた。賢治としては四月に『春と修羅』と同時発刊の夢は消え、『山男の四月』の書名はふさわしくなくなり、『注文の多い料理店』として九篇の作品の配列も改めて度度勘考された。

 つまり、童話集の出版費用の都合がつかず、そのため当初予定していた四月の発行が不可能な状態になってしまったため、『山男の四月』では題名に四月とあるのでふさわしくなくなったということらしい。だか、このことが、もし、題名変更の理由の全てだとしたら、『山男の四月』という題名はかなり安易な決定であったと思わざるを得ないし、そもそもこの程度の理由で題名を変更する必要があったのかという疑問は当然ながら生じてくるのではないだろうか。
 『山男の四月』という当初の題名の決定について、恩田逸夫氏は次のような推定を試みている。

 ともかく、賢治が原著に書きつけた日付が正しいと考えられるし、したがつて『かしはばやしの夜』がもつとも古く、『山男の四月』がもつとも新しい作品である。このことを証明する手がかりが、広告文の中からさぐることができると思う。つまり、童話集の刊行を思いたつて広告を書く際に、収録予定の原稿を整理してみて、先ずとりあえず、いちばん最初の作品を作例とし、もつとも新らしい作品の題名を書名として選定したのではないか、と考えられるのである。  (略)『山男の四月』という書名であれば、とりたてて風変りな名称というわけではない。だが、それだけに、この書名がやがて『注文の多い料理店』という特異な名称へと移つて行く過程には、賢治が童話集の刊行を重く見て、なみなみでない情熱をはらつていたことが物語られていると思う。(11)

 この論考は昭和三十七年のものなのだが、当初の童話集の題名が『山男の四月』であった理由について、以後、確定的な見解は現れていない。その主な理由は、賢治自身が童話集の題名決定と変更理由について何も語っていないことや、発行に関しての当事者である及川四郎氏が当初の題名を『山男の四月』であったと記憶していなかった(12)という点があげられる。また、「賢治が童話集の刊行を重く見て、なみなみでない情熱をはらつていた」というのは、恐らくその通りなのだろうが、ただ、そうであるなら、なぜ当初から題名を『注文の多い料理店』としなかったのか疑問が浮かぶ。恩田氏の述べる「特異な名称へと移つて行く過程」には一体どのような推移があったのであろうか。残された資料から窺える事実は、広告ちらしが印刷されたと考えられる大正十三年七月十日以降十月下旬頃の間に、童話集の題名が『山男の四月』から『注文の多い料理店』へ変更されたということだけである。題名が変更された直截の理由について、資料的な面からは、現在のところ、不明としか言えないが、ここで表題作の変更という観点を視野に入れた場合、賢治は「山男の四月」より「注文の多い料理店」の方に、より、童話集の表題作にふさわしいと見做す何らかの理由を見いだしたと考えることができるのではないだろうか。

     (2)「注文の多い料理店」が当初表題作となり得なかった理由

 広告ちらしの説明文にある通り、「注文の多い料理店」は、「二人の青年(ママ)士が猟に出て路を迷ひ「注文の多い料理店」に入りその途方もない経営者から却つて注文されてゐたはなし」というものであり、作品の最終部分では「途方もない経営者」である山猫に食べられそうになるものの、白熊のような犬と猟師に辛くも救われ山鳥を買って東京へ帰るといった内容である。いわゆる成金と言われるものに属するような紳士たちの言動と、最終部分で紳士の一人が〈「だからさ、西洋料理店といふのは、ぼくの考へるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とかういふことなんだ。」〉と自らのおかれた状況に気づかされたときの主客の逆転にこの作品の持ち味があり、またそこに風刺的側面を読み取ることができる。
 ここで、表題作の変更理由を検討する上で注目したい語が作品の最終部分に存在していることを指摘したい。

そして猟〔師〕のもつてきた団子をたべ、途中で十円だけ山鳥を買つて東京に帰りました。
しかし、さつき一ぺん紙くづのやうになつた二人の顔だけは、東京に帰つても、お湯にはいつても、もうもとのとほりになほりませんでした。

 引用した連続する二つのセンテンスで二度使用されている「東京」という語がそれである。この「東京」という語は作中三箇所ほど使われているが、引用した箇所以外は、前半部分の、

「それあさうだ。見たまへ、東京の大きな料理屋だつて大通りにはすくないだらう」

という箇所で使用されており、ここに「東京」とあることから、後半部分で「東京」という地名が、ただ単に、作品内部での整合上使用されたと見ることもできるのだが、「東京」という語は童話集に収録された他の作品での使用例が無く、その点から見てもかなり意図的な使用であると感じさせられる。
 『新校本』十二巻校異篇によれば、「注文の多い料理店」は印刷用原稿も下書き稿も現存していないのだが、書き損じの断片が三点ほど残されており、そのうちの「断片3」は次のようになっている。

「うん。しかし支那の西洋料理屋はこんなだと云ふはなしだよ。」
そして二人はその扉をあけやうとしますと
上に黄色な字で斯う書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこは御承知下さい。」
「ふん。仲々はやるんだね。こんな山の中でも。(以下空白)

 作品の本文と比較すると、断片での〈「うん。しかし支那の西洋料理屋はこんなだと云ふはなしだよ。」〉という箇所が本文では〈「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなかうさ。」〉に変更されている以外、目立った違いは見あたらない。断片の「(以下空白)」以降は、本文では、〈「それあさうだ。見たまへ、東京の大きな料理屋だつて大通りにはすくないだらう」〉と続くのだが、その部分に相当する断片等の存在は無く、「東京」という語が作品の成立当初からあったものなのかどうか、この断片からは推測することができない。
 しかしながら、やはり「東京」という語は、遅くとも当初の童話集題名決定時期以前までには存在したと考えられよう。というのは、先に引用した「東京」という語が使用されている二つのセンテンスから「東京」を削除しても内容上の問題は生じないし、前半部分との整合性にもほとんど影響しないことは明らかであって、それゆえ、あえて、「東京」という語を使用することによって、「注文の多い料理店」は風刺的側面の強い作品に仕上げられていると見ることができるからである。
 だが、このことは、童話集の一収録作品としてなら効果的かもしれないが、表題作となると集としての方向性を多少なりとも負うわけであり、当初、「少年文学」と銘を打たれた童話集の方向性は、後の広告ちらしにある「山男の四月」の説明文から、「一つの小さなこゝろの種子を有ちます」というものであったと考えられるため、そうした当初の童話集の表題作にはそぐわない。また、こうした童話集としての方向性が仮に考慮されなかったとしても、作品に強い風刺的側面を付与する「東京」という具体的な地名の存在は、初めて自らの作品集を出版する者にとって、マーケットとして大きい東京での読者の獲得という面でマイナスとなるのではないかという危惧感を抱かせるのに十分であり、それゆえ「注文の多い料理店」を表題作とすることに躊躇したと推測してもそれほど不自然ではないだろう。つまり、「東京」という語が使用された作品ゆえに「注文の多い料理店」はその当初、表題作とはなり得なかったと考えられるのである。

     (3)表題作への変更契機

 次に、童話集の表題作が「山男の四月」から「注文の多い料理店」へ変更されていくその契機について考えてみたい。
 繰り返しになるが、童話集の題名が変更されたそもそもの理由は、童話集の出版費用の都合がつかず、そのため当初予定していた四月の発行が不可能な状態になり、『山男の四月』では題名に四月とあるのでふさわしくなくなったからであるらしい。四月の発行にこだわっているのは、心象スケッチ『春と修羅』との同時発行を目論んでいたためのようである。周知のとおり、心象スケッチ『春と修羅』は、予定通り、大正十三年四月二十日に自費出版されたが、実は、この『春と修羅』の出版による経験や自信などが童話集の題名変更を促す契機となったのではないかと考えられるのである。
 『春と修羅』は童話集の出版計画がまとまった後に出版計画を立てたものであった。童話集の出版計画より後になった理由の一端を示す回想を近森善一がしている。

 …それからね、ぼつぼつ出版をやりました。いろいろね。しまいになってくると、わしらじゃなしに他の人の出版もやりました。農業学校の教科書をだいぶしました。幾通りもね。十通りほど出版しただろうか。それで、かなり景気がよくなってきたです。その時ね、宮沢がね、おとぎ話書いてね、それから、詩も書いて、あの時分には詩は自分もそんなに自信がなかったようだ。おとぎ話は出版してやろうと思ってね。だれか東京の、わしは忘れたけれど、小川未明という人があったでしょ。わしはあの人だったように思うが。[その人か、鈴木三重吉さんかですね]とにかくね、わしもその時分には知っていたんだけれど、そこへ行って見てもらったということだ。見てもらったらね、ぼろくそに言われたということだ。わしはちょっと思い違いして他にあったかもわからんが、何でも「内容的に教訓的なことがないというような批判をされた」と言ってね、怒ってわしのところに来たですよ。「読んでみてくれ」と言ってね。(13)

 小川未明に童話を見てもらった件については、回想として他にもあるが、今現在逸話のレベルであって確証的ではないのだが、それはともかく、当初の童話集出版計画が持ち上がった頃、賢治は詩より童話の方に自信があったことがこの回想から窺える。しかし、結果的には自信のあった童話集より先に『春と修羅』が出版された。
 ところで、『春と修羅』出版後の紹介や批評記事のうち、大正十三年分では三つばかりその存在が知られている。一つ目は出版の約十日後の五月一日付「東京日日新聞」の新刊紹介記事(14)で、二つ目は七月二十三日付「読売新聞」で辻潤が「惰眠洞妄語(二)」において、三つ目は十二月発行の「日本詩人」で佐藤惣之助が「十三年度の詩集」においてそれぞれ批評をしている。それらの記事を全て同時期に賢治が読んだかどうかは詳らかではない(15)が、いづれにせよ、早い時期に『春と修羅』は少ないながらも評価がなされたことがわかる。
 このうち、広告葉書や広告ちらしが印刷されたと考えられる時期以前のものは、新刊紹介記事と辻潤の批評である。出版計画当初、童話に比べてあまり自信のなかった詩が、心象スケッチ『春と修羅』として童話集よりも先に出版できたことや批評記事等の掲載があったことは、初めて自らの作品集を出版した者にとっての一つの成功であり、それとともに、一冊の書物を出版したことによる自信は、出版の遅れている童話集に対して、そのあり方の再考へ取り組ませる意欲を少なからず生じさせたであろう。このことが一つの契機となって童話集の表題作は「山男の四月」から「注文の多い料理店」へ変更されていったと考えられるのである。

     四 「注文の多い料理店」の表題作としての有様

 広告ちらしに「注文の多い料理店はその十二巻のセリーズの中の第一冊で先づその古風な童話としての形式と地方色とを以て類集したもの」とあるように、童話集は「十二巻のセリーズの中の第一冊」としてのイーハトヴ童話『注文の多い料理店』へ推移していった。この過程のなかで、「注文の多い料理店」は単なる一収録作品から表題作へとその位置を変えていったのだが、童話集の表題作にふさわしいと見做したその理由を探る一つの手がかりが「地方色とを以て類集した」という言葉である。
 広告ちらしの冒頭部を見ると、

 イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリス(ママ)辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン(ママ)王国の遠い東と考へられる。
 実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもつて実在した
 ドリームランドとしての日本岩手県である。

となっていて、「イーハトヴ」は「ドリームランドとしての日本岩手県である」という宣言的な説明が施されていることが見て取れる。地理上実在する「日本岩手県」という地名が記されていることからして、イーハトヴ童話と付された童話集が地方色を前面に出したものとなっていることが冒頭部分から窺い知ることができよう。しかし、ここで一つ気づかされるのだが、表題作の「注文の多い料理店」の内容は決して「地方色」に彩られたものではなかったはずではなかったか。そもそも、「注文の多い料理店」が表題作となり得なかった理由は、前章で確認した通り、「東京」という具体的な地名の存在である。それにもかかわらず「地方色とを以て類集した」という童話集の表題作となっているのはなぜなのだろうか。
 ここで、広告ちらしの説明文の一節に再び注目してみたい。「糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です」という箇所を「注文の多い料理店」の本文と照らし合わせてみると、「糧に乏しい村のこどもら」が「止むに止まれない反感」を抱く「都会文明と放恣な階級」に属するのは「東京」から来た紳士たちであることが作品を一読するだけで了解できる。つまり、「都会文明」=「東京」という図式とともに「反感」の矛先が「東京」へ向けられていることがわかるのだが、しかし、これでは風刺というよりあからさまな批判であると受け取られかねない。説明文の記述には、そのような危険性が孕まれていると言えるのだが、ここで注意すべき点は、「注文の多い料理店」に「村のこどもら」は一度も登場してこないという事実である。そのため、「止むに止まれない反感」の内容がどういったものであるのか、それとわかる直截的な表現がないこともあって、作品を一読しただけでは非常に理解しづらくなっている。むしろ、広告ちらしの説明文によって「注文の多い料理店」にそのような「反感」が内在することが初めて理解され、作品をそういう方向性で読ませようとするような奇妙なねじれが生じていることがわかる。どうもこの辺に賢治の意図的な企みが読み取れる。つまり、広告ちらしの説明文にあることは当初からあったものではなく、後日、童話集の題名が変更される過程でそれまで賢治自身に去来していた何事かが作品に付与された結果なのではなかったか。
 『春と修羅』の出版という一つの成功による自信が、出版の遅れている童話集に対して、そのあり方の再考を促す契機となった時、「注文の多い料理店」にある風刺性や「東京」という語はやはり気にかかる存在だったであろう。再び「注文の多い料理店」へ向ったとき、「東京」という語が、童話の方に自信を持っていながら未だ受け入れられず、童話集の発行もままならないという一つの現実を思い起こさせたかもしれない。しかし、それ以上に強く思い起こさせられたであろうことが、後の書簡に書き記されている。

私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。
          (略)
どうせ家を飛び出したからだですから、どこへ行ってもいゝ訳ですがいろいろの事情がもうしばらく、或は永久に、私をこゝへ縄りつけます。(大正十四年二月九日付、森佐一あて書簡)
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。(大正十四年十二月二十日付、岩波茂雄あて書簡)

 これらの書簡から、この時期、賢治は何か心理学的な勉強をしたいと強く望んでいたらしことが窺われる。恐らく、入手できる書籍も地方では限りがあることから、これらの勉強をするためには、やはり「都会文明」の地である「東京」でなければならないと考えていたのであろう。しかし、当然ながらそれが許される現状にはなかったのである。
 また、「放恣な階級」というのは、何も成金と言われる者たちだけが属しているわけではなく、大正十年の上京中に書き記した「電車」という短編に登場する大学生なども、「都会文明」の地にいる「放恣な階級」に属する者と、言わば見て取れることをも思い起こしたのではなかったか。
 そういった「都会文明」や「放恣な階級」に対して、どうしてもやめることができない反抗的な感情を抱いているのは「村のこどもら」の側に立っている賢治自身なのだ。そして、「糧に乏しい」でいう「糧」とは食物のことではなく、「読書は心の糧」というような、つまり、精神活動や生活のために必要となることを意味する「糧」なのではないかと考えたとき、「注文の多い料理店」には登場しない「糧に乏しい村のこどもら」の抱く「止むに止まれない反感」が指し示しているものが何であるのか理解できよう。それは、「正統な勉強の許されない」大正十三年中ごろの紛れもない賢治自身の姿なのである。「反感」とは、憧憬する「都会文明」への裏返しの感情なのだ。
 繰り返すが、説明文にあるこの「止むに止まれない反感」という感情は「注文の多い料理店」に当初から内在していたものではなく、後日、童話集の題名が変更される過程において、その時期の賢治自身に去来していた「都会文明」への思いが付与されたものだと考えられるのである。この思いは、あからさまな批判であると受け取られかねない危険性を孕ませた説明文となって、「広告ちらし」という広告メディアにのみ書き記されるが、これは、「注文の多い料理店」が「糧に乏しい」一地方的な存在からの発信であることを宣言化した一つの挑戦的な声明文であるともみれよう。一地方的な存在からの発信であることを前面化したことで、童話集の方向性は「地方色とを以て類集した」というものに決定付けらたのである。このことにより、「注文の多い料理店」は一収録作品から表題作という位置へその有様を変え、童話集の題名をイーハトヴ童話『注文の多い料理店』へと変更させたのである。


 付記 「注文の多い料理店」の本文は『新校本宮澤賢治全集』第十二巻本文篇(平成平成七年十一月、筑摩書房)による。
    なお、本文その他の引用での表記は旧仮名、新字体とし、また、注記やルビは省いた。


[「國學院大學大学院紀要―文学研究科―」第三十輯(1999年3月) 所収]