蕎麦の記
寸木主人の蕎麦の徳をたたえる戯文です(寛永2年=1749年の「風俗遊仙巻1末尾に集録)
今 曾 併 一 羅 玉 調 五
信 聞 呑 撮 汁 宇 和 品
大 人 頃 暫 陳 莱 蕎 菜
言 是 刻 時 皮 菔 麦 蔬
不 肖 入 空 玄 青 統 通
荒 天 胸 器 映 増 陰 五
唐 地 腹 盌 黄 白 陽 行
夫れ蕎麦は五穀の内にあらずといへども、其用五穀にひとしく、其の味はひは又微妙なり。
されば蕎麦に天地陰陽五行の理を備ふ。
その故いかんとすれば、まず熱湯を以って和してねりあわせ一団となす時は空にして一大極
(万物の根源))の形なり。
其の色黒からず白からず溟涬(めいけい=天地の気がまだ陰陽にわかれていないさま)とどよみたる
は、混沌未分の形なり。
麺棒は二柱の御神(イザナギ・イザナミのミコト)、天(あめ)橋のもとにして、豊葦原を探りたまいし
天の逆矛となり、打つ音は雷神なり。
既にうちのばしたるところは開闢(かいびゃく)天円の形。方にたたむは地の形なり。是をきざむは
国々を分くるなり。
初めは陰にして、煮て陽となる。陰陽かね備えたるにあらずや。
五行にかなふといふは、先ずひともじ(ネギの女房詞)は其色青く、東方の色にして木の徳を備へ、
たうがらしは赤く、 南方の色にして火の徳をたもち、陳皮(ちんぴ=蜜柑の皮を』乾かした物)は黄に
して、中央の土の徳にかなふ。
からみ(辛味)は白くして西方の色、金の徳を表し、汁は黒くして北方の色、水の徳に準ず。これ五行
一々に 備わるに あらずや。
また四時造化(自然の順行)にもかなふ。けずるかつをは春の花盛りを見せ、切り味噌は秋の紅葉を
あらわす。
昼食するを日食とし、夜食するを月食とす。すべて天道に叶い、地理にそむかず。
猶その初めを尋ぬるに、昔世尊(釈迦牟尼の尊称) 霊鷲山(れいじゅうさん)においては相成道(悟りを
開く)の後、須弥山の頂上に登り、御説法ありしに、八方4千の大衆に、尋常(よのつね)のもてなしは
事繁く、手廻りは自由ならずとて、初めてこの蕎麦切をうたせ、七宝の大鉢にいれ、盛りかへなしに
引き給ふ。
これけんどんの初めにして、仏(ぶつ)かけ蕎麦と申すとかや。
震旦(中国のインドでの古称)にわたりては、桀紂(けっちゅう=夏と殷の典型的な暴君)そばをひきゆる
に棒を以ってして、民これを服せしとなり。
また漢の武帝は河東に行幸して、汾河を渡り、群臣と飲宴す。中流にしてそばをあぐ。上(しょう
=天子)よろこべる事 はなだたし。多く喰わばあたらん事を憂えて、即ち中風(ちゅうふう)の辞(武帝の
抒情詩ー秋風辞をもじったもの)を つくり給ふ。
さて我朝にいたりては聖徳太子、守屋大臣(おおおみ=物部盛屋)をほろぼし仏法をひろめ、緒経を
講じ給ひし時、天竺の例にまかせて近臣に命じて、是を仏法帰依の聴衆にすすめ給ふ。
そばを用ふるによって、彼の臣下をそばの稲目(蘇我稲目)と申せしとかや。
その後天正年中に至りて豊臣秀吉公天下を一統し、北野に於いて茶の湯の大会を催し、後段(こだん
=振る舞いの最後)にこれをうたせて近習の者にたまわる、さるによっておそば衆(側衆)という。
昔より天下太平の時なれな上(かみ)高位貴人より、下(しも)無官無鄙の者までもことごとく是を
賞玩せずといふ事なし。
或いはやんごとなき玉垂(たまだれ、すだれの美称)の内にも、大紋(江戸時代の5位以上の武家の
式服)のはまかのそばをとり(合引き=袴の両脇の下部の前後を縫い合わせて所をつまみあげて、
腰の紐にはさむ事)、女郎花(おみないし)の一時をこねると書きしも、そばを好める人の葉なり。
この故に、大名高家の後段に用ひずといふ事なし。僧俗匹夫にいたるまで、手打ちなりとて馳走を
もてなしの第一とすること、其徳をあげてかぞうふべからず。
けだし飽くもあしく、足らぬもよからず、ただ中庸にしたがひ、捨てずして常に食するときは長生不老の
仙食たりとぞ。
あめつちの理を備えたる蕎麦なればたかまが腹(原)に留まりにけり。
参考文献 蕎麦年代記(新島 繁著)
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