「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成17年2月の日々一献


★「獺祭」磨き二割三分★17/2/23のお酒
 「うまい」酒といい酒は同意ではない。
 「むの字屋」では、「うまい」というのは、あくまでも庵主が好きな味だという意味で使っている。万人にとってうまいということを保証するものではない。
 うまい酒といい酒の違いは、車で言えば、自分が普段乗りたい車と高級車みたいなものである。
 「うまい酒」=「いい酒」だとしたら、逆にいえばいい酒はうまい酒ということなるが、高級車はたしかにいい車ではあるが、そういう気障な車を普段から転がしていて楽しいかというとそういうことはないだろう。乗っていて気恥ずかしくなるのである、庵主の場合は。
 いい酒より、うまい酒の方がずっと楽しいのである。

 また、庵主においては「うまい」酒とおいしい酒もまた同じではない。それを今年(平成17年)からきちんと書き分けることにしたということは別に書いた通りである。
 「うまい」よりおいしいの方が上である。おいしいよりさらに楽しいお酒が一番うれしいのである。

 獺祭の会で「獺祭」の磨き二割三分を呑む。遠心分離上槽やにごりを呑む。
 精米歩合23%のお酒である。
 この酒を飲んでまずいといったら、自分の味覚が貧相なことを晒すだけである。かといって、ただうまいと言ったのでは表現力の欠如を世に示すようなものである。ボキャブラリー(語彙)の貧困を露(あらわ)にするだけである。
 二割三分は、はっきりいって「うまい」酒ではないのである。ではまずいのかというとそれは当たらない。
 うまいとかまずいとかを超越したお酒だからである。
 ハレとケという言葉があるが、二割三分はハレのお酒なのである。うまいとかまずいとかいったケの基準で評価できる酒ではないのだから。
 だから、庵主はただ満面に笑みをうかべて味わうのである。なにも言わない。いやいえない。
 ではこういうお酒はなんといったらいいのだろう。
 晴れの酒なのである。はなやかなお酒であるとでもいっておこう。純白のウェディングドレスを貶す言葉は必要ないのである。僻む言葉あるけれど。
 僻むというのは貧乏人の自尊心である。自尊心がなくなったら奴隷だから、僻むことはそれはそれでいいことなのである。ただみっともないだけなのである。

 いろいろなタイプがある「獺祭」の中では五割の遠心分離上槽が庵主の好みだった。おなじ磨きの通常搾りの「純米吟醸50」が庵主にとってはただのいいお酒だとしたら、「遠心分離の50」はうまい酒なのである。
 「獺祭」の50は値段も手頃で、たしか四合瓶で1500円ぐらいだと思った、お買い得な酒なのだが、遠心分離で上槽したものでも値段は100円かそこらしか違わないはずである。だったら「遠心分離50」がうまい。
 庵主の値頃感は四合瓶で1600円ぐらいのうまい酒である。「冬樹」の生酒が四合瓶で1600余円だから、それが基準になっているだけであるが。
 庵主の知人も1600円が値頃だという。ただし知人は一升瓶で、である。
 うまいまずいも人それぞれなら値頃感もまたそれぞれなのである。

 蔵内平均精米歩合がなんと41%という酒造りの一つの行き方を存分に楽しませてくれた会だった。


★やっぱり「開運」★17/2/16のお酒
 燗にしてうまいお酒はないかと探している。
 「雁木」(がんぎ)の純米を呑んでみるか、それとも「常きげん」(じょうきげん)でいくか、「秋鹿」(あきしか)の山廃はどうかな、「夢醸」(むじょう)あたりを当たってみようか、あるいは「貴」(たか)の雄町が燗もいけるかもしれないと思案はしているのだが、今年はこれだというお酒にまだ出会わないのである。決定打がないのである。

 酒も出会いなのである。選んだからといっていい物が手に入るとは限らない。とりわけ庵主の選択はことごとく外れるのである。それで落選した候補者がいっぱいいるという話は別に書いたことがある。
 いい酒に出会うためには人徳を、いや酒徳を積まなければならないのである。そうすれば、いいお酒は向こうのほうからやってくるものである。庵主、いま酒徳が落ち込んでいるのである。

 はじめに「賀茂泉」を燗にしてもらった。色はむかしから変わらない山吹色(そんなに濃くはないが、無色透明のお酒が多い中にあってははっきりと黄色いのである)で、こってりした感じの色は変わらない。で、燗をつけたときの味はというと、庵主が求めている味とちょっと違うのである。よくある乳酸由来の味わい、老ね香みたいな味がする。

 本来の燗酒の旨味というのはそれを言うのだろうが、しかし、庵主が呑みたい燗酒の味わいはそれとは違う。もっとモダンな味わいなのである。そして、現に庵主の求める味の酒があるのである。
 「本丸」のぬる燗、「磯自慢」の本醸造のぬる燗、「奥播磨」純米のぬる燗、「竹林」ふかまりの燗、「あら玉」改良信交の純米大吟醸の燗、そして去年の冬に呑んだ「開運」純米無濾過の燗である。
 その路線の燗酒を探しているのである。

 次に、ひょっとしてと思って頼んだ山廃純米「飛良泉」の燗も、味わいがすっと軽くなって、よくいえばすっきり呑める燗酒になってしまった。冷やで呑めばそれなりの厚みを感じる味のはずなのに、燗をつけるとそれが薄っぺらく感じられる。もったいないことをしてしまった。

 最初から「開運」の純米を頼めばよかったのある。それはわかっているのである。
 ただ庵主の浮気症がもたげてきただけなのである。
 「開運」の燗を呑んでみる。この味だと思う。庵主にとっての燗酒のうまさがそこにあった。口の中がここちよい温もりで満たされる。お酒の味わいがきれいにふくらんで、冷やで呑んだ時には眠っていたようなうまさが目を覚ましてにぎやかな味わいとなって舌に幸せをのっけてくれるのである。
 もちろん、いくらでもうまいお酒はあるが、いまこの味わいにひたることができるなら、もうそれ以上のうまさを追い求めることなんかどうでもいいように思える満足感と充実感に包まれるのである。

 現在のお酒は冷やで呑んでうまいように造られているが、酒は燗酒という江戸時代のしきたりが人間にとっては正しいお酒の呑み方なのではないかと納得してしまうのである。
 もちろん、江戸時代のお酒より現代のお酒の方がずっと品質はいいのである。しかし、品質がいいということが体にとってうれしいことかということとはまた別のことである。
 現在の高品質の車と昔の車を比べたときに、今の車を運転することが楽しいかというとそうとはいえないのと同じように。

 うまい燗酒を呑んだときの体の喜びようは、どんな「うまい」美酒を呑んだときよりも大きいのだから。
 ただ、そういうお酒が、燗にして大当たりというお酒がなかなかないのである。
 当今、昔と比べると商品はどんどん高品質化しているが、それを手にしたときの喜びはだんだん小さくなっているのである。お酒もまた同じ道を歩んでいるようである。
 しかし、うまい燗酒は、昔日のその商品を手にしてうれしかったときの喜びを今に思い出させてくれるのである。
 うれしいは、うまいに勝るのである。

 はたして歴史は進化しているのか。庵主には必ずしもそうとは思えないのである。進化の産物である便利で重宝なワープロを操りながらも、その恩恵を享受しているというのに、そう考えているのである。歴史もまた人間の一生と同様に、爛熟、熟成期という頂点を経て死期に向かって歩を進めているのかもしれない。

 一生は、よくある語呂合わせでいけば、また一升である。呑めばなるなるお酒のようにやがて消えてなくなるものかもしれない。それは滅びることではなく、たぶん、再生に向けた死なのだと思う。
 燗酒を呑むと、考えることがひどく精神的になるのである。燗酒の味わいは深いのである


★熟成酒のうまさ★17/2/9のお酒
 日本酒の古酒がささやかに注目されている。
 がしかし、その味わいは、まだまだ一般化していない。
 というのも日本酒は新酒で呑みきってしまうという呑み方が戦後も変わることなく何十年も続けられてきたから、お酒の味は透明無垢の爽快流麗なものがあたりまえだという先入観があって、長く古酒の味わいを嗜むことがなかったからである。
 古酒を味わう文化が途絶えていたからである。
 呑み手にそれがうまいのかまずいのか判断する基準がないからなのである。呑んでもわからない酒が好まれるわけがない。

 酒を、また呑みたくなるということは、前回呑んだ酒の味が「うまい」という言葉に置き換えて記憶されているから、「うまい」は正しい、そして体によいことだという判断基準に照らし合わせて、じゃ、また酒を呑んだら「うまい」が経験できるということで酒を呑むのである。
 古酒を呑んでもそれが「うまい」という記憶として残っていないことには、また呑んでみようという行動を起こすきっかけがないということである。
 で、古酒の味わいがその「うまい」に相当するのかどうかという基準が曖昧であるために、それを呑んだ呑み手は判断ができない状況におかれているのである。
 古酒が好まれるようになるためには、まずうまいの「基準」を作ることなのである。

 これは絵の世界に似ている。
 いい絵を描く無名の画家を世に広めるためには、画廊はその絵の魅力がわかる人を少しずつ増やしていくのだという。その絵の魅力に共感できる人が増えていくと、その絵に価値を認める人が出てきて、その作品がほしいという人が出てくるから、相当の値段がつくようになるので画廊も商売になるというわけである。

 無名だったいい作品がその味わいがわかる人が増えることによって正しい評価を得るようになるのである。画廊はその絵の魅力を絵を見る人にきちんと伝えることで、まだその魅力を知らなかった感性に新しい発見を与えるのである。
 庵主がうまい日本酒の布教に努めているように、古酒の味わいを布教する人が必要なのである。
 宗教の布教はときには迷惑ではあるが、いい物、うまい酒、新しい発想の布教は生活を豊かにしてくれるのである。

 古酒はまた熟成酒ともいう。さらには売れ残りという場合もある。なんと呼ぼうが庵主にとっては出てきたお酒がうまけりゃいいのである。ただ、一般的にその古酒というのは、今の庵主には理解できない味わいであることが多い。
 日本酒の味わいのことをまるでワインみたいというのは、失礼なたとえとは知りつつ、庵主は日本酒の古酒の味わいをためらわず紹興酒みたいな味がすると言ってしまうのである。
 ワインみたいな日本酒、紹興酒みたいな古酒、ウイスキーみたいな焼酎を呑むのなら、最初からワインや紹興酒やウイスキーを飲めばいいのである。そんなまがいものみたいなもの造ってもしょうがないと思うのだが。そして庵主はまたそういう下手物も好きなのである。

 古酒の味わいはまた老ね香(ひねか)なのである。山廃造りの酒によくある乳酸由来のあの甘みというか、まったりした香り(香りに「まったり」というのは庵主が初めてか)が苦手な庵主がそれを受け付けるわけがないのである。
 とはいえ、老ね香は同じものが呑んだときに心地よかったときには熟成香というのである。惚れてしまえばあばたもえくぼなのである。
 その熟成香にはお酒の落ち着きと時のふくらみを感じて気持ちがいいのである。しっとりした味わいには酒を呑んでいるという楽しさだけではなく、美しいものを見ているような、ちょうど味のある絵を見る時の心が解き放されるような気持ちに包まれて、美にひたることができるのである。

 美というのは観念の世界である。自分の心の中にあるものである。ただ頭の中で感じるものなのである。自分の肉体を忘れさせてくれる忘我の境地が美である。観念に遊んだときに、すなわち自分を忘れている状態になれたときに美を感じるのである。
 惚れた相手が美しいのは、相手が美なのではなく、それを見る自分の心が感じているものだということを思えば、庵主がいっていることもあながち間違いでないような気がしませんか。
 多くの人がありゃ絶対に美でないという相手に美を感じることがあるのだから、美は相手にではなく自分の中にあるということである。
 熟成酒は美と戯れるための近道なのである。若い酒も、悪くはないが、きれいな熟成酒の魅力の深さにはそれは比べるまでもないのである。

 きれいな熟成酒とは、呑んだときの味わいが口の中で浮かんでいくような高揚感があるお酒である。逆に味が沈んでいくような感じのするものがある。それはそれでいいのだが、庵主にはそれは呑めない。もろに老ね香を呑んでいるとしか思えないからである。
 庵主が呑めるきれいな熟成酒は、けっしてうまいという感覚ではないのだが、しかし、体はためらうことなくそれを好むのである。どこがうまいのだろうかと思いながらも、どうしてこれが呑めるのだろうかと訝しがって呑みながらも、盃の中のお酒はのどもとを通り過ぎていくのである。

 きれいな熟成酒は、こういう表現をすると失礼かもしれないが、年をとっているのに、ふけることなく、なお魅力的な女の人のような気分なのである。そばにいるだけでも楽しいのである。きれいな熟成酒は舌を喜ばせる酒というよりは、むしろ人の気持ちを魅了してくれるお酒なのである。
 心にふれてくるだけにはまったらこわい。

 その夜、庵主が立ち寄ったお店でそういうきれいな熟成酒を呑んだのである。


★秋田のお酒★17/2/2のお酒
 東京で行なわれた「美酒王国秋田酒きき酒会」で、秋田のお酒を味わってきた。
 まずは「冬樹」を醸す福乃友である。
 いまはまだ1月なので「冬樹」ができあがっていないから、庵主の一番好きな酒を呑むことはできない。どんな酒を持ってきたのかと見てみたら、「生酒はありませんと」という立て札があって、一つは、「秋田酒こまち」という秋田県が開発した酒造好適米で醸した大吟醸と、もう一つは2年熟成の純米酒だった。
 「秋田酒こまち」は各蔵がその米でお酒を造っていたが、全体的に味がぬるい、というか、ぼんやりしている、というか、口数の少ないおとなしいお嬢さんといった感じで、呑んで面白いお酒はなかった。まだ造りが始まって2〜3年だというから、そのうち、「秋田酒こまち」で醸したいい酒がでてくることだろう。
 福乃友の「秋田酒こまち」の大吟醸も印象の薄い酒だった。いつもパンチのきいた福乃友の酒を呑んでいるから、よけいそのひ弱さが際立ったのである。
 2年熟成の純米酒は冷や(常温)なら味に厚みがあって力を感じるが、燗を付けると辛口に転んでしまうのである。厚みが感じられなくなるから燗をつけてもおいしくならない。庵主の好みの燗酒の方向とは異なる味わいだった。

 「太平山」「爛漫」「新政」「両関」「高清水」と、その名を聞けばだれもが知っている錚々たるお酒が並んでいる秋田の酒である。期待の高まるきき酒会である。
 値段が高いお酒はうまいに決まっているから、庵主は値段の安いお酒のうまいのを探してみた。
 気に入ったお酒の一つは普通酒である。「出羽の冨士」の普通酒が呑める。一升1713円である。いつもは日本酒とアルコールをまぜたカクテルみたいな酒を呑んでどこがおもしろいのかと、庵主は馬鹿にしている普通酒であるが、探せばあるものである。かなりの量の酒をきいたあとでも呑んでみたが、すうーっと入っていく。
 庵主はいわゆる利き酒というのができない。口に含んだお酒は本当に呑んでしまうから、会場に用意されたミネラルウォーターを大量に飲みながらとはいえ、かなり酔いが回っている。それでも呑めたのである。「出羽の冨士」の精撰は。

 もう一つは「福小町」の本醸造である。米は「めんこいな」で一升1733円である。ほのかな、独特の香りがうっすらと感じられるのだが、その香りに芯があってその魅力で呑ませてしまう。味のふんばりがきいているから酒を呑んでいるという味わいを感じながら呑めるのである。
 庵主がうまいと感じることのないお酒は、純米酒であってもなんとなくアルコールを飲んでいるという味わいがするのである。
 もちろん、まともな純米酒とか吟醸酒と呑み比べてみると、あきらかに格下の酒であることがわかるが、しかし、この二つの酒は最初に出てきたら、絶対うまいのである。そのあとにつづけて呑むお酒は少しずつ酒の格を上げていくとお酒が進むというものである。
 「おお、安くてもうまい酒があるもんだ。でもやっぱりいい酒は味わいがしっかりしているね」という話題につながるお酒なのである。

 最初からまずい酒が出てきたら、正しく言うとまずくはないのだがうまいという感興を沸かせるところがないために呑んでいてもちっとも面白くないお酒が出てきたらガッカリするが、しかし、安いのに興味をそそらせるお酒が出てきたから、一言、ふた言、感想を言ってみたくなるではないか。
 お客がいったことは、お客様はよくお酒をご存じですねとハイハイと聞き流して、2杯目に出したお酒の味わいも深いものがあるでしょうと次々にうまい酒を出して行けばお客も喜ぶしお店も売上が上がるというものである。
 さきにあげた2本はさそい水になるお酒なのである。

 話は変わって、特定名称酒中の純米酒というのは、その酒だけを呑んだときにはそれほどうまい酒ではないということを体験してきた。庵主はあまいお酒が好きだから、いわゆる辛口に傾いているお酒は苦手なのである。
 いくつかの蔵の純米酒を片っ端から呑んでみたが、庵主の舌にうまいという安心感を感じさせてくれた純米酒は少なかった。わるい酒ではないのだが、いま一つうまいと言わせてくれないのである。いい酒なのだろうが、何かが足りないのである。
 もっとも庵主が行く店で出てくる純米大吟醸や純米吟醸などはお酒だけでも呑めてしまううますぎる酒なのかもしれないが。

 気になる蔵は「館の井」(たてのい)である。
 キヨニシキの純米と秋田酒こまちの大吟醸だけだったが、純米はキヨニシキの味わいがちゃんとあって、庵主の好きな「冬樹」がキヨニシキなのだが、おてんば娘の性格がよく出ていた。
 大吟醸は他の蔵の「秋田酒こまち」同様これも厚化粧で素顔を見せない女のようなお酒でどんな顔をしているのか性格がよくわからない味だったが、二つの酒から漂ってくる気配がいいのである。この蔵の酒はうまくなりそうだという気魄を感じたのである。
 初めて出会った蔵だから、これまでの酒がよくなかったからだという訳ではなく、酒に生気がこもっているのである。ちょっと贔屓にしたくなるのである。庵主と気が合っちゃったのである。
 ひらがなで「たてのい」と書かれたラベルも洒落ている。

 数有る蔵の中で、庵主が最後にとっておいたお酒は「由利正宗」である。正解だった。「雪の茅舎」で締めたのである。それを好き嫌いと言っておくが、お酒には庵主がうまいと思うお酒とそうでないお酒とがあることがわかってうれしいのである。

 世の中の何がいけないかといって全部が同じというのが一番つまらない。だから共産主義とかナントカ教とかの一律主義を毛嫌いするのである。お酒の世界ぐらいはそうであっては欲しくないのである。三増酒はどれも一律の世界だから面白くないので、一律にうまいという感興がないお酒なので、そういうのはやめてくれと酒呑みは選択する自由を求めて声を上げたというわけである。
 しかし、自由はまたいいものとわるいものとが混在する差別の世界なのである。だれもが一様にまずい酒しか飲めない共産主義の世界をとるか、望めばうまい酒が呑めるがそれは少数者だけの楽しみという自由な世界をとるかということである。

 庵主はまず、本物の日本酒と模造酒をはっきり区別して、まともな日本酒の拡充を図れとして、うまい酒の「布教」に勤しんでいるのである。まずい酒を呑まされるのはまっぴらだから、うまい酒の最低基準を少しずつ引き上げてうまい酒を呑む機会をふやしていきたいとするのである。
 イミテーション日本酒はまた別の世界の趣(おもむき)であると明確に区別して、酒を選ぶか模造酒を選ぶかの選択する余地は残しておいてもいいと思うのだ。

 だいたい、庵主の身の回りのものはほとんどが模造品なのである。模造品といってはその商品に対して失礼だから、一級品を真似て作った実用品とでもいっておこうか。だから酒の模造品を蔑む理由がないのである。ただ、庵主がうまいお酒を薦めるのは、体質的にうまいお酒しか呑めないということだけなのである。
 また、どんな商品においても、だれもが一流品をほしがるとは限らないからである。一般的にいってそれは値段が高いからである。選択肢はあった方がいい。そして選びたいときにはちゃんといい物があるという状況がいい。しかし、本物とニセモノを一括して「清酒」だとか「日本酒」というのは間違っていると庵主は思うのである。