いま「むの字屋」の土蔵の中にいます

平成18年12月の日々一献


★今年のお酒を十本選ぶなら★18/12/27のお酒
 新聞では年末に今年の10大ニュースという定例の記事がある。
 その伝で庵主における日本酒の10大ニュースをと思ったが、年初に呑んだお酒はもう覚えていないし、記憶に残っているお酒といえばつい最近呑んだものばかりになるから、あまり意味がないのでそれはやめることにした。
 新聞記事の場合、今年の1月から最近までに起こった主なニュースのリストが用意されていてその中から選ぶようになっているから、選者はこの1年間の出来事を忘れていてもなんとかなるのである。
 庵主が日本酒ベストテンとか10大ニュースなんかをやると、お酒の好みは偏っているし、業界の一部しか見ていないから管見にすぎずなんの役にも立たないというわけである。

 今年は5月1日から酒税法が改正された。
 一部のお酒の定義が変わったのである。
 三増酒とその相当品はついに清酒ではなくなった。条文一つで変わるその手の清酒はまともなお酒ではなかったということである。
 つまり虚構の上に乗っかっていた酒だったのである。法律に騙されていたということである。正しく言えば、法律上、そういう酒も日本酒だと「見做し」ていただけなのである。
 日本軍を自衛隊と呼んでいるようなものである。実態を言葉でごまかすという日本伝統の手法でかろうじてお酒ということになっていたというわけである。
 その手の酒は合成清酒にまとめてしまえばいいのである。紛い物なのだから。
 と書くと、そそっかしい人は庵主は紛い物を馬鹿にしているように取られるかもしれないが、実は、庵主は紛い物も好きなのである。それは人間的だから。
 ただし、本物と偽物ははっきり区別するべきだというのが庵主の主張である。
 だれだって贋ビトン(庵主表記による)なのにそれを本物だと偽ったものを買わされるのは不愉快だろう。お酒だって同じである。不愉快を売ってはいけない。商品というのはいい気分を売るものなのである。
 贋物が悪いのではなくて、それを本物のように持ち出してくることがよくないのである。
 このお酒は本当に「越乃寒梅」なのかと疑念を抱きながら呑んでいたのでは、お酒がうまいと感じるわけがない。もし騙すときは最後までしっかり上手に騙してほしいということである。
 ただ、お酒の場合は、うまくないということですぐばれてしまうのである。そういう贋酒は、人は騙せても呑んだ体がウンといわないからである。

 酒税法ではお酒をなぜ日本酒といわずに清酒と呼ぶかというと、日本には焼酎も泡盛も黒糖焼酎も球磨焼酎もあるから、清酒はその中の一つであってそれらはみんな日本の酒だからだという。
 庵主にとって、日本酒というのはイコール醸造酒であるお酒のことである。
 焼酎を呑んでうまいと思ったことがないからである。いい酒だと思った焼酎はあるが、それは頭の中で理解したうまさであって、体が納得してうまいととろけてしまったものではないということである。
 これからもそれらの酒は頭の中で味わう酒なのだろうと思う。庵主は焼酎を呑むという風習がない環境で育ったものだからワイン同様よくわからないからである。
 焼酎を含めて日本の酒だというなのら、それらを一括するときは、わが国の酒ということで国酒といえばいいのである。
 庵主にとって、日本酒というのはやっぱりお酒のことなのである。
 総理大臣が代わると、日本酒造組合中央会がお願いするのだろう、新総理に色紙を書いてもらうのが恒例になっている。
 色紙には墨痕あざやかに「国酒」と書かれている。
 最近で風格がある「国酒」は森喜朗総理のものである。ちなみに、いちばん笑えるのは竹下登総理のそれである。
 色紙の原本か複製かはわからないが、永田町の憲政記念館にいくと歴代の総理が揮毫した「国酒」が並べられているのを見ることができる。
 小泉総理の色紙も見ていて恥ずかしくない「国酒」である。
 安倍総理の「国酒」を早く見てみたいものだ。うまい「国酒」か、そうでない「国酒」か楽しみである。奥様がお菓子屋さんの娘さんだというから甘い「国酒」かもしれない。

 日本酒はますますうまくなっていると思う。実感である。
 狂い咲きという言葉があるが日本酒は今がまさにそれなのである。
 今日呑んだお酒より明日呑むお酒の方がまちがいなくうまい。そして、それが一番うまいかと思ったらその翌日にはそれよりうまいお酒が出てくるのである。
 なぜそれほど今の日本酒はうまいのか。
 造り手の気合がこもっているからである。本気でいいお酒を造れる環境にあるからである。
 いいお酒を造らざるをえない環境にあるというべきか。
 一つには蔵の生き残りをかけた真剣勝負だからである。
 お酒はどんどん呑まれなくなっている。
 少子化でどんどん呑み手の数が減っている。だからお酒の需要が減るのは当たり前なのである。
 そしてこれまで馬鹿呑みしていた人たちが老齢化して量が呑めなくなる。お酒以外にもうまい酒はいくらでもある。さらに酒をいっぱい呑めるのが男だという気風が流行らなくなったからである。
 通勤時間が長くなって、自宅(うち) で晩酌をする時間がなくなってしまったからその需要の減退も大きい。心の余裕がないときに呑むお酒はうまくないからである。
 若い人はそういうお酒の呑み方をしない。
 大体、一気飲みをするな、飲酒運転は御法度(ごはっと)、ということが当たり前とされるようになったのである。今まではおめこぼしだったのに。日本人のお酒の呑み方がスマートになったのである。
 量はいらない、呑むならうまい酒がほしいとなるのは当然のなりゆきである。おっ、庵主の行き方ではないか。
 これまでのお酒の多くははっきりいって味わって呑むような代物ではなかった。
 戦後の米不足のときに造られた代用酒がいまでも尾を引いているのである。そんなお酒では味わってもうまいわけがないから、量を呑んでごまかすしかなかったというわけである。
 しかし、いまは違う。そういう酒を造っていたのでは杜氏としての自尊心が許さないという造り手の向上心と真っ当なお酒を造りたいという蔵元たちの努力によって数多くの美酒が造られるようになった。
 しかも、そういううまいお酒があることを知らないという人が多いことから、すこしでもお酒の知識があると、うまいお酒が選り取り見どりなのである。
 本来ならそういううまいお酒は酒造組合中央会がまっさきに呑み手に紹介しなければならないのだが、中央会の実力者である大手の酒造メーカーが造っているお酒が御存知の通りなんなのでそれも叶わないということである。
 もっとも一人の杜氏の目が行き届く造りの量は1000石ぐらいまでだというから、うまいお酒を大量生産方式で実現することは無理なのである。
 大手の酒造メーカーは、構造上うまいお酒を造ることが出来ない規模になっているのだから、いっそのこと、将来の石油不足に対応するためにガソリンに変わる燃料用アルコールのメーカーに転業してもらい、融米造りでも、米糠糖化液からでもいいから、大吟醸酒のように原料米を半分以上も捨てる罰当たりな酒造りとは対極的な一粒の米も無駄にしない粕さえ出さない効率的なアルコール造りに専念してもらって、人間が呑むに相応しいお酒は中小の真っ当なお酒を造る蔵元に任せてしまえばいいのである。
 そんな高いアルコールを造っても売れないかもしれないが、それは巨大酒造メーカーを助けるための政策である。

 最近は、今日だれもが口にできるような美酒を造り上げてきた名杜氏の仕事を引き継いだ若い造り手がお酒を造るようなった。
 そういう若手がいいお酒を造っているのである。
 本人たちはビギナーズラック(初心者のまぐれ当たり)だといっているが、きちんと造ればうまいお酒ができるということの証左である。
 料理がそうである。普通に作ったらうまいものが作れるものなのである。まずい料理を作る人はむしろ異才の部類なのである。
 普通に造ったらうまいお酒ができるものなのに、そうでないお酒を造っている大手酒造メーカーはどうやって造っているだろうか、というのは庵主のイヤミである。それは庵主の疑問なのである、と書き換えておこう。
 今、うまくもなんともないお酒を造っている蔵元(ところ)は大いに異才を発揮しているのだろう。
 3年続けてそういうお酒を造ったら酒造免許を取り上げた方がいいのではないか。酒造りのセンスがないことが証明されたわけだから。野球でいうなら3ストライクでアウトである。
 もっとも税務署は中小の蔵元の管理は数が多いと徴税上面倒くさいだけなので、当今の町村合併ではないが、できれば中小の蔵元を減らしたいと考えているようである。
 町村合併をやったところは国に騙されたといっているところもあるようであるが、蔵元の合併なり整理などが行なわれるとしたらその結果は国に騙された市町村と同じ苦汁をなめさせられることになるだろう。お酒だから苦酒(にがざけ)か。
 酒税は現在は租税特別措置法で本来の税額より少ない額を納めればいいことになっている。その措置が間もなく廃止されると蔵元の納税額はさらに増えることになる。酒は売れなくなる、酒税の納税額は増えるで経営は大変なのである。
 一説には蔵元の3割は赤字経営だと聞いたことがあるが、それが本当かどうか調べたことはないものの蔵元の経営が大変なことは確かである。
 意外と、今は逆にその税務署があるから中小の蔵元は赤字でもやっていけるというのが真実なのかもしれない。
 税務署の下支えがはずれたらかえってバタバタ潰れるのかもしれない。
 しかし、酒造りが呑み手に対する慈善事業みたいになっているとすると先行きが不安である。

 一方、呑み手は逆に今は幸せの絶頂にいるのである。
 いま日本酒の世界に飛び込んでくる人は幸せである。
 目の前には至宝といっても過言ではないうまいお酒が綺羅星の如く輝いている。
 できれば全部呑みたいけれど呑みきれないといううれしい悲鳴が出るほどである。
 庵主がお酒を呑みはじめた三十数年前とは隔世の感がある。
 逆にいいお酒がありすぎて呑むお酒を選ぶのに苦労するのかもしれない。
 今日の吟醸酒を磨き上げて来たベテラン杜氏のお酒と次代を背負う若手の造り手のお酒が同時に味わえるからである。
 その酒質が日々ますます良くなっているということはすでに書いた通りである。
 酵母は低温で上手にいじめるといい香りを出すという。今のお酒がうまいのは呑み手が蔵元をいじめているからなのかもしれない。しかし、そんな汲々としたお酒は長くは続かないということである。
 お酒のうまさは造り手の気合と気品にあるのであって忍耐と辛抱にあるわけではないからである。
 今日の日本酒の呑み手は恵まれているということである。
 そのことに気付かないのは勿体ない。目の前にある宝物に気付かないということだからだある。といっても黙っていたのではうまいお酒とは出会えないのである。というのは、本当にいい酒になればなるほど本数が少ないからそれを呑むに相応しい呑み手に行き渡らないからである。
 案外、庵主のところで引っかかってしまうという僥倖によく出くわすのである。
 そういういいお酒はどこにあるのか。その一端がこの「むの字屋」にあるということである。
 口で呑む酒もいいが、時には目で読むお酒もいいものである。すなわち、うまいお酒と出会うためにも「むの字屋」にご来庵いただきたい。うまいお酒の心に触れるためにである。

 庵主が今年最後に出会ったお酒は福井の「白駒」(はくこま)の本醸造だった。
 うまい。うますぎることなくうまいのである。もっとも、四合瓶で1500円のお酒である。
 生きていて、なにか一つでも幸せなものがあれば、それは十分に恵まれているということではないだろうか。
 あれもこれもと数多くの幸せを求めても、一人の体ではそこまでは手が回らないからである。幸せを独り占めするのではなく、みんなに分担して味わってもらえばいい。
 文化とは共有することである。
 お酒もそうである。一人であらゆるお酒を楽しむことはできない。
 庵主はその中から、呑めないにもかかわらず、日本人としての義務感から日本酒の道を選んでこの伝統とうまさを絶やしてはならないと一生懸命呑み続けているのである。
 落語家は芸のためにはいやいやながら吉原(なか)をのぞいたというが、庵主も呑めないのに日本人としていやいやながらお酒を呑んでいるというわけである。
 いいお酒の造り手がいてもそれを味わうことができる呑み手がいないとその文化は衰弱していくだけだからである。
 知音のいない酒造りはむなしいだろう。
 つまりどんなものでもそれを享受できる人がいて初めて価値は輝くということである。すなわち、お酒の文化は庵主が支えているのだという矜持からまじめにお酒と向き合っているのである。
 もっとも、時としてそれがあまりにもうまいからなのだが。

 庵主のツカミはこうである。
 「うまいということは快感なんです。快感だということは気持ちがいいということなんです。気持ちがいいからまた呑みたくなる。いま呑んでいるお酒にそれがありますか。そうでないとしたらそれは呑んでいるお酒の選び方が間違っているからなんです。うまいお酒を呑みましょうよ。うまいお酒はどこにあるかって。うまいお酒は《むの字屋》にあります」。ねっ、お酒が呑んでみたくなるでしょう。
 愛国心はならず者の最後の砦だといわれているが、お酒を嗜むことは日本に生まれたことでかろうじて日本人をやっている人の最後の心の支えなのかもしれない。
 愛国心は正義が余ってときに戦争を引き起こすが、お酒を呑んでいる分にはそのような心配もあるまい。もっとも酔っぱらって戦争をはじめるという危険性はあるのだが。
 お酒は毒なのだという認識だけは忘れてはならないのである。



★うまい燗酒★18/12/20のお酒
 燗酒の季節である。
 といっても、夏でも燗酒だという人がいるから、庵主にとって、これからの寒さがひときわ厳しくなる時期は燗酒の季節であるということである。
 毎年、この時分から燗酒のうまさにひたるのが庵主の楽しみなのである。
 さすがに寒冷の頃は冷や酒を呑むよりも、あたたかい燗酒のほうが体が喜ぶからである。
 そのお酒が口の中で甘くまろやかな味わいを繰り広げるときには、厳寒の冬も悪いことばかりではないと思ってしまうのである。

 庵主は例年12月10日ごろに呑む「初亀」が呑み納めである。その後は新年までお酒は呑まないことにしているが、その間は、酒屋を回って年が明けてから呑む燗酒を探すのである。
 探すといっても呑んで確かめるわけではない。お店の人の助言を聞いてからお酒のラベルを見てそのオーラを察するのである。
 これまで呑んだお酒の経験を総動員して、そのお酒のオーラを捉えるのである。蔵元の実力、評判、そしてそのお酒のスペック(仕様)から総合的に判断して選ぶのだが、相手がお酒である、実際に呑んでみなければうまいかどうかは分かるはずがない世界である。だからその勘は大方はずれるのである。

 本当は、庵主好みの燗酒をすでにいくつか知っているのである。だからそのお酒を買ってきて燗をつければ満足できる味わいにひたれるということはわかっている。
 しかし、毎年同じお酒ではおもしろくないから、その年に呑む新しいお酒をさがしているということである。
 これまで庵主が気に入ったお酒は、例えば「開運」の無濾過純米、「臥龍梅」の純米「備前雄町」、「竹林」の「ふかまり」等がある。
 燗を付けたときに、冷やの時には眠っていた妙なる甘さが口中に広がるお酒である。そしてまろやかな舌あたりに身も心もとろけるのである。
 あー、生きててよかったと思う一瞬である。
 
 多くのお酒は燗をつけると駄目である。アルコールが浮いてきて、お酒に酔う前にアルコールのにおいに酔ってしまうからである。
 燗をつけると、お酒の味わいが、冷やのときに比べて薄っぺらくなったように感じるものが多い。冷やで呑んだほうがうまいお酒をわざわざ味を貧しくして呑むことはないのである。
 今のお酒は冷やして呑むことを前提にして造られているから、燗にするとその味わいが崩れてしまう酒が多いのではないかと庵主は思っている。
 一般的に吟醸酒は冷やして呑めというのはそのほうがうまいからである。
 だからといって吟醸酒は燗にしてはだめかというとそういうことはない。
 何年か前の冬に呑んだ「あら玉」の改良信交の大吟醸のぬる燗はうまかった。毎晩、それを呑むのが楽しかったものである。
 話はそれるが発泡にごり酒をぬる燗にするとうまいという。たしかに、である。
 
 しっかりした純米酒や山廃のお酒、生モトの酒などが燗にするとうまいとは言われているが、なかなかそうはいかないのは、お酒には人それぞれ好みがあるからである。
 そこで、今年は「純米酒燗評会」に参加して、名だたる蔵元が推薦してきた21種類の純米酒を呑み比べてみたのである。燗酒は本当にうまいものかと。
 ブラインドテスト(銘柄を伏せての試飲)である。何を呑んでいるのかわからないのだが、最初の燗酒から参加者の間にうまいという声があがった。
 たしかに悪くはないが、しかし、庵主がうまいといえる味わいではない。
 庵主の燗酒に対する好みは世間の評価とは異なっていることがわかったのである。あれ、この程度でうまいと感じているのかということがわかった。
 庵主の場合は、燗酒の味わいに対する好みの幅が狭いということである。期待水準が高過ぎるのである。
 燗評会に出て来たお酒は、それぞれに特徴があっておもしろかったが、庵主にとってこれがうまいという決定的なお酒はなかった。

 山廃系のお酒は、まずそのにおいが駄目である。それは乳酸に由来する味わいだと聞いたことがあるが、老ね香を淡くしたようなその独特なにおいが庵主は苦手なのである。ただし山廃とはあっても必ずしもそのにおいが出るとは限らないが。
 燗を付けると苦みが出てくるお酒もいくつかあった。
 庵主が燗酒に求めるものは甘さだからこれもまた好みに合わない。
 そして、温めると、冷やの時には裏に隠れている「あの味」が表に出てくるお酒が少なくなかった。
 「あの味」というのは、いま庵主の筆力では表現できない味のことである。明らかにその味を感じているのにそれを表現する言葉がないのがもどかしい。
 専門用語では表現できるのかもしれないが、庵主は長らくお酒を呑んでいるが、そういう言葉が呑み手には伝わって来ないということである。

 実は呑み比べたお酒の中に、庵主が贔屓にしている「竹林」の「ふかまり」と「雪の茅舎」山廃純米があったのである。
 それぞれのお酒を各自が自分勝手に5段階評価をしながら試飲するのだが、その二つに、庵主は低い評点をつけてしまったのである。他のお酒と比べると味が薄っぺらいと感じたからである。
 つまり、他の山廃や苦みが出たお酒の中にあって、すなわちクセのある味わいに対して、実はそのクセこそが一度はまるとやめられなくなるのだが、そういうお酒にくらべて、二つのお酒は燗をつけてもすっきりした味わいを維持していたということなのである。
 ただ、それが甘いと感じなかったのは、山廃などのお酒が結構甘さをもっていたからに違いない。それらのお酒と呑み比べたときには二つの甘さは意外と控えめだったということである。

 ちなみに、参加者の投票の結果では、21種類中の人気ナンバー1は「雪の茅舎」山廃純米だった。庵主もいい感じだと思った「梵」の「ときしらず」純米吟醸は二番人気だった。三番目は「山吹極」純米大吟醸無濾過原酒である。
 庵主の燗酒探しはなおも続くのである。



★「鶴齢」下★18/12/13のお酒
 「鶴齢」を呑む会があった。
 まとめて6酒類の「鶴齢」を呑むという贅沢をしてしまった。
 いや、幸せに身をまかせてしまったといったほうがいい。

 16BYの「特別純米 五百万石」は私が呑める純米酒である。
 純米酒というのは米だけで造ったお酒だから、本物の日本酒だということで、一見うまそうに感じるのだが意外とうまい酒が少ないのである。
 丁寧に造っているのは分かるが華がないという純米酒はいくらでもある。きちんと造っているのは分かるがうまくないという純米酒が少なくない。それほど純米酒というのは造るのが難しいお酒だということである。
 そういう純米酒よりも上手に造られた本醸造の方がずっと色っぽくてうまいのである。
 ただし、純米酒の味が決まった時のうまさを味わったときには、アル添の酒なんかどうでもよくなってしまうほどである。
 純米酒は外れることが多い賭けみたいなところがある。だから純米酒が出てくると、庵主は果たして呑めるものかどうか、つい疑ってかかってしまうのである。
 そして、多くの純米酒は案の定、うまくないのである。
 庵主がうまいと感じる水準を超えていないということである。

 その水準をさらりと超えているのがこの「鶴齢」の特別純米酒・五百万石である。
 ぬる燗でも呑める。ただし燗をつけても、庵主が燗酒に求める甘さは広がらないのだが味がへたることがことがないから全然問題ない。
 多くのお酒は燗をつけると、それまでじっとしていたアルコールが表に出てきて、味が薄っぺらくなったように感じるものであるが、その五百万石にはそれがないということである。

 つぎは、純米「美山錦」である。これもうまいお酒である。庵主が求めている、うまいと感じるラインの少し上にある絶妙なうまさをたたえたお酒である。
 お酒を呑んでいて一番うれしいは庵主が期待している味と同じ味わいのお酒が出てきたときである。
 お酒はうますぎる必要はないのである。期待通りの味わいが一番うまいのである。

 純米酒の山田錦には65%と55%の磨き違いの2本がある。
 庵主は値段が安い方の65%で十分である。十分にうまいからである。このお酒の味は贅沢な味わいであると庵主は思う。
 贅沢というのは、まず、その味わいが凡百のお酒の味をしのいでいるということである。そして、そういううまいお酒を呑むことができる幸せのことである。
 55%を呑んでみて、あらためて55%のうまさを実感した。やっぱり55%のほうが凄いのである。
 その酸味がいい。庵主は今お酒のうまさは酸味によると思っているのだが、山田錦の55%は庵主が気に入っている酸味のうまいお酒の中の一本である。
 先に上げたあまりうまくない純米酒というのはその酸味のうまさが弱いのも一因なのである。うまくないというよりも物足りないといったほうがいいかもしれない。
 
 「大吟醸生酒」はすでにうますぎる域にはいっているお酒である。そのなめらかな酒質は口を付けたらすっと入ってしまう魔法のようなお酒である。
 以前、「梵」の特別純米大吟醸・精米歩合20%を呑んだときがそうだった。お酒が勝手に体に飛び込んでくるのである。それを体が拒むことなく受け付けてしまうのである。そのとき庵主は十分に酔っぱらっていたにもかかわらずである。
 
 「純米大吟醸」はお酒に力を感じた。これも横綱級のお酒である。うまいという言葉でいうりよも、凄いという言葉でいうのがふさわしい。
 「牧之」(ぼくし)の味わいは次元が異なっていると思った。それまでのお酒がうまいお酒シリーズだとすれば、「牧之」の味わいは精神性を求めたお酒といった感じなのである。
 
 今年の新酒である本醸造「平墅屋」はまさに新酒で、若いというだけが取り柄のお酒である。それでも結構呑めるのは旬の味わいだからである。
 私の好みは山田錦の65%。そして酸味がうまい同55%である。
 「鶴齢」のうまさをあらためて確かめることになった呑み会だったのである。


★「鶴齢」上★18/12/6酒
 新潟に「鶴齢」(かくれい)あり、である。
 庵主好みの新潟の酒の一つが「鶴齢」である。
 庵主は新潟の淡麗辛口のお酒が好きでない。軽すぎるからである。
 呑んでもなんだか頼りないその味わいが、いま一つ酒を呑んだという満足感を満たしてくれないからである。

 庵主の好みは能登杜氏が醸すしっかりした厚みを感じる切れがいい甘いお酒だからである。
 それ以前に、アルコールの度数が高いお酒が好みなのである。アルコールの度数が17度ぐらいあると、その度数だけでうまいと感じてしまうのである。
 最近は無濾過生原酒というお酒が多くなったが、無濾過といい、生酒といい、原酒といい、それらは今の庵主の好みを満たす三要素なのである。
 原酒だから17度前後の度数が出ている。
 生だから、まったりしていて酒に厚みがあって甘みを感じる。
 無濾過だから酒質に重さが感じられて甘露の趣がある。
 そういうお酒が好きなのである。
 庵主は甘いお酒でないと呑めないからである。
 麹の甘みがないお酒は、味が寂しくて呑めないということである。

 きりっと仕上がった辛口のお酒が出てくると、こういうお酒がうまいと感じる人がいるのだろうかと思うが、造られているのだからいるのである。
 それはまたその人の好みなのだから、自分が呑んでうまいというお酒を贔屓にすればいいだけのことである。
 庵主が呑んでうまいと思うお酒を喧伝するのは、そういうお酒が増えるとうれしいからである。あくまでも庵主の都合であって、いうならばプロパガンダなのである。それを真に受けることはないということである。

 庵主にとって15度台のお酒はうまくない酒である。
 水っぽく感じるからである。
 何種類かのお酒を呑み比べたときに、うまいと感じなかったお酒がどれも15度台のものだったから、庵主の体が15度のお酒には満足しないようなのである。
 ぎゃくに、アルコール度数が高いお酒を呑むと、それだけで一瞬うまいと感じてしまうことがよくある。
 結局は、甘さがあって酸味がよくなければ次が呑めないから、ただアルコールの度数が高いだけのお酒は呑めないのだが、第一印象はいいのである。

 新潟の淡麗辛口はきれいなのである。呑んでも、呑んだのか、呑まないのか分からないというのがよくない。よくないというよりは、呑んでいてつまらないのである。
 多分、新潟の土地の料理で呑むとそれが一番ふさわしい味わいなのだろうが、お酒だけを味わって呑む庵主にはそれは呑むとしても後回しになる酒だった。
 が、ここに「鶴齢」がある。
 うまいのである。
 期待通りにうまいのである。(下の巻に続く)



★古酒の彩り★18/12/1のお酒
 日本酒は、その年に造ったお酒を1年間かけて売りきって、また翌年新しい酒を造るという売り方を長く続けてきた。
 ということは造った年から何年も熟成させた日本酒を造ることはできなかったということである。
 なぜかというと、そういう酒造りに対して税務署が意地悪をして古酒を造らせなかったということであるという。酒税の上がりが少なくなるからである。
 それでも古酒がなかったわけではない。現にいま酒売場ではいくつかの古酒を目にすることができるからである。

 3年古酒、10年古酒といった古酒は絶対1年では造ることができないから、もっともウイスキーの世界では表示されている熟成年よりも短いモルトが使われていたことが、あったとか、なかったとかいう話を聞いたことがあるが、それはともかく、日本酒の古酒の多くは税務署の意に反して売れ残ってしまった酒だということである。
 それを今呑んでみるといい味わいになっているものがあるということである。
 それと、長期的な展望の下に、税務署の嫌がらせを振り切って、あるいは先見の名があった酒造指導者の助言によって連綿と古酒を造りつづけてきた蔵元がいたということである。
 いずれにしても、幸いなことにいま数多くの古酒が呑めることはありがたいことである。
 
 で、その古酒がうまいのかというと、それが問題なのである。
 うまいのか、まずいのか、ということが分かる人がいないからである。正しく言えば、うまいといっていいのか、まずいと断定していいのか、その基準がはっきりしないのである。
 というのも、日本酒は長らく1年以内に呑みきるという呑み方をしてきたから、古酒に関してはうまいまずいの評価基準があいまいなままにうちすごしてきたために、まだ味わいを評価する共通の言葉がないといったほうがいい。

 新酒なら、冷やおろしといって、せいぜい半年間程度の時間の経過を熟成と呼んできたが、それは熟成でもなんでもなく、お酒を商品として売るための最低限必要な時間だったのである。
 人間でいうならば、赤ん坊を読み書きできる子供にするまでの時間がそれだった。赤ん坊では人前には出せないからである。
 本当の熟成というのは、子供なら成長して個性を発揮できるようになった状態のことだろう。
 大器晩成という言葉があるから、熟成を人間の成長になぞらえるなら、お酒にもまた何年もたってから新酒では味わうことができない味が出てくるものがあるということである。
 古酒の味わいはそれである。大人の味わいなのである。そういう味が好きかどうかはまた人それぞれの好みということになるが。
 若い女の子がいいか、臈(ろう)たけた女性がいいかは好みである。利口な人は両方とも好きだと答えるところである。
 
 新酒の味わい方は、呑み手の間にある程度の共通の認識があるが、古酒にはまだそれがないということである。
 だから、いま古酒を呑んでその味わいを上手に表現できる人は、古酒を味わいを知る先駆者として古酒界をリードできるということである。

 新酒のうまさはストレートなうまさである。とはいっても、こってりしたうまさもあれば、軽いのにうまいという酒もあって、いろいろな味わいがあることはあるのだが、要するに直感でうまいかまずいかを判断できるうまさなのである。
 大きな声ではいえないが、新酒にはまずい酒もいっぱいあるのである。もっともそれだからこそお酒はおもしろいのであるが。
 できたてのお酒をフレッシュなうまさというが、それはセールストークであって、あんなものは酒以前の代物なのである。うまいと感じるほうが間違っているのだが、屈託のないウソは楽しいからお好きならどうぞといったところなのである。
 赤ん坊の女の子に頬ずりして美人だねと思っているようなものである。ね、おかしいでしょう。
 それに対して古酒は味をかぎ取らなければならないうまさである。
 うまい、まずいを直感では判断できないうまさなのである。
 古酒の味は、うまいと思えばうまいし、まずいといえばそれも間違いではないような味わいなのである。
 大袈裟にいえば、呑み手の教養をためされる味わいなのである。
 いよいよ、日本酒もワインのような味わい表現の世界が開けてきそうである。
 日本酒の呑み手は、すなわち庵主のことをいっているのであるが、ワインの味わい表現を読みながらつい吹き出してしまうのだが、日本酒の古酒の味わいはそれでしか表現できないかもしれないという予感がするのである。
 もっともここは日本なのだから、古酒の味わいは歌に詠むということにでも決めてくれたら短くていい。

 「木戸泉」の古酒を4種類並べて呑み比べることがあった。
 日本酒といっても、醤油みたいな色をしたものから、若いものは白ワインのような輝きを放っているものまでいろいろあって一つにはくくれないところが魅力である。
 はたしてうまいのかと半信半疑で呑んでみたのだが、おもしろいのである。
 まずいとはいえないし、すなわち庵主の心の中にあるお酒のまずいという味わいの範疇からはみ出ている味わいだということであって、かといって、新酒のうまいのを呑んだときのようなうまさとも重なることがないのである。
 4杯のうち一つだけ妙にうまいと感じるものがあったのだが、その話はまた次の機会に。