* 摂食障害とは何か?

これは摂食障害という病気に認定されている。
効果的な治療プログラムの研究が進んでいるとはいえ、
現代社会における難病のひとつに含まれるのはまちがいない。
死亡率が7〜8%、そのうち1%が自殺といわれている。
薬物療法だけでは根源的な治療にはならない。
極度のストレス、特に家族関係での苦しみが病因にある場合が多く、
長期的にカウンセリングを続けていく必要があるというのが定説である。
東中野にある『なち相談室』は、摂食障害を専門にあつかっている
数少ないカウンセリング機関のひとつである。
静寂な住宅街にある一軒家で、注意をしていないと
見過ごしてしまうほど小さな表札が出ている目立たない相談室であるが、
入れかわり立ちかわり摂食障害で苦しんでいる人が訪れてくる。
遠隔地から訪れる人も少なくない。
宣伝はぜんぜんしてないが、自助グループや親の会などを中心に
口コミで伝わっていくらしい。
カウンセラーの粕谷なちは「8割は治ります」と自信をのぞかせる。
この数字は、摂食障害の治療法が確立されていない現状では
驚異的である。
「ここに落ち着く人たちは、大手の病院から始まって、精神科や
心療内科のカウンセリングをさんざんたらい回しにされてきた人が
ほとんどです。最後の望みをかけて来ます」
定説では、命を落とす危険性がある病気なので、症状がひどい場合は、
病院で点滴を打ち、処方された薬を飲むことも必要である。
しかし、摂食障害はそれだけでは治らない。
”心の病気”である。
当然、カウンセリングが最重要になってくるが、
残念ながら多くの病院はそれを怠っている。
患者数が多くて時間がないので、ひとりひとりの患者に
懇切丁寧なカウンセリングをしない。
必然的に薬物に偏った治療になる。
粕谷なちは、このやり方に対して、こう批判する。
「摂食障害は、薬ではまったく治りません。
薬をさんざん飲まされて、逆に治らない体にされてしまうという感じもある。
初歩の段階でもっと丁寧に接してくれる人がいたら、
こんなにならなかったのに、という感じですよ。
100人いれば100通りの治り方があるんですから、
マニュアル的な治療法ではなく、どのやり方がその人に合うかを
いっしょに話しながら考えていかなければ」
実際、なち相談室に来る人たちに話を聞くと、
精神科や心療内科の医師に対する不信感が根強いことがよくわかった。
「薬漬けにされて気分が滅入ってきて、ますます症状が悪くなった」
「病院では、見下されているような気がして、
むこうのペースで観察されている」
「教科書に載っているようなわかりきったことばかり偉そうに説教臭くいう」
「信用できないから、肝心なことを話せない」 etc 。
そして、ほぼ全員が「こうなった気持ちをわかってくれない」と語っていた。
もちろんそれは、全面的に事実ではないだろうし、
思い込みの範囲を越えていないかもしれない。
しかし、そう感じてしまって不信感が芽生えてしまったのであれば、
もう心を開くことはできない。それだけでも、治療としては失敗である。
なち相談室に来た理由も聞いたが、それまで積もり積もった不信感の
反動であるような気がした。
誰もが、「なちさんも摂食障害の経験があるから、
この人ならわかってくれると思った」という。
「目線が同じ立場で見てくれるし、いっしょに考えてくれる」
「先生という感じじゃなくて、先輩とか友達という感じで、なんでも話せる」
「医者は摂食障害を『病気』としか思っていないが、なちさんは
『成長するひとつの過程』と思っているから、気分が明るくなってくる」 etc 。
相談室の雰囲気が病院の冷たさとは正反対であるのもいいのだろう。
なちを始めとする3人の女性カウンセラーは、とにかく明るく元気だ。
仕事のために無理をしている感じはなく、
純粋に楽しんでいるのが伝わってくる。
みんな決して「先生」とは呼ばず、「なちさん」と気軽に呼んで親しんでいる。
そして相談室がある一軒家はなちの親の住まいでもあるので、
生活感が漂っているのも温かな感じがする。
親や子供もすっかり相談室の顔である。
父親は趣味を活かして定期的に句会を行なったり、
故郷の群馬県での合宿で案内役をつとめたりしている。
子どもはたくさんおもちゃが置いてある待合室で、お姉さんたちと遊んでいる。
ここの雰囲気を一言でいうなら、アットホームという言葉に尽きる。
月並みな表現であるが、それしか思いつかないほど
アットホームなのである。ある女性はこう語っていた。
「最初はここに来るのが嫌だったんです。 ブルーだった。
でも 『こんにちは』と温かく迎えてくれたとき、ブルーから脱出できた。
そういう経験は初めてでした。
それ以来、ここに来ると、元気になれるんです」
なちは摂食障害を治すことは、心の便秘を治すことだという。
「私がそうだったように、摂食障害になる子は
『私はこうあるべき』 『私はこうしなくちゃいけない』
という意識が強すぎるんです。 たとえば、
『30キロまで痩せなくちゃ』とか 『人の前ではこうしなくちゃ』とか、
心にコップがあるとしたら、そういうのがパンパンに溜まっていて、
何年間もそれを持ち続けているんです。
もう濁っていて、粘り気も出ているのに、ぜんぜん出ていかない。
私はそれを 『心の便秘』と呼んでいるんです。
『便秘は万病のもと』というけれど、心もすごい病気を起こすんですよ」
心の便秘が続いているときは、何を言っても絶対に入らないので、
なちは辛抱強くタイミングを待っている。 そのうちに
「あっ、この子、なんか求めてるな」と直感でわかるときが来る。
そのときを逃さず、求めている言葉や態度などを判断して、
きちんと伝えると、心の便秘は治っていくという。
「心のコップのかさがスーッと減っていくので、
求めているものをワーっと入れちゃうんです。
たとえば、自分がかたくなに否定しているところを
『すごい、そういうところがいいわね』 と誉めてあげて、
その子が持っている素敵なものに気づかせちゃうんです。
タイミングが悪いとまったく意味がないんですけど、求めている瞬間なら、
それだけでけっこう発想が パッと切り替わっていくんです。
私は、そういうタイミングをうんと大切にしています。
1回うまくいけば、後は出して入れて出して入れてと呼吸するように、
コップの中身が変わっていくから問題ないですね」
相談室での言葉や態度だけでなく、日常生活でどんな言葉や
態度を求めているのかを探すことも重要である。
多くの場合、親の言葉や態度にたどり着く。
家庭の中でそれらが足りなかったからこそ、子どもは摂食障害になり、
無意識のうちにも親に対して「わかってほしい」と信号を送っているという。
なちは積極的に親を呼ぶ。
個人カウンセリングだけではなく、親の会も設けている。
そして、「とにかく耳を傾けて、自分の意見を絶対に最初は言わないで、
お子さんが落ち着くまで聞いてあげてください。
聞いているうちに、お子さんが何を求めていて、
何を言ってほしいのかわかってきますから」と一所懸命に伝える。
「とにかく、真っ白になって聞いてみてください」とも。
「親を巻き込んでやる場合が、いちばん早く治るんですけど、
親ってなかなか変わらない人が多いので苦労します。
子どもが治った両親に力を借りて、親の会で体験を話してもらったりして
工夫はしているんですが・・・。とにかく親に変わってもらわなければ、
救われない子が多いんですよ。
子どもが心から求めている言葉や態度に親が気づいて、家庭で出すだけで、
症状が落ち着く子や完全に治ってしまう子はいっぱいいるんです」
また、なちは子どものほうに対しても、親を攻撃ばかりしないように
カウンセリングで導いていく。
これこそが『なち相談室』の大きな方針であるという。
「親に嫌なことをされた記憶だけを引っ張り出してつなげて
『親の育て方が悪いから、こんなに不幸になった』と思っている子は多いし、
そういう時期はあってもいいですけど、そこで止まっていたら絶対に治りません。
そういう状態がつづくと、悪い記憶がいくらでも出てくるから、
どんどん深みにはまっていきます。 私のところは、そこから脱して、
バランス良く、親の良いところも見ていこうよという方針なんです。
良い記憶がたくさん出てきて、『あのとき実はこうだったなあ』なんて
親しみが自然に湧いてくるようになると、症状も良くなっていきます。
愛情の確認ができてくるわけですから」
これらのカウンセラーとしてのなちの考えは、
すべて自分自身の経験から始まったことである。
彼女は約5年間、摂食障害で苦しんだ。
それを乗り越えたからこそ、彼女の言葉には重みと輝きがある。

壊れかけていた私から 壊れそうなあなたへ
豊田正義著 (株)大修館書店 2000年6月初版