■ 河合の宝「ゲンジボタル」 ■
 



5.ホタルを育てる

 ・ホタルに取りつかれた人たち


   ホタルは日本人の心です。昔はホタルを人の魂だと信じていた人もいたと言
  います。このホタルが文明の発達とは裏腹に数を減らしていくのを見て、どう
  にも耐えられなかった人たちが、何とかこれをくい止めようと保護に、飼育に
  没頭したのです。
   ホタルの研究の先駆者は『ホタル』という本を書いた神田左京(1729〜
  1810)という人だそうです。最近『ゲンジボタルと生きる』という伝記が
  出版された、全国ホタル研究会(当時全国ホタル研究同好会)初代会長の南喜
  一郎さん(1896〜1971)は、滋賀県守山町のホタル研究と保護活動に
  一生を賭け、人工増殖の先駆者となった人です。この本にはホタル研究で活躍
  した多くの方の活躍も載っています。九州柳川の岡忠夫さん、多摩動物園の動
  物園の矢島稔・萩原昭さんのこと、そして古田先生と理科部の活躍も7ページ
  にわたって書いてあります。
   岡崎のホタル保護活動の先駆者は美合郵便局の栗田俊一郎さんで、古田先生
  はこの栗田さんとの交流からホタル飼育の道に没頭されました。
   これらの人たちが真剣に、ホタルとホタルのすむ自然環境を考えていた頃と
  言うのは、世の中が産業振興の意気に燃えていた時代なのです。今では、自然
  保護が叫ばれ、環境教育が正課に加わるようになり、各地でホタル保護活動が
  ちょっとしたブームになっています。全国各地にホタル保存会ができ、多くの
  ホタル愛好家が活躍しています。


 ・生田(しょうだ)ボタル

   岡崎ゲンジボタルが国の天然記念物に指定されたのは、昭和10年12月の
  ことです。
   江戸の昔から、東海道が乙川を渡る付近の河原には、『生田ボタル』という
  大型のホタルが発生し、旅人の目を楽しませていました。昭和に入り、豊橋〜
  名古屋間に愛知鉄道(今の名鉄)が開通し、昭和8年には蛍狩り電車を増発し
  たこともあって観光客がどっと押し寄せたことと、土地の開発や川砂利の採取
  などで、その数が急激に減ってしまい、これを心配した地元の人たちが市長に
  はたらきかけて国の天然記念物の指定を得たのです。
   指定を得た地元は、戦時中も発生地に捕獲禁止の看板を立てたり、青年団に
  よる巡回監視をしたりして保護に努めました。
   昭和23年、戦後のすさんだ心をホタルの明かりでなごまそうと美合駅前の
  蛍シンボルタワーが改築され、蛍祭が復活されました。昭和25年には、生田
  蛍保存会が発足し、蛍祭も盛大に行われるようになりました。昭和32年には
  保存会が市の優良団体として表彰されました。
   こうした町をあげての保護・啓蒙活動にもかかわらず、肝心のホタルは年々
  さらに減少し、昭和30年には栗田さんを中心に、人工増殖の研究を手がける
  ことになったのです。
   人工増殖の研究は度々の失敗ののち、昭和38年にやっと成功し、第1回の
  幼虫放流を山綱川で行う運びとなりました。このころには、もう美合地区での
  天然ホタルの発生は激減して見る影もなくなっていました。


 ・河合中ホタル飼育の歴史

   昭和41年、この年は古田先生が河合中に赴任された年です。生田蛍保存会
  の人たちが秦梨の大橋上流で蛍鑑賞会を行いました。このころの大橋付近には
  たくさんのホタルが発生していて、保存会の一行は大変満足して帰りました。
   後日、保存会長の栗田さんが河合中を訪れ、理科部に養殖幼虫を提供して、
  ホタル飼育を勧めたのがそもそもの発端です。
   古田先生は、もらった700匹の幼虫を水盤に入れ、理科部員と飼育活動を
  はじめたものの、何と一週間で全滅してしまいました。これがホタルと先生の
  本当の因縁の発端でした。
   先生と理科部員はそれから20日間、川でホタルの幼虫を探し回り、やっと
  見つけた幼虫を手がかりに、ホタル飼育に没頭していかれたのです。普通の人
  ならあきらめるところを、先生は失敗をてこにして、翌昭和43年の春には、
  8000匹の幼虫を乙川に放流するまでに発展させました。
   昭和46年にはホタルの人工飼育室が完成し、市から幼虫飼育の委託を受け
  ました。翌47年には河合地区が国天然記念物の追加指定地区として認められ、
  この年の第5回全国ホタル同好会全国大会が、河合中体育館で行われるまでに
  なりました。
   『河合のホタル』が全国的に知られるようになったのです。
   古田先生と理科部の先輩たちはその後も飽くことを知らず、飼育装置の工夫、
  カワニナの増殖研究などを進め、昭和57年にも第15回全国ホタル研究大会を
  中心になって運営しています。そして、幼虫飼育を始めて25年目の平成3年、
  全国でも受賞校の数少ない『吉川英治文化賞』をもらわれました。
   『おれに聞くな、虫に聞け』というのが古田先生の口ぐせです。25年間先生
  は常に研究し飼育活動に改良を重ねてみえたのです。
   それは飼育装置一つとってもよく分かります。先日岐阜から見学に訪れた方が、
  『以前、古田先生に飼育の仕方を教わって今でも水盤で飼育しているのに、ここ
  はずいぶん飼育方法が変わったのですね。』と感心して帰られました。


 ・飼育小屋の四季

   現在、河中のホタル小屋では、古田先生が改良に改良を重ねた飼育装置とカワ
  ニナ池でほとんど失敗なく幼虫飼育ができるようになっています。とはいえ相手
  が生き物なので油断はできません。飼育装置はプラスチックの運搬ケースに太い
  塩ビの円筒を立て、底に親指大の小石を敷いて、エアストーンで空気を送ってい
  ます。運搬ケースは扱いやすく、筒を立てることでカワニナが逃亡しにくくなり、
  小石は幼虫の隠れ家だけでなく、上からのかけ水がカワニナの糞などを円筒の外
  に送り出すので水の腐敗が防げてとても合理的です。カワニナ池は山から落ちる
  沢水を一度コイの池に落として、二基のポンプで汲み上げて段々に落とします。
  池にはビニール加工がしてあって、稚貝がとても採りやすくなっています。
   4月、幼虫放流式がすむと新入部員が入ってきます。まず、幼虫の観察と選別
  の実習です。竹のはしで幼虫をつかんでビーカーに移し、放流する幼虫と、もう
  少し飼っておくものとに分けます。それがすむと幼虫を各地に放流します。発生
  状況を調べるため、部員の家の近くにも幼虫を放流します。
   次に、幼虫のいなくなった容器をきれいに洗って乾燥させ片付けます。また、
  カワニナ池は1年間たまった泥をかき出してきれいにし、生き残りの成貝を死貝
  と選別して池に戻します。
   一方野生の元気のよい親貝を各地から採集してきて補給します。胴長靴を買っ
  てもらったので、かっこよく出かけられます。
   総体近くになると理科部は応援部に早変わりします。この頃から、新しい飼育
  装置を設置するための小石を採取してきたり、採卵用の新鮮なミズゴケを採って
  きたり忙しくなります。
   6月初めにはホタルが飛び始めます。毎晩自分の家付近の気温と発生量を観測
  します。雌の出てくる中旬以降に、先生たちが深夜に幼虫放流地で採卵用の雌を
  採取してきます。
   採卵装置はヒノキの木枠に防虫網を張ったものを使い、新鮮なミズゴケを入れ
  てから、乾燥を防ぐためにエアストーンで泡を立てて適当に水分を補給します。
  採集してきた雌はこの採卵装置の中で1匹平均約500個の卵を産みます。この
  頃からカワニナも稚貝を産みはじめるので、飼育装置に水をはりエアを入れて、
  採集した稚貝をまんべんなく配ります。稚貝はミジンコ網ですくいますが、部員
  の中にはピンセットやはしで拾う根気のよいものもいます。腰の痛くなる大変な
  作業です。
   夏休み前、幼虫が孵化してくると朝手早くスポイトですくって飼育装置に移し
  かえます。長い間放っておくと幼虫が団子になって弱るので、朝一番でしなけれ
  ばなりません。
   夏休みは当番で毎日装置の水替えと稚貝取りです。
   水替えとカワニナの補給は、このあと放流までずっと続けます。カワニナ池の
  カワニナは、9月を待たずに幼貝がいなくなってしまうので、交代でカワニナの
  発生しているところに出かけます。
   幼虫は冬でもけっこう活発に動き回るので、カワニナの補給が必要です。真冬
  のカワニナ取りはとてもつらい仕事です。


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■ 補足 ■

 

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