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日本仏教史

日本仏教史

歴史をひもとくうちに、空海という巨人に出会い、そこから、仏教とは一体何なのか勉強をしはじめました。仏教とは宗教ではなく、一種の哲学、認識論ではないかと考えています。

1.研究ノート:仏教の変遷

問題の所在

 仏教の変遷というとあまりにも範囲が広すぎて、とてもぼくの手に負える代物でないことは明白ですが、仏教とは果たして何なのかという疑問がここ1・2年、ぼくの頭の片隅に残っており、頭の中の整理をする意味で、少しまとめてみたいと思った次第です。ぼく自身、仏教徒でも何でもなく、仏教という教えに縋りたいと思っている訳でもなく、ましてや、新興宗教にかぶれている訳でもないので、ご安心いただきたいと思いますが、仏教に限らず、宗教が世界の人々に大きな影響を与えてきた事実は否定しようがなく、一応「仏教国」と見なされている日本の一員であるからには、仏教とは何ぞやと考えてみたくなった次第です。

 しかし、この疑問に答えようとすると、はたと困ってしまいます。というのは、古代インドの釈迦から発した教えが、中国・日本へと変遷していく過程で、さまざまに変容していき、これが同じ仏教なのかと思えたくなるものもあるからです。歴史の流れに翻弄され変容せざるを得なかったというのが実状かもしれません。

 正式に仏教を研究した訳でもなく、何冊か仏教に関する本を読んだだけですので、「研究ノート」とは言えないかもしれませんが、同人の方々のご意見をいただきたく、まとめてみました。


釈迦の教えは何だったのか?

 紀元前5世紀ころに釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタが唱えた教えですが、釈迦族から出た聖人ということで「釈尊」とも呼ばれていますが、当時、覚りを開いたひとを意味する「ブッダ(覚者)」という言葉から、最近の研究書では「ゴータマ・ブッダ」と呼ばれているようです。この「ブッダ」という言葉から「仏教(ブディズム)」と呼ばれています。しかし、この「ブッダ」という言葉は、当時のバラモン教で一般に使われていた言葉なので、釈迦の教えを「ブディズム」というのは少しおかしな気がします。

 梅原猛氏によれば、釈迦の教えのベースは「人生は苦」であるという認識とのことです。「人生は生老病死の過程を免れえないが、それは結局は苦である。生まれるのも苦、老いるのも苦、病むのも苦、死ぬのも苦ということであるが、これは人生を死という視点、つまり苦という視点から見た見解と言ってよいであろう。人生は苦であるというのは、釈迦にとって疑うべからざる前提であった。とすれば苦の原因は何か。それを釈迦は欲望である人間は消極的に、あるいは積極的に、いつも何かを欲求している。欲求しながらそれが得られないから人間は苦しむ。従って、その欲求を捨て、欲求から自由になれば人間は苦から免れるはずであると釈迦は考えた。そして、その苦を免れる手段が「戒・定・慧」である。戒(かい)とは厳しい道徳的な掟を守ることであり、定(じょう)とは深く瞑想することであり、慧(え)とはそういう人生の真相を知る知恵を磨くことであると、釈迦は考えた。つまり、戒律を守り、瞑想し、知恵を磨くことによって人間は欲望から自由になる。そして欲望の結果である苦を免れて、自由で清らかな人生を送ることができるというわけである」(梅原猛『三人の祖師−最澄・空海・親鸞−』P.15)

 釈迦は29才にして出家をして、35才にして悟りを開き、38才にしてその教えを説き、80才で入滅したといいます。「悟りを開く」ということは何なのでしょうか? 梅原氏が手際よくまとめた「人生は苦」であるという真実に気づくことが「悟りを開く」ことでしょうか? だとしたら、そんなこと当たり前だと言いたくなります。おそらく、ぼくが思うには「欲求を捨て去る手段に気がついた」ことが「悟り」の内容であり、それが釈迦が「覚者となった」理由ではないかと思われます。

 釈迦は存命中、自分の考えを書物にまとめることをしませんでした。数多くの経典はすべて後世のひとがまとめたもので、釈迦自身の教えが何だったのか、実は謎となっております。


経典の成立

 釈迦入滅後、釈迦の弟子が釈迦の教えを後世に残そうと、編纂事業を行います。それを「結集(けつじゅう)」といって、釈迦入滅直後の第1回結集、その100年後に第2回結集が行われました。また、紀元前3世紀頃に第3回の結集が行われ、そこでまとめられた内容が初期経典として残った訳です。釈迦本人が書いた訳でないので、経典の書き出しはいつも「如是我聞」(このようにわれわれは釈迦から伺った)で始まっております。

 その後、紀元元年頃、仏教改革運動(大乗化運動)が発生し、大量の経典が生まれてきます。また、各経典が中国に伝わり漢訳されていく過程で、中国内で新たに「経典」が作成されたりもします。これを「偽経」と言いますが、経典成立の過程を見ていきますと、釈迦自身が書いたものでない訳ですから、すべて「偽経」とも言える訳です。

 釈迦そのものの教えを原始仏教といいますが、これはすでに述べた通り、その本当の教えが何なのか分かっておりません。第1回結集で編纂された『スッタニパータ』等で推測するだけです。

 第1回結集後、仏教徒は各派閥に別れていきます。それは「部派仏教」と呼ばれるもので、その中で一番勢力のあった「上座部」から「上座部仏教」とも呼ばれております。かれらは、釈迦が29才に出家してから35才で悟りを開いたように、同じように修行を積んで、悟りを得ようとする仏教徒で、釈迦から直に教えを受けた者を「声聞(しょうもん)」といい、経典をもとに帰依したものを「縁覚(えんがく)」といいます。大乗化運動では、釈迦が38才から80才で入滅するまで、衆生を救おうと教えを説いたという事実を重視し、釈迦の本来の目的は、衆生の救済であり、自らも修行に励み、衆生の救済を進んで行う「菩薩(ぼさつ)」こそが、釈迦本来の求めていたものだと考えられました。

 大乗仏教の「大乗」とは「大きな乗り物」という意味で、これにより多くの人々を救済するのだと主張しました。一方、従来の「上座部仏教」は、自分だけを救済することしか考えていない「小乗仏教」だと蔑みました。

 釈迦の人生のどの時点に焦点を当てるかによって、大きく分けて2つの考えに分かれた訳ですから、どちらが正しいとは言えません。釈迦が述べたと言われる「経典」の中には両方の考えが含まれています。

 大乗仏教の代表的な経典である『法華経』では、大乗仏教の菩薩の考えは深淵で、一般衆生が理解できないので、「方便」として「小乗仏教」の考えを教えたのであって、釈迦の教えに矛盾はなく、これを根拠に、天台宗では、声聞・縁覚・菩薩に対して別々の仏教があるのではなく、一つの考え(菩薩乗)に帰すると考えています。

 この仏教の大乗化運動を機会に仏教の「経典」(仏典)がぞくぞくと生み出されていきます。我が国で現在よく利用されている漢訳の経典全集『大正新脩大蔵経』85巻では、「これに収められている漢文の仏典は、巻数にして11,970巻あり、B5版三段組で、実に八万ページ以上に及んでいる。これに収録されていない漢文の仏典は、まだたくさんあるし、パーリ語やチベット語の『大蔵経』も相当な量である。仏典というものが全部でどのくらいあるのか、まったく検討もつかない」(中村元編『仏教経典散策』P.26)といった具合です。


密教について

 密教とは仏教なのでしょうか? 密教は「秘密仏教」の略で、加持祈祷を行う独特の仏教と言われています。再度、梅原猛の考えを見ていきますと、以下のように書かれております。

「密教とは仏教の最終段階に出てきた仏教教派であるというふうに、私は考えます。仏教というのは、紀元前5世紀頃にインドに出現した釈迦という歴史的人物の教説に基づくのでありますが、それがインドという風土におきまして、さまざまに変化してまいります。そして紀元2世紀頃に龍樹という人が出てまいりまして、大乗仏教という新しい仏教を説いたのです。その大乗仏教がまたさまざまに変化いたしまして、最終段階に密教というものが出たと、こう思うのです。ところが、この密教というものは、はなはだインド土着のヒンズー教の影響を受けております。そして密教が隆盛を誇った後に、今度はすっかりこのヒンズー教に仏教がのまれてしまうということになるわけでありまして、仏教は密教を最後の華麗な花として、全くヒンズー教に飲み込まれ、現在インドには仏教はなくなってしまいました」(前掲書、P.128)

 梅原氏は「大乗仏教の最終段階」と言いますが、果たしてそうでしょうか? 確かに、時期的に見るとその通りですが、最澄の弟子の泰範(たいはん)が、空海のもとで密教の修行をしてなかなか最澄のもとに戻らないので、かれに戻るようにとの催促の手紙が残っており、それに対する空海の返事が参考になります。最澄の手紙には、法華(大乗仏教のこと:引用者)と真言(密教のこと:引用者)は同じであり、優劣がないはずである」と述べているが、その手紙を読んだ空海が、

「あなたは、法華一乗と真言一乗は優劣がないとおっしゃったけれど、それはちがうのだ。顕教(けんぎょう、密教以外の仏教:引用者)と密教はちがうのだ。ちょうど権教(ごんきょう:方便として示された仮の教え:脚注)と実教(じっきょう:真実の教え:脚注)と、天台のような実と天台外の大乗でも権との違いがあるように、密(密教:引用者)と顕(顕教:引用者)とはちがうのだ。最澄の顕教は他人を利する、多くの人を幸福にする教えだけど、私の密教は、自分が本当に喜ぶようにならなかったならば、決して他人の救済を図らない仏教だ。あなたは本当に喜んでいないじゃないか」(梅原猛『最澄瞑想』P83より引用)

 と泰範に代わって返事を送っています。利他の前に利己を追求する思想が密教という訳です。大乗仏教が利他を求める仏教で、上座部仏教(小乗仏教)が自己の欲望を抑える禁欲的な仏教だと仮に規定すると、密教は大乗仏教の最終段階というより、空海の言う通り第三の仏教という気がします。
 ただ、大乗仏教が発展する過程で、歴史的な人物である釈迦の他にも覚者がいたはずだという考えが生まれてきました。つまり、釈迦の教えが真実ならばそれに気づいたものが他にいたはずだということになり、その結果、多くの如来が生み出されました。それをさらに発展させて、さらに宇宙を支配する大日如来が出て、それがそれぞれの如来や菩薩などに姿を変えて教えを説いたと考えられるようになりました。これが、密教の守護神ですが、そう見ますと、密教も大乗仏教の流れの中から発生したと言えなくもありません。

 しかし、密教とは何なのか、まだ、ぼく自身よく分かりません。梅原猛氏は「空海の言いたいのは、この世の中は感覚の世界である。それはきらびやかな色を持っている。その色の世界に溺れてしまう者、それは愚か者であり、溺れることによって、迷いや苦しみが出てくる。しかし、個々の色の世界のとらわれから自由になった宇宙の本体、大日如来と一体になった人間にとっては、その色の世界がむしろ楽しいと見る。そして個々のとらわれから自由になって、自由な他人救済の行いに遊ぶことができるというふうな考え方であると、私は思います」(梅原猛『三人の祖師』P.156)


その後の流れ

 特に日本の仏教史を見る限りでは、その後の仏教の流れは、「易行化」の流れを進んでいるように思えます。ひとつは、最澄の天台宗における「大乗戒壇」の設立です。当時東大寺戒壇院で行われていた「具足戒」(正式な僧となるための資格)は小乗仏教徒のための戒律であり、大乗仏教には大乗仏教の戒律が必要だと、ときの嵯峨天皇に『山家学生式』を書いて訴えました。奈良仏教界の反対の中、最澄の死後7日後に、大乗戒壇設立」を許す旨が朝廷から届きます。

 これにより、従来の250戒が、10の重い戒律と48の軽い戒律へと大幅に軽減されます。これは、形式的な戒律よりもその後の修行に重点を置きたいということと、何よりも、天台宗自らの手で戒壇を設けて僧侶を輩出していこうとの思惑があった訳ですが、結果として、戒律を大幅に軽減することにより、その後の「易行化」に拍車をかけたと言えます。

 もうひとつの「易行化」の流れは、法然の浄土教信仰かと思います。その根底には戦国時代の社会不安と、中国で生まれた「末法思想」があげられます。仏滅後の世界を中国では以下のように考えていました。

1.正法(しょうぼう) :仏滅後先年間。仏の教え(教)と修行(行)と悟り(証)が具わっている
2.像法(ぞうぼう) :次の先年。教えと修行はあるが、悟りはない。
3.末法(まっぽう) :その後の一万年。教えのみあり、修行も悟りもない。

 つまり、ときの世は「末法の世」であり、自力では悟りを得ることができず、阿弥陀如来の御加護がなければ成仏(成仏とは、仏=覚者=ブッダになることで、死ぬことではありません。生きているうちに覚者にならなかったので、せめて死んでから戒名をもらって仏教徒となり覚者となってほしいという考えが、何時の間にか、成仏=死ととらえられるようになって来ています)できないという「他力本願」の思想が出てきます。法然の弟子の親鸞は、自力で成仏できない悪人こそ阿弥陀如来の救うべき対象であり、親鸞の弟子である唯円の『嘆異抄』で有名な「善人なをもて往生とぐ。いはんや悪人をや」という名文句を残しております。阿弥陀浄土に行くにはただ単に「南無阿弥陀仏」と拝みさえすればよいというのです。そこには、修行も戒律も不要です。ただ注意しなければならないのは、法然も親鸞も修行や戒律が不要と考えていたのではなく、「末法の世」だから、阿弥陀如来に縋るしか手がないのだと考えていただけなのです。

 ただ、このために、仏教の大衆化は進みましたが、釈迦の考えた本来の仏教の考えはどこに行ってしまったのかと、残念に思います。
 また、日本には、大乗仏教と密教がほぼ同時期に入ってきており(最澄が唐に赴き勉強してきた天台宗は隋時代の一世代前の古い仏教で、密教が流行の仏教となっておりました)、顕教と密教が微妙にブレンドされており、それも、最澄が「顕密一致」を唱えた影響かと思われます。


仏教の現在

 日本は仏教国とはいいながら、仏教の考えが何なのか知っているひとがほとんどいません。かく言うぼくも、自分の家の宗派が何なのかを知らない有り様です。その原因は、江戸時代の「寺請制度」と明治の「神仏分離令」と僧侶の俗人化によるものと思います。山野上純夫氏は次のように述べています、

「江戸時代に入った早々、日本仏教界にとって画期的な出来事が起こった。それは徳川幕府による、寺請制度の実施である。全国の住民は、キリシタン信者でないことを示すために、いずれかの檀家になって、戸籍簿に「宗門人別帳」に名前を記載してもらうこと、そして葬祭はすべてその寺院で行うことを義務づける制度であった。実施は寛永12年(1635年)であるが、正式に動き始めるには同17年までかかったとの説がある」(山野上純夫『入門仏教史』P.246)

 また、神仏分離令に関しては、かれはこう述べています。

「明治維新とともに、日本仏教界には、幾つもの嵐が襲いかかった。その第一波は、明治新政府(太政官)による慶応3年(1867)の神祇官設置と、翌明治元年の神仏分離令(神仏判然令)の布告である。前者は、神社をつかさどる重要な役所を置くことによって、神社神道をあらゆる宗教の上位に置こうとするもの。また後者は、神仏混交を排し、神社と寺院の区別をはっきりさせようというもので、いずれも徳川幕府時代の仏教優位の制度を崩そうとする狙いを持っていた」(同、P.253)

 これが、廃仏毀釈−寺院打ち壊し運動を呼び起こし、多くの貴重な財産が失われてしまいました。「明治4年(1871)には宗門人別帳と寺請制度が廃止され、翌年には(神社も含めて)「女人結界」の廃止令が出され、続いて僧侶の妻帯を許し、俗人と同じように姓(苗字)を名乗ることが義務づけられた」(同、P.256)

 僧侶は御布施を目当てに葬式でお経を読み、一般大衆も仏教の教えも分からずに、ただ単に自分の家は○○宗だからと、僧侶にお経の読誦を頼む状況になっている訳です。

 釈迦の教えという原点に戻って、その内容がどういうものなのか、現代に生かせる考えがその中にあるのか、もう少し研究を進めてみたい。

[参考文献]
1. 梅原猛「三人の祖師−最澄・空海・親鸞−」佼成出版社,1989年
2. 梅原猛「最澄瞑想」佼成出版社,1987年
3. 山野上純夫「入門仏教史−釈尊から現代までの2500年−」朱鷲書房,1993年
4. 中村元編「仏教経典散策」東京書籍(東書選書37),1979年

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2.三蔵法師のご頂骨の行方

「三蔵法師」というと、孫悟空(西遊記)に出てくる架空の人物と考えられているひともいるかもしれないが、ご存知の通り、中国は唐の時代の実在した「玄奘三蔵」(600〜664年)という坊さんである。三蔵法師とは、「経蔵(仏教の教理を説いた聖典)・律蔵(仏教教団の規律を定めた書)・論蔵(後世の仏教学者が作った経典に関する研究書)」の三蔵に精通したお坊さんのことで、元来は普通名詞だが、一般に三蔵法師というと、この玄奘三蔵を指している。

 今、奈良・西ノ京の薬師寺で、平山郁夫画伯が描いた「玄奘三蔵院伽藍壁画」が公開されているので、ご覧になられた方も多いことだろう。

 玄奘三蔵というと、唐の時代に仏教の故郷であるインド(天竺)に真の仏教を求めて、シルクロードを踏破するという、長くて厳しい旅にでて、大量の仏典を中国にもたらしたことで知られている。そして、その大量の仏典を自らが漢訳し仏教を中国に広めるのに多大な貢献をしたと言うが、この漢訳仏典というものが存在しなかったら、おそらく、朝鮮半島や日本に仏教そのものが伝わらなかったのではないかとさえ思える。玄奘三蔵以外にも、有名な仏典翻訳家はいるので、彼のみの業績ではないが、単なる外来信仰の輸入をしたに過ぎないとは言え、玄奘三蔵の業績は、高く評価すべきだと思う。

 この玄奘三蔵のお骨が日本にあると聞いたら驚くひともいるのではないだろうか。それは、今「玄奘三蔵院伽藍壁画」を公開している薬師寺の玄奘三蔵院伽藍に納められているという。その壁画を観に行ったら、薬師寺のお坊さんが話しをしていた。

 私事で申し訳ないが、その時、昔、わたしの父がお酒を飲んで酔ってくるとよく「戦時中、南京で三蔵法師のお骨を見つけた」という話をしていたのを思い出した。わたし自身は「そんな馬鹿な」と感じていて、まともに話を聞いていなかったが、薬師寺のお坊さんのお話を伺って、父の荒唐無稽な話が急に現実味を帯びてきたのだ。

 薬師寺のお坊さんによると、玄奘三蔵死後、中国にはいろいろと内乱があり、お骨が紛失してしまうのを恐れて、その頭のお骨(頂骨)だけが転々と移されて、日中戦争の最中には、南京城内に避難されてあったという。それを日本軍の「高森部隊」が発見し、中国政府に返還したが、その後、そのお骨は日本に分骨され、今に至ったとのことである。

 父の話だと「高森部隊」というのは存在せず、正式には「支那派遣軍総司令部栄一六二五部隊(第50兵站警備隊)」の「高森小隊」のことだという。昭和17年のこと、父はちょうど初年兵で、軍事訓練中に南京の紫金山の山頂で、同年兵が見つけ「何だろう」言っていたところ、父が「玄奘と書かれてあるから、あの三蔵法師のことだ」と言ったら、高森小隊長が「俺が預かっておく」と持っていってしまったとのこと。父はその後、南京捕虜収容所勤務となり、その後どうなったかは知らないという。「あの三蔵法師のお骨はどこへ行ったのか」と気にかけていた父に、薬師寺にある玄奘三蔵院のお骨のことを話したら、大変喜んでいた。「戦時中の日本はひどいことをした」といつも話していた父には予想外の吉報であったようだ。

『平山邦夫と玄奘三蔵法師ものがたり』にはその後の経緯が書かれている。それによると「一九四二年の末、当時南京に駐屯していた日本軍の高森部隊によって偶然にも玄奘のご頂骨の入った石棺が発見されました。ご頂骨は翌年、一緒に埋められていた仏像や副葬品とともに南京政府に返還され、南京城内に安置されました。さらにその翌年の玄武山上の塔の落慶式典には、日本側も参列しています。激しい戦禍にありながら、玄奘の魂が日本と中国の敵対する者同士を一同に集めたのかもしれません。さらに、中国側からは、日本への分骨の提案が出されました。一九四四年十月、第二次世界大戦のまっただ中のことです。空襲の被害から逃れ、ご頂骨が無事に安置できるよう選ばれたのは、玄奘が長安帰還後に経典翻訳を行った大慈恩寺と共通の名を持つ、埼玉県岩槻市の慈恩寺でした。それから時を経ること十数年、日本では最も玄奘とゆかりの深い薬師寺に、玄奘のご頂骨が分骨されることになったのです。そのご頂骨を安置するために建立されたのが、玄奘三蔵院というわけなのです」とのことである。

 なかなかいい話だと思うが、如何でしょうか。

[参考文献]
1. 「美術の窓」編集部『平山郁夫と玄奘三蔵法師ものがたり』生活の友社、2001年
2. ひろさちや『仏教の歴史6:禅の道・念仏の道』春秋社、1989年

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3.空海の長安遍路

 延暦23年(804年)7月6日のこと、空海は、遣唐船団の第一船に乗り込み、肥前田浦港を出航した。第二船には、後のライバル、最澄が乗船していたが、当時、無名の空海は、20年間、唐に滞在し勉学することを義務付けられた「留学生(るがくしょう)」として遣唐使に加わっていた。すでに比叡山に一乗止観院を建立し、桓武天皇の厚い帰依を受けていた最澄は、高僧にのみ許された短期の視察を目的とした「還学生(げんがくしょう)」として参加しており、遣唐船団の出帆時、最澄は空海の存在を気にかけていたとは思えない。

 唐に滞在し、長安にいる密教の第一人者である恵果和尚のもとで密教を伝授された空海は、大量の密教法具や経典を携えて、20年の予定が2年ほどで帰国し、日本に真言宗を確立して行く。その後のことは、最澄と空海の交流の手紙などが今も残っており、空海の事跡をある程度掴めるが、遣唐使に加わるまでの経緯など、空海の足取りについては、謎が多い。

 最澄は「秀才」で空海は「天才」といった印象が非常に強く感じられる。

 福州赤岸鎮に漂着して、大使の藤原葛野麿が福州の観察使(長官代理)の信頼を得るのに手間取っているときに、葛野麿の要請で空海が文章を綴ると、観察使はその流麗な文章を見て、すぐさま入唐を許可してくれたという。英会話に苦労しているものからすると、唐へ気軽に行けないような空海がどのようにして語学を習得したのか、不思議でならない。

 謎だらけの空海であるが、最近、気になって仕方がないのは、長安に着いてからの空海の足取りである。8月に赤岸鎮に漂着した第一船は、9月にようやく空海の書いた文章で上陸許可が得られ、11月に長安に向って出発する。

 12月23日に空海らは長安に入り、25日には皇帝に拝謁する。翌年の2月に長安に残った橘逸勢とともに西明寺に住むようになってもなお、何故か空海は恵果和尚を訪れず、長安の都を隅から隅まで歩き回り、マニ教や拝火教の寺院や礼拝所を訪れたり、サンスクリット語(梵語)を習うために、北インド出身の般若三蔵や牟尼室利三蔵から教えを受けたりしていた。

 実は、空海が目指していたのは、唐ではなく、天竺(インド)だったという観方もある。スケールの大きな空海は、本物の密教を習得するために、インドに行き、釈迦が話した原語(サンスクリット語)で密教を理解しようとしていたというのだ。語学の天才である空海なら、もしかしたら、そのようなこともあったかも知れない。しかし、天才・空海は、二人のインド出身の僧侶から、密教の真髄を理解してしまった。だから、密教の技法を習得するくらいだったら、恵果のような中国僧から伝授されてもかまわない。だから、空海が恵果和尚を訪れるのが遅れた。ひろさちや氏はそのように考えているが、もちろん、それを裏付ける資料は何もない。

 一方、小野稔氏は、隋のときに栄えていた密教も、唐代に入り、道教が国教と定められてから、密教は衰退の一途をたどったと見る。道教一色となった唐で、衰退した密教の教えを受けるべきか逡巡していたというのだ。現在、西安(長安)にある「碑林博物館」には、多くの重要な石碑が保存されているとのことだが、7世紀の始めに、名筆家の欧陽詢(551〜641年)が書いたという石碑の復刻版が展示されているとのこと。石刻されて「樓観台」(西安の西南約50キロほどの所で、唐最初の宮殿「宗聖宮」のあったところ)に置かれていた碑の内容は、9世紀に空海が長安をうろつくころは、歴史の一面を物語る貴重な資料だったと考えている。小野氏が原文を読んだところ「欧陽詢の碑の中から汲み取ったのは道教思想以外のなにものでもない」という。小野氏は、自ら樓観台を訪れたときに、道教寺院の僧から「千年以上も前に日本の僧が訪れたとの古記録がある」と聞かされ、空海のことではないかと、空海研究を始めるようになったとのこと。

 当時の唐が小野氏の言うような状況にあったというのは、案外見過ごされているところではないか。空海が、長安で異教の寺院を空海が色々と訪れているのは、もしかしたら、それが原因かもしれない。しかし、結局、道教ではなく密教を選び、恵果和尚の元で伝授してもらうようになった経緯が、この説明ではどうも理解できないのも確かである。

 空海の長安遍路。果たして、若き空海は異郷の地で、何を考え、何をしていたのか。僕の空想は膨らむばかりである。

[参考文献]
1. ひろさちや「空海入門」中公文庫、1998年
2. 小野稔「空海−長安遍路・空白の日々を探る−」蒼岳舎、1999年

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